10枚に1枚当たる、宝くじ

ふと思い立って、宝くじを購入。サマージャンボです。
この当選賞金って、最高7億円なんですね。
「もしも当選したら」を夢想するのは、購入者に与えられたほとんど唯一の特権です。
ということで瞑目し、夢想モードに突入。
とりあえず、靴をひとつ新調します。かかとがかなり傷んでいるので、そろそろ替え時です。
それでも残りが・・・まだ6億9千999万円。
さて、あとはどうしたものか。途方に暮れてしまいます。
7億円という金額には、「使い途を考える」という楽しみを逆に奪われてしまうような威力があります。

こんなことを考えるのは、 『身の上話』(佐藤正午:光文社文庫)という本を読んだ影響かもしれません。



この本、内容をかいつまむと、ヒロインは、とある地方の書店で働く女性。ひょんなことから宝くじを買い、2億円の高額当選したことを知ります。さまざまな事情がからまって、その賞金を持ったまま逃避行をすることに・・・というようなお話。読み始めると止めようがない、たくみなストーリーテリングが光ります。

いくら大金でも使い続ければいつかは無くなるのが道理。でも、この物語では、ヒロインがどんなにぜいたくにお金をつかっても、いっこうに目減りしてゆく実感が伴わない、そんな様子が妙に生々しく描かれていて心に残ります。浪費によって満たされるのではなく、内側からわじわとむしばまれていくようなむなしさ。湯水のように使えるようになったものからは、湯水の持つ価値さえも消えてしまうのでしょうか。

うっかり不老長寿になる薬を飲んでしまった人間がいたら、同じような気持ちを抱くかもしれません。もし1000年の長寿を約束されたら・・・はじめのうちはたしかにうれしいでしょうね。でも、知っている人たちはみんな先に死んでしまいます。録画済みのDVDもそのうちに見尽くしてしまいます。そのあとに待ち受ける、長い孤独な老後。見えないゴールが果てしなく遠すぎて、粛然としてしまいます。

この本を読んではじめて知ったことがあります。
取扱い銀行から、宝くじ高額当選者に配布される小冊子があるのだとのこと。

この小冊子、「受け取った当せん金は、とりあえず安全な場所へ」とか、「後悔するような軽はずみな言動に注意する」、「当せん直後は、興奮状態にあるという自覚を」など、なかなか実践的なアドバイスが書かれているようです。「自分の性格やクセを見つめなおそう」、「当せんで、自分そのものが変わることはない」、など、自己啓発本的な項目も用意されているみたい。「当せんは、幸せになるための手段の一つ」という箴言もある。
高額当選は「幸せ」そのものではない、と、「浮かれる心」に釘を刺しているわけですね。

「幸福」とは何か、というようなややこしいことはさておいて、やはりせっかく買った宝くじ、とりあえずは当選してくれなくてはつまらない。むなしくなるのも粛然とするのも、幸福となるのも不幸となるのも、まずは当選してからの話です。

是枝裕和監督の 『海よりもまだ深く』という映画の主人公は、ギャンブル好き。離婚した妻と暮らす息子に、宝くじを買ってあげます。父親らしいことのひとつもしてやりたかったんでしょうね。でも元妻から「宝くじなんてギャンブルだ」と叱られて、「ばかを言うな、お前は全国60万人の宝くじファンを敵に回したぞ!」などとやりあうシーンがありました。



ラストシーンでは、嵐の中でこの宝くじが散乱してしまい、息子・元妻と闇の中を一緒に探し回ります。「1枚は当たるんだぞ」と懸命になる主人公(父親)。たしかに、10枚のうち、1枚は当たります。なけなしのフトコロから、せっかく息子に買ってあげた宝くじ。親として、懸命になるのもわかります。ささやかな夢であっても追いかけ続けることこそが大事なのだから。でも、たとえ人生を賭けて追い求めていた夢であっても、あきらめることを受け入れなければいけないときが来る。夢を追うこととあきらめること。ふたつの相反する思いが、雨に濡れそぼった宝くじに託され、見事に凝縮された場面でした。

それにしても、10枚に1枚は当たる。こういう発想、いいですよね。夢を追ったりあきらめたり、そのバランスの中でたしかに手元に残る1枚。その1枚を「お守り」のように大事に思うことができれば、「幸福」かどうかはさておくとして、そんなにおおげさな「不幸」も寄せ付けないような気がします。

それでは。

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歌舞伎座は熱狂の坩堝(るつぼ)

歌舞伎座「七月大歌舞伎」夜の部を観に行きました。今回予約が取れたのは、二階席最前列中央の座席。ワイドな舞台全体を見渡せるのがうれしいポジションです。

演目は、「通し狂言 駄右衛門花御所異聞」。海老蔵が一人で三役の大活躍をします。舞台上での「早替わり」もふんだんに楽しめます。主人公となるのは、白浪五人男でおなじみの日本駄右衛門という大盗賊。この大悪党を、海老蔵は堂々と演じています。これだけのスケール感が出せるのは、海老蔵ならではだなあと思ったりもしました。

この日本駄右衛門という「怪盗」、自在に変装して悪事を働きます。ちょっと「ルパン三世」みたいです。ただし、可愛げや愛嬌はぜんぜんありません。むしろ、世界征服を企てる「悪の軍団」のボスに近い。終盤では、ゾンビの群れを操ったりして、かなりやりたい放題です。いっぽう、最後まで正体がつかみにくい「奴のお才」という女性は、ちょっとだけ「峰不二子」みたいだったりします。・・・というように、登場人物や筋立てにじぶんなりの見立てをさまざま楽しめる、外連味たっぷりの演目でした。

そして、いよいよ海老蔵の長男、4才の勸玄くん登場です。花道を「とことことこ」と進み出てきて、舞台から三分、揚幕(あげまく)から七分あたりのところ(七三の場所)で見栄を切った瞬間、場内全体が一気に沸騰しました。まるで異次元空間です。そして宙乗り。白狐の衣装を身にまとい、海老蔵に抱かれて宙に浮きます。勸玄くんが空中で手を振ったときがクライマックスでした。沸騰した熱湯がひっくり返って大渦を巻いた瞬間です。

あとになって思えば、場内のこの興奮、勸玄くんがただ「かわいい」ということだけが理由ではなかった気がします。今回はとくに、この父と子を応援したい、という、すべての観客に共通の思いがありました。その「思い」が、まさに結晶化し、炸裂した瞬間だったのでしょう。

この勸玄くんも、いずれは海老蔵を襲名するはず。その襲名披露の場に、この歌舞伎座の客席に、自分もまた立ち会うことができるだろうか。ずいぶん先の話になるけれど、できるものなら立ち会いたいものですよね。凜々しい青年となった「海老蔵」の姿に、この日の勸玄くんを二重写しに見ることができたらうれしいだろうなと思いました。

それでは。



アオサギの秘かな決意

大エルミタージュ展(六本木・森アーツセンターギャラリー)に行ってみました。クラーナハやティツィアーノなど、いちど通り過ぎたあとに後ろ髪をひかれ、ステップバックしてまた眺め直したいような作品がずらりと並ぶ、見応えじゅうぶんの展示でした。
そのうちのひとつが、たとえばこんな作品です。

鳥のコンサート

フランドルの画家スネイデルスが描いた動物画で、タイトルは「鳥のコンサート」。
開かれた楽譜を前にして指揮をとるフクロウの周りに、いろいろな鳥たちが集まっています。
みんな仲良く声を合わせ、青空を天まで届けとばかりに合唱をしているのでしょうか。
鳥には鳥の「連帯」があるのだ、ということを思わないではいられません。

なぜか、ちゃっかりコウモリがまぎれたりしています。
猛禽類代表の鷲に、「おまえ、鳥と違うだろう」と「出て行けコール」をされているみたいでかわいそうです。

同じく、そのコウモリに因果を含めて立ち退かせようとしているのは、どうも「青鷺(アオサギ)」のようです。
このアオサギ、ほかの鳥たちに比べて栄養状態がよくないように見えます。
そのせいでギスギスしているのでしょうか。
そうではなく、たぶん、もともと融通が利かない性格なのでは。コウモリは哺乳類。仲間と認めるわけにはいかない。
原則を貫けばそういうことになります。原則は大切、でも原則に厳しすぎると、ときに敬遠されたりもしますね。ひとつ間違えば、みんなに嫌われてしまいます。

そういえば、枕草子でも、「鷺は、いと見目も見苦し。眼居(まなこゐ)なども、うたてよろずになつかしからねど」(第38段)、要するに「見苦しく、目つきなども気味が悪く嫌な感じで好きになれない」、と、さんざんな言われようでした。
見た目で損をするタイプの鳥なのかな、と思います。

これは、つい先日出会った、川辺にたたずむアオサギです。

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動物画の中のアオサギに比べて、栄養状態に問題はなさそうだけど、なんだかとても険しい目つきをしています。
場所は、広島の平和記念公園の脇を流れる元安川。視線の先にあるのは原爆ドーム。

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このアオサギの目つきには、見た目でどう思われようが揺るがない決意がみなぎっています。
原則には例外などない、と語っています。
「決意」ということばをかたちにすれば、こういう険しい目つきになるんだろうなあと思います。

じぶんにもこういう目つきをした瞬間というものがあったのだろうか。
考え込んでしまいますね。
そもそも、なにかを「決意」したことがあったのかどうかも危ういものです。
「決意」すべきときにはきっぱりと「決意」しなければいけない。そう決意しようと思います。
いま、ぼくの目つきは、かなり険しくなっているはずです。

それでは。



それを贖(あがな)うことは許されない(『劇場』(又吉直樹)を読みました)

文芸誌「新潮」に掲載された、又吉直樹の新作「劇場」を読みました。
小説って、できるだけ先入観や予備知識など持たずに読みたいと思うんだけど、この人の作品の場合、それはとても難しいです。
したがって、「あの芥川賞を取った」、「あの」又吉直樹の、「あの」処女作「火花」に続く二作目を、単行本化に先立って読んでみました。

夢を追いながら傷つき、ボロボロになり、目指すべき場所さえ見失う。幸福そのものに思えた同棲生活も、気づいてみれば相手を深いところで損なってしまう。それはもう、いくら悔いても贖(あがな)うことさえ許されません。必ずしも目新しいとはいえないテーマだけど、最後まで一気に読ませる力があります。次作を読む際は、余分な「先入観」はずっと薄らいでいると思います。

ボクシングでは、選手をボクサータイプとファイタータイプに分けることがあります。
おおまかにいえば、相手との距離を保ちながら戦うのがボクサータイプ。自分は打たれずに相手を倒す、そんな勝ち方を目指します。いっぽう、相手の懐に飛び込み、しゃにむに接近戦を挑むのがファイタータイプ。どれだけ打たれても打ち負けずに相手を倒す、そんな戦い方をするボクサーです。

又吉直樹の本作(「劇場」)の主人公は、がむしゃらにインファイトを挑み続けているように見えます。ただ、彼には、パンチ力があるわけではない。ないことを自分でじゅうぶんに分かっています。分かっているのに、いや、分かっているからこそ、距離をとって戦うことができない。相手の懐深く飛び込み、持っている限りのパンチを繰り出し続けるしかない。当然、自分もぼこぼこに殴られます。でも、「夢」に近づくにはそうするしかない、肉をすべて切らせなければ骨は断てない、ひたすらそう思い込んでいるみたいに見えます。

でも、同棲している大好きな彼女には、このスタイルを貫けない。生活の中に二つの基準(スタンダード)を抱え込んでしまうことで生じる「ゆらぎ」。そういう迷いやゆらぎの中から得るものと失うものがあるとして、そもそもその両者は天秤にかけることなんてできるのだろうか。そんなことも考えさせられてしまいます。

たまたま同じタイミングで、村上春樹の新作(「騎士団長殺し」)を読みました。こちらでは、ボクサータイプの主人公が、いつもどおりひょうひょうとアウトボクシングをしようとするけれど、知らぬ間に「境界」がおぼろになり、別の空間への「入り口」が開き、インファイトに引きずりこまれそうになるけれど、間一髪で相手との距離を取り戻し、すべてはドローになりました、というような物語でした(たぶん)。

なにかに戦いを挑めば、又吉作品のようにボロボロになることを避けられず、といって平和に暮らしたくても、春樹作品のように、邪悪なる存在は虎視眈々と魔の手を伸ばしてきます。
はてさて、どうしたらいいんでしょうね。ここが思案のしどころですね。


それでは。


行く人と帰る人と(映画『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』)

お正月の遊びといって思い出すのは、百人一首です。
子どもの頃、大人同士の源平合戦に混ぜてもらっているうちに、いくつかの歌は自然に覚えていました。
あのころは、いろんなことを自然に覚えられたんですね。
歳月を経たいま、すべてのことは自然と忘れます。
「覚えていない」ことさえ、たちどころに忘れます。
なのに、子どもの頃に覚えてしまったことだけは、いまだに思い出すことができる。
頭の中がどうなっているからなのか、なんだか不思議な話です。

百人一首の中で、子どもの頃に覚えて忘れていない歌のひとつに、蝉丸法師の歌があります。

  これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関

坊主めくりのときに蝉丸法師の札を引くと、座が一気に盛り上がったことと重ね合わせて覚えています。
坊主めくりには「蝉丸ルール」と呼ばれるものがあるそうだけど、それはまた別の話。
この歌の意味は、こんな感じになります。

行く人も帰る人も、知る人も知らない人も、みんなが出逢っては別れる坂、「逢坂の関」とはそういうところ・・・

公開中の映画『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』は、この歌を思い出させます。
ある日、電車の中で出逢った女性に一目惚れしてしまう主人公。
でも、彼女は、どんな神様のいたずらなのか、時間軸を逆行しながら生きています。
だから、ふたりが恋人同士でいられるのは、お互いの時間が交錯する40日あまり。
まさに、ひとつの時間軸のうえで、「行く人」と「帰る人」が出逢ってしまう。
年に一度の逢瀬が約束されている織姫と彦星よりも苛酷な運命のなか、淡いラブストーリーが描かれます。
映画の舞台となるの京都の街は、「逢坂の関」のイメージにもぴったりな感じではありました。

別れるための出逢い、その運命を微笑みながら受け入れるヒロイン(小松菜奈)が印象に残ります。
堪えきれずに流す涙は、そのまま淵となっていつまでも流れ続けるのかもしれません。
そういえば、百人一首には、こんな歌もあります。

  思ひわびさても命はあるものを 憂きに堪えぬは涙なりけり

どれほど辛くても命はあるというのに、生きてはいけるというのに、堪えきれない悲しみに涙があふれてきてしまう・・・

この涙のせつなさはひとしおです。

行く人、帰る人、みんなすれ違ってふたたび出逢うことはない。
思えば蝉丸法師も罪作りな歌を詠んだものです。
この歌さえなければ、この世のすべての出逢いはハッピーエンドになったのかもしれないのに。

それでは。



東京の空の片隅に

三が日、いいお天気が続きました。
今年も初詣は亀戸天神。
行列の長さも例年どおりです。
待ち時間はおよそ1時間20分。
牛歩を続けて、ようやく太鼓橋を二つ渡ると、本殿が見えてきます。
でも見えてからが遠い。まだあと30分ぐらいは並ばないと、と思いつつ、手持ちぶさたに空を見上げました。お昼過ぎの空の、左側にはスカイツリー、そして・・・それだけ。どこを探しても雲のかけらも見あたりません。まったくもって、いいお天気でなによりです。

と思って見上げていたら、遠く彼方の一点から、なにか白いものが浮かび上がってきました。機影です。音もなくゆっくりと近づき、次第に「飛行機のかたち」となり、やがてまたなにか「白いもの」に戻って消えていきました。消えたと思ったら、またもとの方向からきらりと光を反射して、別の機影が近づいてきます。この空は旅客機の航路だったんですね。次々と消えては現れる機影を、その数8つまで数えたところで、気がつくと行列の先頭まで進んでいました。二礼二拍手一礼。今年もよい年でありますように。

お参りを終えて、ふと思いました。
元旦の神社の本殿の彼方の青空。そこを静かに横切ってゆく白い機影というのは、ことによると吉兆なのではないか。
そんなふうに思えるのは、いまが「平和な日常」だからこそなんでしょうね。
72年前の3月10日未明には、この同じ空を巨大な銀色の機影が覆い尽くしたそうです。その腹からまき散らされた焼夷弾は、この町もこの町に続く町もそのまた隣の町も、残らず焼き尽くしました。「いま」が72年前でなくて本当によかった。

『この世界の片隅に』という映画を観ました。
戦時中の広島・呉周辺が舞台です。どんなに物が不足しても、日々の生活を懸命に生きる少女の姿が描かれます。
でも、かけがえのない「いま」という日常の上に、機銃が掃射され、焼夷弾が落とされ、そしてきのこのかたちの雲を生む、あの「爆弾」が閃光を放ちます。見慣れた空に、ある日いきなり異物のような影が現れ、大切なものを根こそぎにしてしまう。

「みんなが笑うて暮らせりゃええのにねえ」

映画の中にある言葉です。
ほんとにそうですね。みんながにっこりと会釈を交わし合えるような毎日。
そんな毎日が続くといいなと思います。
空を横切る機影を見てのんきに「吉兆」だと思えるような毎日が、ずっと続くといいなと思います。


それでは。



「時」の鎖を断ち切る(映画『君の名は。』)

先月、東京都心で雪が降りました。
11月としては54年ぶりのことで、史上初の積雪となったところもあったそうです。
ちょうどこの日、東京から神奈川の三浦海岸まで出かける用事がありました。
1時間半ぐらいで着く予定だったけど、雪のためダイヤが乱れてしまい、途中駅で何度か時間調整することに。
結局、40分ほどの遅延で到着しました。
ダイヤどおりに進まない電車の窓から降り続ける雪を見ていたら、ふと新海誠監督の『秒速5センチメートル』という作品を思い出しました。ちょっと似たシチュエーションのような気がしませんか?まあ、「待ち人」がまったく異なるのは仕方ないこととして。

新海誠監督の作品には、「伝えたいのに伝えられないこと」のもどかしさ、せつなさが通底しています。人と人とを繋ぐツールがどれだけ進歩しても、何かしらが立ち塞がり、その思いが相手に伝わることを妨げます。
妨げるもの。それは降雪のような自然現象であったり、お互いの間に横たわる距離であったりします。『ほしのこえ』(2002年)という作品では、この距離はじつに「光年」の隔たりを持つまでに至ってしまいます。

新作『君の名は。』を観ました。
今回、人の恋路を邪魔する野暮は、「空間」ではなく「時間」です。
かくも手強い障壁を乗り越えて、思いはふたたび繋がりあうことができるのか・・・・

この映画には、古今の過去作品をオマージュしているような気配があり、新海監督の映画愛を感じます。
個人的に想起したのは、たとえば『ある日どこかで 』(1980年、アメリカ)。
この映画で、主人公は「時間」が築く城壁に果敢に立ち向かいます。
その愚直なまでの一念は、そこに小さな穴をうがつ。
でも、その穴から溢れ出る奔流は、逆にたちまち彼を呑み込んでしまう。
甘さとほろ苦さがブレンドされた、忘れがたい名作です。

『時をかける少女』 という映画もありました。
何度も映画化されている中で、なんといっても思い出されるのは、原田知世がヒロインとなった1983年版。
北原白秋に「どくだみの花のにほひを思ふとき青みて迫る君がまなざし」という歌があるけど、この映画を思うたびによみがえるのはラベンダーのあの香りです。
せつなさ溢れるラストシーンから反転した爽やかなエンディングテーマが心に残る映画でした。

『君の名は。』という映画が想起させるのは、こういった過去の映画だけではありません。
たとえば、夏目漱石の『夢十夜』
この小説には、「100年の後に百合の花になって会いに来る」と言い残して息を引き取る女性がいます。その墓の傍らで待ち続ける男がいます。
いつしか時は流れて、そこに一輪の蕾が花びらを開きます。

『君の名は。』は、こういったさまざまな「物語」と通底する美しさを感じさせます。
「時」の鎖を断ち切ったとき、絶望や孤独の彼方からやがて降りてくる一条の「ひかり」。
映画の中から放たれるこのひかりを浴びると、視界が揺れてゆがんで溶けるおそれがあります。注意が必要です。

それにしても・・・
通信機器の発達は日進月歩。
遠くない将来、「光年の壁」も「時間の障壁」も超えたスマホが登場するかもしれません。
さらに、「この世」と「彼岸」を繋ぐスマホを、スティーブ・ジョブスが開発中・・・・
だったらいいですね。大いに期待したいです。

それでは。



「空洞」を満たすもの(映画『永い言い訳』)

いま、東京では、豊洲というところの地下に見つかった空洞をめぐって、てんやわんやの事態になっています。
どのように収束していくのか、まだ予断を許しません。
「さっさと埋めてしまって、なかったことにしてしまえばいい」という訳にはもいかず、右往左往するひとたち。
とつぜん降って湧いたような「空洞」とは、かくもやっかいなものかと思います。

「空洞」は、建設予定地の地下のみにとどまらず、誰彼かまわず、いきなりその胸の奥底に出現することがあります。
「喪失」が人の世の常なのだとしたら、「空洞」をかかえて生きることもまた避けられないのかもしれません。
では、ぽっかり空いたその暗闇は、盛り土をすることでリカバーできるのか。
そもそも、それは、何かで埋め合わせができるようなものなのか。
そこに湧き出し続ける「悲しみ」は、ほかのどこに持っていったらよいのか。
誰にとっても「空洞」というのはやっかいなものですよね。

公開中の映画『永い言い訳』を観ました。

永い言い訳

不慮の事故でいきなり妻を失った小説家のお話です。
なのに主人公は「これっぽっちも泣けない」ことに戸惑います。
どうも、彼の中の「空洞」は、「妻の死」以前のもっとずっと前から、そこにありつづけていた。
そのことに気がつきます。
じぶんの体の中心に居座る、黒々とした「空洞」。
それは、誰を寄せ付けることもなかった、秘密の場所です。
彼自身の「本音」でさえ、そこには居場所がありません。
彼はあせります。
せめて「悲しみの涙」でこの空虚をいっぱいに満たせたら。
だけど、「これっぽっちも泣けない」彼には、それすらままなりません。

なんだか難儀な話ですね。
観ていて息が詰まりそうになりました。

それでも映画は、結末を迎えます。
「先送り」でもなく「一時しのぎ」でもない結末に思えます。
からっぽの自分を丸ごと受け入れ、あるがままの自分を人にも受け入れてもらう覚悟。
自分の延長が「他者」であり、その「他者」もまた「受け入れがたい」ものを受け入れて生きていることを認める勇気。
「空洞」はどこまでいってもやっかいでありつづけます。
でもまずそこに「他者」のまなざしを光として満たす、そこから始めることが必要みたいです。

豊洲の地下空間問題で頭を悩ます人たちも、この映画を観れば落としどころがすぐにわかる・・・・かもしれません。
「他者のまなざし」はあなどれないです。
どうか「先送り」でもなく「一時しのぎ」でもない結末になりますように。

それでは。



「自分の仕事をしただけ」(映画『ハドソン川の奇跡』)

「トム・ハンクス主演の映画に、はずれなし」という格言が辞書に搭載される日も遠くはない・・・
そう思わせられる映画を観ました。クリント・イーストウッド監督の『ハドソン川の奇跡』です。

ハドソン川の奇跡


9年前、乗客155人を乗せた民間機がニューヨークのハドソン川に不時着水した事故の映画化作品です。
トラブル発生後、着水までの208秒。わずかこれだけの時間で、飛行場に戻るという選択肢を捨てる決断をし、最高の技量で機体を無事に着水させたサリー機長。
メディアから「英雄ですね」とマイクを向けられ、こう答えます。

「自分の仕事をしただけです」

この映画を観て、このセリフにしびれた人は多いのではないでしょうか。
まさに、寡黙で腕のたしかな職人(アルチザン)としての年輪を感じさせるひと言です。
長年、ひとつのこと(飛行機の操縦)に打ち込んできた人間がもつ、ゆるぎない「風格」と言ってもいい。

いっぽう、「自分の仕事をしただけ」という言葉を、別の文脈で使った人物がいます。
ドイツの親衛隊(SS)中佐として、数百万のユダヤ人を強制収容所へ移送するに際に指揮を取っていた、アドルフ・アイヒマンです。
戦後、逃亡の末、イスラエルで裁判にかけられ、死刑となりました。

『ハンナ・アーレント』(2012年)という映画で、そのことが触れられています。



アイヒマンは、裁判の中、「自分は命じられてただ仕事をしただけ」と繰り返します。
稀代の殺人者というよりも、むしろ凡庸なまでの「小役人」の姿がそこには浮かび上がります。

「ただ、自分の仕事をしただけ」という結果として、155人の命を救う「英雄」となることもあれば、大量虐殺のお先棒を担ぐ、悪魔的「小役人」となることもある。

両者の「差」はいったいどこから来るのでしょう。
日々の仕事にいそしむとき、心の中で、胸を張って空を仰いで、「自分の仕事をしただけ」と言えるかどうか。
分岐点はそこにあるような気がしました。

それでは。




『アフリカの日々』(映画『愛と哀しみの果て』の原作を読む)

『愛と哀しみの果て』という映画があります。



いささか冗長な語り口なのに、なぜか忘れがたく印象に残る、不思議な映画でした。
その原作となっているのが『アフリカの日々』(晶文社:アイザック・ディネーセン著)。




この連休でようやく読み終えました。
なんで「ようやく」なのか。
映画を観て以来、いつかこの原作を読んでみたいと思い、昨秋、この本を購入し、「早く読みたい」という思いと、「読むのが惜しい」気持ちとが交錯して長らく「積ん読」状態が続き、でも、今年の夏も終わったいま、考えてみれば、いや考えるまでもなく、来年になればまた「来年の夏」が終わってしまうわけで、その前に、いまこそ「区切りをつけなければ」というわかりにくい理由に駆り立てられて一念発起、この連休で一気に読み終えました。
感想は・・・「やっぱりいま読んでよかった」と「読み終えてしまったのが惜しい」とが交錯しています。

映画は、映像美あふれるラブストーリーとなっていて、ノスタルジックな味わいにも事欠きません。
それと比べ、『アフリカの日々』は一貫した筋立てがある小説ではなく、ディネーセンによる日々の記録、いわば回顧録です。

文章は主情に流れることなく、あくまでも淡々と綴られます。
でも、抑制しようとしてもしきれない思いがにじみ出てくることもあります。
それは、土地に暮らす人たちのたくましさや気高さに対する「敬意」であったり、動物たちの賢さ、崇高さに対する「感嘆」であったり、自然の雄大さ、神々しさに対する「賞賛」であったりします。

映画ではロバート・レッドフォードが演じる冒険家、デニス・フィンチ=ハットン。
「強い絆に結ばれた友人」として登場します。友人以上の存在であったことは、ただ行間でのみ語られます。
彼の悲劇的な最期も、見晴らしのいい丘陵に埋葬するまでの一部終始も、文章はつねに抑制されています。

たとえばこんなふうに。

「彼はこの高地を吸収し、この土地はデニスの個性の刻印をうけて、彼自身の心象のなかでかたちを変え、デニスの一部となった。いまアフリカはデニスを受け入れ、彼を変え、アフリカそのものの一部とするであろう。」(403頁)

デニスが彼女にとってどれだけかけがえのない存在だったのか。
この簡潔な描写のなかに、すべてが凝縮されています。
朝な夕なに現れて、墓のうえで横たわるようになったという二頭のライオン。
思わず胸を打たれる後日談です。
王墓を守るスフィンクスみたいです。

このエピソードは、映画でもまた余韻の残る名場面となって描かれていますね。
『愛と哀しみの果て』という長尺の映画が深く印象に残るのは、このシーンあればこそなんだろうなと思います。

アフリカに魅せられ、ときとしてその大地や丘陵と同化してしまうほどアフリカそのものを愛したディネーセン。
でもまた、別れのときはいやおうなく訪れます。
諸般の事情が押し寄せ、やむなくアフリカを去る最後のそのとき・・・・
「アフリカ」は、まさに人格を備えた存在として彼女の前に顕現します。

「去ってゆくのは私ではない。アフリカを離れるなど、私のとぼしい力をもってしては到底できない。逆に、引き潮のようにゆるやかに、かつおごそかに私から遠のいてゆくのは、このアフリカのほうなのだ。」(432頁)

荘厳なまでの擬人化ですね。
誰かに袖にされたときなどのために、この部分をストック・フレーズとして心に用意しておくといいかもしれません。

「去ってゆくのは私ではない。・・・引き潮のようにゆるやかに、かつおごそかに私から遠のいてゆくのは、彼女のほうなのだ。」

失恋の痛手など、軽々と超克できるとは思いませんか?
無理かな、やっぱり。

それでは。


プロフィール

JIRO

Author:JIRO
東京下町で開業する司法書士です。
司法書士とはなにをする人か?
・・・一言では説明が難しいです。
といって二言三言あれば説明できるわけではなし。

このブログでは、日頃の出来事や読んだ本、観た映画などのことを書きつらねてみたいと思います。
あ、お仕事のこともすこし触れていきます。

(ホームページ http://www.noguchi-office.jp/)

相続なら江東区の司法書士 みどりの杜司法書士事務所(会社設立)

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