狭いながらも楽しい我が家
ここ一年、自宅のあちこちに綻(ほころ)びが出ています。お風呂の給湯器を修理したあとすぐにトイレの交換工事が必要に。引き続いてシステムキッチンの取替工事を済ませた途端、「お次の番」だと言わんばかりに故障するドアホン。少し前にはエアコンも取り替えを余儀なくされているし、もう次から次へと出費がかさんで大変でした。ずっと昔、ばけものみたいな家が人を食べまくる映画(『ハウス』:1977年大林宣彦監督)があったことを思い出してしまいます。まあ、築25年を経ているんだから、いたしかたがないことかもしれません。なんといってもかけがえのないマイホーム。当初メンバー二人から四人となり、いまは三人が住まうだけになったけど、まだまだ末永く雨風をしのぎ、ぬくもりを保ちつづけてもらわないと。
「マイホーム」を舞台にした、ほろ苦い、を通り越して「胃が痛くなるような」後味を残す映画があります。
『葛城事件』(2016年) です。劇場で見逃してしまっていたのが惜しまれるような、また逆に閉鎖された劇場空間で観ないでつくづくよかったと思えるような、映画です。


モラハラの権化のようなお父さんの強烈極まる磁力が家族(妻と二人の息子)の心をやんわりとむしばみ、じんわりと追い詰めます。お互いの関係が極限まで歪んだときに次男が引き起こす通り魔殺人。ちょうど太陽表面の磁力線がくびれきったとき、磁場エネルギーが一気に放出されてフレア(大爆発)を起こすのと似ています。
この父親にとって、「マイホーム」はまさに「一国一城」であり、じぶんはその「主(あるじ)」でした。新築時に庭に植えた蜜柑の木は、その幸福の象徴です。でも、最後に彼は、その「蜜柑の木」にさえそっぽを向かれてしまう。「守るべき城」が、いつしか抜け出ることを許されない「牢獄」となっていたという、その皮肉の痛切さ。「胃が痛くなるような」と書いた理由がおわかりいただけるでしょうか。
「守るべき城」がありながら、果敢に打って出ようとした夫婦を描く映画もあります。
その映画、 『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』(2008年) もまた、別の意味で胃が痛くなります。


傍から見れば、「絵に描いたようにしあわせ」な若い夫婦。趣味のいい洒落たマイホームに住み、可愛い子どもに恵まれ、生活は安定し、何ひとつ不自由はないように見えます。ところが、ある日突然、この夫婦の心に不満が根ざします。もっと自分らしく生きていける世界があるのではないか。未来へのとりとめのない希望にとりつかれてしまいます。同じ夢(いまここにない幸せ)を得た当初こそ、お互いの絆をいっそう強める二人だったけど、やがてこの二人三脚、足並みが乱れていきます。「同床異夢」という言葉そのものになっていきます。確かであったはずの絆がゆるび、足と足とがもつれあって、ついにはあらぬ方向へと迷走してしまう・・・。
これらの映画を観ていたら、こんな歌が頭に浮かびました。
「世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」
その昔、山上憶良が詠んだ歌ですね。
「やさし」は、この場合、「耐えがたいほどつらい」というような意味。
もしも鳥だったら、いまのこんな状況から自由に羽ばたいてさよならすることができるのに・・・・
鳥へのあこがれは、時代を超えて万国共通なのかもしれません。
いっぽう、自由に羽ばたいたからといってすべてが解決するとは限りません。
ギリシア神話に登場するイカロスがいい例です。蝋で固めた翼を得て、自由に大空に飛翔したのも束の間、うっかり太陽に近づき過ぎて蝋が溶けてしまいます。もげた翼と一緒にむなしく墜落していくイカロス。その人生は、「束の間」の幸福を得たことをもってよしとすべきなんでしょうか。
ということで、「マイホーム」とは、「出るも地獄、とどまるも地獄である」とでも言うような二本の映画のお話でした。
思えば太宰治も「家庭の幸福は諸悪の本(もと)」だなんて書いています。
なら、どうしろといいうのか。
そんなことをぼやきながら、胃薬片手にこういった映画を鑑賞できる「平和な我が家」が「いま」あることをかみしめています。
ところで、数日前から、洗面台の配水管工事の見積もりが手元に置かれています。
金額が一桁、間違っているのではと矯(た)めつ眇(すが)めつしています。
「我が家の平和」を保つのは、ほんとに大変ですね。努力、努力です。
そういえば、われらが日本国憲法にもこう書かれていたのでした。
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」(12条)
「不断の努力」とはまた「普段の努力」ということの掛詞なのかもしれません。
憲法も励ましてくれています。
がんばりましょう。がんばります。
それでは。
「マイホーム」を舞台にした、ほろ苦い、を通り越して「胃が痛くなるような」後味を残す映画があります。
『葛城事件』(2016年) です。劇場で見逃してしまっていたのが惜しまれるような、また逆に閉鎖された劇場空間で観ないでつくづくよかったと思えるような、映画です。
モラハラの権化のようなお父さんの強烈極まる磁力が家族(妻と二人の息子)の心をやんわりとむしばみ、じんわりと追い詰めます。お互いの関係が極限まで歪んだときに次男が引き起こす通り魔殺人。ちょうど太陽表面の磁力線がくびれきったとき、磁場エネルギーが一気に放出されてフレア(大爆発)を起こすのと似ています。
この父親にとって、「マイホーム」はまさに「一国一城」であり、じぶんはその「主(あるじ)」でした。新築時に庭に植えた蜜柑の木は、その幸福の象徴です。でも、最後に彼は、その「蜜柑の木」にさえそっぽを向かれてしまう。「守るべき城」が、いつしか抜け出ることを許されない「牢獄」となっていたという、その皮肉の痛切さ。「胃が痛くなるような」と書いた理由がおわかりいただけるでしょうか。
「守るべき城」がありながら、果敢に打って出ようとした夫婦を描く映画もあります。
その映画、 『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』(2008年) もまた、別の意味で胃が痛くなります。
傍から見れば、「絵に描いたようにしあわせ」な若い夫婦。趣味のいい洒落たマイホームに住み、可愛い子どもに恵まれ、生活は安定し、何ひとつ不自由はないように見えます。ところが、ある日突然、この夫婦の心に不満が根ざします。もっと自分らしく生きていける世界があるのではないか。未来へのとりとめのない希望にとりつかれてしまいます。同じ夢(いまここにない幸せ)を得た当初こそ、お互いの絆をいっそう強める二人だったけど、やがてこの二人三脚、足並みが乱れていきます。「同床異夢」という言葉そのものになっていきます。確かであったはずの絆がゆるび、足と足とがもつれあって、ついにはあらぬ方向へと迷走してしまう・・・。
これらの映画を観ていたら、こんな歌が頭に浮かびました。
「世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」
その昔、山上憶良が詠んだ歌ですね。
「やさし」は、この場合、「耐えがたいほどつらい」というような意味。
もしも鳥だったら、いまのこんな状況から自由に羽ばたいてさよならすることができるのに・・・・
鳥へのあこがれは、時代を超えて万国共通なのかもしれません。
いっぽう、自由に羽ばたいたからといってすべてが解決するとは限りません。
ギリシア神話に登場するイカロスがいい例です。蝋で固めた翼を得て、自由に大空に飛翔したのも束の間、うっかり太陽に近づき過ぎて蝋が溶けてしまいます。もげた翼と一緒にむなしく墜落していくイカロス。その人生は、「束の間」の幸福を得たことをもってよしとすべきなんでしょうか。
ということで、「マイホーム」とは、「出るも地獄、とどまるも地獄である」とでも言うような二本の映画のお話でした。
思えば太宰治も「家庭の幸福は諸悪の本(もと)」だなんて書いています。
なら、どうしろといいうのか。
そんなことをぼやきながら、胃薬片手にこういった映画を鑑賞できる「平和な我が家」が「いま」あることをかみしめています。
ところで、数日前から、洗面台の配水管工事の見積もりが手元に置かれています。
金額が一桁、間違っているのではと矯(た)めつ眇(すが)めつしています。
「我が家の平和」を保つのは、ほんとに大変ですね。努力、努力です。
そういえば、われらが日本国憲法にもこう書かれていたのでした。
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」(12条)
「不断の努力」とはまた「普段の努力」ということの掛詞なのかもしれません。
憲法も励ましてくれています。
がんばりましょう。がんばります。
それでは。

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