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わが「ワンス・アポン・ア・タイム」

6才頃のこと、家から遠く離れたところに、広々としたグラウンドや空き地がありました。そのずっと向こうには、なにやら工場のようなものが立っています。友だち同士で遠征して、駆け回ったりボール投げをしたりする、絶好の遊び場でした。ただ、風向き具合によって、どこからか妙な臭いが漂ってきます。そのうちに年上の少年から「工場からサイレンが聞こえたら全速力で逃げろ」と言われるようになりました。さすがに不気味になって、いつしか足も遠のき、それ以来、寄りつかなくなった、という記憶があります。

そして後年、「六価クロム」という有害物質による土壌汚染の事実を知ることになります。まさに「板子一枚下は地獄」という環境と隣り合わせだったわけです。間一髪、きわどいところだったんですね。

石牟礼道子さんが亡くなったというニュースに接し、そんな、幼い頃のあれこれがしきりに思い出されてきました。水俣病を告発し、水俣病患者の心の声を文字に刻み続けた石牟礼さん。 『苦海浄土 わが水俣病』には、日常に遠慮会釈なく「何か」が入り込み、平穏な日々をその「何か」に奪い取られて苦しむ人たちの姿があります。その「何か」とは、何か。特定された原因物質は「メチル水銀化合物」でした。でも、そんなものがなぜそこに存在し、なぜ水俣の海に、流されたのか。石牟礼さんは、患者に寄り添う、というよりは、むしろ依り代となってその「怒り」や「悲しみ」を語ります。その中から「人間の尊厳」という言葉が静かに、でも断固として、立ちあがってきます。



近代化にはいつだって「矛盾」や「歪み」がつきもの。・・・などと斜に構えて一生を過ごせたら、それはそれでけっこうなことです。
でも、「尊厳」をおびやかす「苦海」は、いつも普段の生活と踵(きびす)を接している、そのことだけは忘れないほうがよさそう。
幼い頃のあの「遊び場」の記憶も、けっしてセピア色というわけではありません。

それでは。



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10枚に1枚当たる、宝くじ

ふと思い立って、宝くじを購入。サマージャンボです。
この当選賞金って、最高7億円なんですね。
「もしも当選したら」を夢想するのは、購入者に与えられたほとんど唯一の特権です。
ということで瞑目し、夢想モードに突入。
とりあえず、靴をひとつ新調します。かかとがかなり傷んでいるので、そろそろ替え時です。
それでも残りが・・・まだ6億9千999万円。
さて、あとはどうしたものか。途方に暮れてしまいます。
7億円という金額には、「使い途を考える」という楽しみを逆に奪われてしまうような威力があります。

こんなことを考えるのは、 『身の上話』(佐藤正午:光文社文庫)という本を読んだ影響かもしれません。



この本、内容をかいつまむと、ヒロインは、とある地方の書店で働く女性。ひょんなことから宝くじを買い、2億円の高額当選したことを知ります。さまざまな事情がからまって、その賞金を持ったまま逃避行をすることに・・・というようなお話。読み始めると止めようがない、たくみなストーリーテリングが光ります。

いくら大金でも使い続ければいつかは無くなるのが道理。でも、この物語では、ヒロインがどんなにぜいたくにお金をつかっても、いっこうに目減りしてゆく実感が伴わない、そんな様子が妙に生々しく描かれていて心に残ります。浪費によって満たされるのではなく、内側からわじわとむしばまれていくようなむなしさ。湯水のように使えるようになったものからは、湯水の持つ価値さえも消えてしまうのでしょうか。

うっかり不老長寿になる薬を飲んでしまった人間がいたら、同じような気持ちを抱くかもしれません。もし1000年の長寿を約束されたら・・・はじめのうちはたしかにうれしいでしょうね。でも、知っている人たちはみんな先に死んでしまいます。録画済みのDVDもそのうちに見尽くしてしまいます。そのあとに待ち受ける、長い孤独な老後。見えないゴールが果てしなく遠すぎて、粛然としてしまいます。

この本を読んではじめて知ったことがあります。
取扱い銀行から、宝くじ高額当選者に配布される小冊子があるのだとのこと。

この小冊子、「受け取った当せん金は、とりあえず安全な場所へ」とか、「後悔するような軽はずみな言動に注意する」、「当せん直後は、興奮状態にあるという自覚を」など、なかなか実践的なアドバイスが書かれているようです。「自分の性格やクセを見つめなおそう」、「当せんで、自分そのものが変わることはない」、など、自己啓発本的な項目も用意されているみたい。「当せんは、幸せになるための手段の一つ」という箴言もある。
高額当選は「幸せ」そのものではない、と、「浮かれる心」に釘を刺しているわけですね。

「幸福」とは何か、というようなややこしいことはさておいて、やはりせっかく買った宝くじ、とりあえずは当選してくれなくてはつまらない。むなしくなるのも粛然とするのも、幸福となるのも不幸となるのも、まずは当選してからの話です。

是枝裕和監督の 『海よりもまだ深く』という映画の主人公は、ギャンブル好き。離婚した妻と暮らす息子に、宝くじを買ってあげます。父親らしいことのひとつもしてやりたかったんでしょうね。でも元妻から「宝くじなんてギャンブルだ」と叱られて、「ばかを言うな、お前は全国60万人の宝くじファンを敵に回したぞ!」などとやりあうシーンがありました。



ラストシーンでは、嵐の中でこの宝くじが散乱してしまい、息子・元妻と闇の中を一緒に探し回ります。「1枚は当たるんだぞ」と懸命になる主人公(父親)。たしかに、10枚のうち、1枚は当たります。なけなしのフトコロから、せっかく息子に買ってあげた宝くじ。親として、懸命になるのもわかります。ささやかな夢であっても追いかけ続けることこそが大事なのだから。でも、たとえ人生を賭けて追い求めていた夢であっても、あきらめることを受け入れなければいけないときが来る。夢を追うこととあきらめること。ふたつの相反する思いが、雨に濡れそぼった宝くじに託され、見事に凝縮された場面でした。

それにしても、10枚に1枚は当たる。こういう発想、いいですよね。夢を追ったりあきらめたり、そのバランスの中でたしかに手元に残る1枚。その1枚を「お守り」のように大事に思うことができれば、「幸福」かどうかはさておくとして、そんなにおおげさな「不幸」も寄せ付けないような気がします。

それでは。

それを贖(あがな)うことは許されない(『劇場』(又吉直樹)を読みました)

文芸誌「新潮」に掲載された、又吉直樹の新作「劇場」を読みました。
小説って、できるだけ先入観や予備知識など持たずに読みたいと思うんだけど、この人の作品の場合、それはとても難しいです。
したがって、「あの芥川賞を取った」、「あの」又吉直樹の、「あの」処女作「火花」に続く二作目を、単行本化に先立って読んでみました。

夢を追いながら傷つき、ボロボロになり、目指すべき場所さえ見失う。幸福そのものに思えた同棲生活も、気づいてみれば相手を深いところで損なってしまう。それはもう、いくら悔いても贖(あがな)うことさえ許されません。必ずしも目新しいとはいえないテーマだけど、最後まで一気に読ませる力があります。次作を読む際は、余分な「先入観」はずっと薄らいでいると思います。

ボクシングでは、選手をボクサータイプとファイタータイプに分けることがあります。
おおまかにいえば、相手との距離を保ちながら戦うのがボクサータイプ。自分は打たれずに相手を倒す、そんな勝ち方を目指します。いっぽう、相手の懐に飛び込み、しゃにむに接近戦を挑むのがファイタータイプ。どれだけ打たれても打ち負けずに相手を倒す、そんな戦い方をするボクサーです。

又吉直樹の本作(「劇場」)の主人公は、がむしゃらにインファイトを挑み続けているように見えます。ただ、彼には、パンチ力があるわけではない。ないことを自分でじゅうぶんに分かっています。分かっているのに、いや、分かっているからこそ、距離をとって戦うことができない。相手の懐深く飛び込み、持っている限りのパンチを繰り出し続けるしかない。当然、自分もぼこぼこに殴られます。でも、「夢」に近づくにはそうするしかない、肉をすべて切らせなければ骨は断てない、ひたすらそう思い込んでいるみたいに見えます。

でも、同棲している大好きな彼女には、このスタイルを貫けない。生活の中に二つの基準(スタンダード)を抱え込んでしまうことで生じる「ゆらぎ」。そういう迷いやゆらぎの中から得るものと失うものがあるとして、そもそもその両者は天秤にかけることなんてできるのだろうか。そんなことも考えさせられてしまいます。

たまたま同じタイミングで、村上春樹の新作(「騎士団長殺し」)を読みました。こちらでは、ボクサータイプの主人公が、いつもどおりひょうひょうとアウトボクシングをしようとするけれど、知らぬ間に「境界」がおぼろになり、別の空間への「入り口」が開き、インファイトに引きずりこまれそうになるけれど、間一髪で相手との距離を取り戻し、すべてはドローになりました、というような物語でした(たぶん)。

なにかに戦いを挑めば、又吉作品のようにボロボロになることを避けられず、といって平和に暮らしたくても、春樹作品のように、邪悪なる存在は虎視眈々と魔の手を伸ばしてきます。
はてさて、どうしたらいいんでしょうね。ここが思案のしどころですね。


それでは。


『アフリカの日々』(映画『愛と哀しみの果て』の原作を読む)

『愛と哀しみの果て』という映画があります。



いささか冗長な語り口なのに、なぜか忘れがたく印象に残る、不思議な映画でした。
その原作となっているのが『アフリカの日々』(晶文社:アイザック・ディネーセン著)。




この連休でようやく読み終えました。
なんで「ようやく」なのか。
映画を観て以来、いつかこの原作を読んでみたいと思い、昨秋、この本を購入し、「早く読みたい」という思いと、「読むのが惜しい」気持ちとが交錯して長らく「積ん読」状態が続き、でも、今年の夏も終わったいま、考えてみれば、いや考えるまでもなく、来年になればまた「来年の夏」が終わってしまうわけで、その前に、いまこそ「区切りをつけなければ」というわかりにくい理由に駆り立てられて一念発起、この連休で一気に読み終えました。
感想は・・・「やっぱりいま読んでよかった」と「読み終えてしまったのが惜しい」とが交錯しています。

映画は、映像美あふれるラブストーリーとなっていて、ノスタルジックな味わいにも事欠きません。
それと比べ、『アフリカの日々』は一貫した筋立てがある小説ではなく、ディネーセンによる日々の記録、いわば回顧録です。

文章は主情に流れることなく、あくまでも淡々と綴られます。
でも、抑制しようとしてもしきれない思いがにじみ出てくることもあります。
それは、土地に暮らす人たちのたくましさや気高さに対する「敬意」であったり、動物たちの賢さ、崇高さに対する「感嘆」であったり、自然の雄大さ、神々しさに対する「賞賛」であったりします。

映画ではロバート・レッドフォードが演じる冒険家、デニス・フィンチ=ハットン。
「強い絆に結ばれた友人」として登場します。友人以上の存在であったことは、ただ行間でのみ語られます。
彼の悲劇的な最期も、見晴らしのいい丘陵に埋葬するまでの一部終始も、文章はつねに抑制されています。

たとえばこんなふうに。

「彼はこの高地を吸収し、この土地はデニスの個性の刻印をうけて、彼自身の心象のなかでかたちを変え、デニスの一部となった。いまアフリカはデニスを受け入れ、彼を変え、アフリカそのものの一部とするであろう。」(403頁)

デニスが彼女にとってどれだけかけがえのない存在だったのか。
この簡潔な描写のなかに、すべてが凝縮されています。
朝な夕なに現れて、墓のうえで横たわるようになったという二頭のライオン。
思わず胸を打たれる後日談です。
王墓を守るスフィンクスみたいです。

このエピソードは、映画でもまた余韻の残る名場面となって描かれていますね。
『愛と哀しみの果て』という長尺の映画が深く印象に残るのは、このシーンあればこそなんだろうなと思います。

アフリカに魅せられ、ときとしてその大地や丘陵と同化してしまうほどアフリカそのものを愛したディネーセン。
でもまた、別れのときはいやおうなく訪れます。
諸般の事情が押し寄せ、やむなくアフリカを去る最後のそのとき・・・・
「アフリカ」は、まさに人格を備えた存在として彼女の前に顕現します。

「去ってゆくのは私ではない。アフリカを離れるなど、私のとぼしい力をもってしては到底できない。逆に、引き潮のようにゆるやかに、かつおごそかに私から遠のいてゆくのは、このアフリカのほうなのだ。」(432頁)

荘厳なまでの擬人化ですね。
誰かに袖にされたときなどのために、この部分をストック・フレーズとして心に用意しておくといいかもしれません。

「去ってゆくのは私ではない。・・・引き潮のようにゆるやかに、かつおごそかに私から遠のいてゆくのは、彼女のほうなのだ。」

失恋の痛手など、軽々と超克できるとは思いませんか?
無理かな、やっぱり。

それでは。


疑似家族の「いま」(『プラージュ』:誉田哲也)

賃貸住宅市場で、いま、「シェアハウス」が注目されているみたいです。
ひとつの住居を複数で利用する。コスト面でのメリットはもとより、さまざまな事情を抱えた人たちにとって利用しやすいという側面もあります。

そんな、シェアハウス(のような住まい)を舞台にした小説を読みました(『プラージュ』:誉田哲也)。



住んでいるのは、みんなどこかいわくありげな人たちです。
どんな「いわく」かといえば・・・それぞれ、かつて過ちを犯し、前科を負ってしまった人たちばかりが寄り集っている、ということ。
お互い同士、事情を抱えていることがわかっているから、住人たちはみんな、無遠慮に相手の心に踏み込むことをしたりはしません。作中、「暴くまでもなく、晒される。隠さなければ、暴かれることもない」と語られる関係です。でも、誰かが危難に遭えば、体を張ってでも助け出そうとしたりもします。
住人のひとりは、こんなことを感じます。

 「不安になるほど、ここには垣根というものがない。なのに、それが不思議と心地好い。」

普段は適度な距離をとって接しているのに、いざとなれば一気にその距離をとっぱらってしまう。そんな不思議なコミュニティです。

以前、映画にもなった『パレード』(吉田修一)という本では、かなり違った関係が描かれていました。マンションの一室で共同生活することになった数人の男女。一見、和気あいあいのように見えるその暮らしぶりとは裏腹に、お互いの「本当の姿」に対して、徹底的に無関心です。身近に接していながら、お互いの姿をなにも見てはいない、見えてもいない。読み終えて思わずぞっとするほどのリアリティがありました。

『プラージュ』も『パレード』も、一種の「疑似家族」テーマの物語です。
「疑似家族」は、これまで繰り返し小説や映画で描かれ続けてきました。
たとえば28年前に書かれた『キッチン』(吉本ばなな)でも、フィクショナルな「家族」との生活の中で、ただゆっくりと主人公は再生していきます。

『パレード』を読むと、いまがそんな時代とはかけ離れてしまったことを感じさせられます。
いっぽう『プラージュ』は、このうそ寒さを感じさせる「表面的」なだけの人間関係に疑問符を投げかけ、もういちど揺さぶりをかけるかのようなお話です。

もちろん、「シェアハウス」はよいことばかりではありません。
ハウスを経営する女性は、若い住人にこう語ります。

 「ずっとここにいることは、誰にも、できないんだからね。そのうち君は、ここを出ていかなきゃいけないんだからね・・・」

テンポラリーであることが宿命であるシェアハウス。
「プラージュ」とは、フランス語で「海辺」を意味するとのこと。
どんなに居心地がよかろうが、いずれは立ち去る場所が「海辺」です。
立ち去って、残るのはただ思い出だけ。

ぼくは「海辺」にたたずんだ思い出というのは、ほとんどありません。
なのに「海辺」から連想される言葉は「沈む夕日」です。
なぜなんでしょうね。べつに夕日に向かって叫んだ思い出があるわけじゃないんだけど。

それでは。


ハードボイルドな女絵師(『眩(くらら)』:朝井まかて)

墨田区が発行する印鑑証明書をみると、その裏側には、かの有名な『神奈川沖浪裏』がデザインされています。

神奈川沖浪裏

地元墨田区に生まれた天才浮世絵師、葛飾北斎。
もしまだ存命だったら、間違いなく「国民栄誉賞」に輝いていたと思います。
その北斎を、「郷土の偉大な芸術家として顕彰」するために開設されることとなった「すみだ北斎美術館」が、いよいよ今年11月にオープンされます。待ち遠しいです。

ところで、北斎には、お栄(号は「応為」)という娘がいました。
晩年の北斎に、「美人画では応為にかなわない」と言わせたほどの絵師だったそうです。
そのお栄が主人公となる小説(『眩(くらら)』:朝井まかて)を読みました。



気むずかしい北斎を支え、身内の不始末に苦労を重ねるお栄。
実りのない恋模様なども絡めながら、西洋画の明暗法に傾倒し、特徴ある細密描写を生み出すさまが描かれます。

後半、「三曲合奏図」という肉筆画誕生の場面が興味深く書かれています。

三曲合奏図

琴、三味線、胡弓、この三つの楽器を奏する三人の女を、画面の中でどのように配置するのがよいか。
最適な構図を求めて工夫を凝らし、苦心を重ねます。
この箇所を、画集やネットなどで実際にこの絵を見ながら読むと、面白さが倍増するのでは。

ルノワールのこのデッサンと、構図が似ている気がしますね。
すこし不思議です。

ルノワール

生没年も不詳というお栄の生涯には、輪郭線がないようにも見えます。
この時代、表舞台に立つことが難しかった多くの女性と同じように。
だけど、輪郭なんて関係なく、くっきりした明暗の中に彼女はその生きたその証を残しました。
北斎の死後、忽然と行方をくらましたというお栄。
大人しく額縁の中に納まることを拒み、ひとり浮世の荒波の中に漕ぎだしていくかのようです。
物語のラストに浮かび上がってきたのは、意外にもハードボイルドな、颯爽とした女絵師の姿だったのでした。

それでは。


日曜日の正しい過ごし方について(「小泉今日子書評集」:中央公論新社)

『日曜日には鼠を殺せ』という映画がありました(1964年:フレッド・ジンネマン監督)。
日曜日の過ごし方としてはかなりユニークです。
でもぼくにはとくに殺す鼠もいないので、日曜日にはまずコーヒーを飲みます。
そして朝刊を開き、書評欄にさっと目を通します。

チェックするのは、タイトルと著者名、それに評者。
評者のひとりに小泉今日子がいました。
アイドル時代からおなじみのひとではあるし、気になる名前です。
ただ、とくに熟読はせず、斜めに読むだけだったと思います。
今回、その書評を一冊にまとめた本を手にしてみました( 「小泉今日子書評集」:中央公論新社)。



読んで驚いたのは、彼女の書評が、日曜日ごとに10年間も続いていたということ。
それと、この書評に目を通したことがきっかけで読んだ本が何冊かあったということです。

彼女の書評は、その短い文章の中に、惹きつける「読ませどころ」がどこか一箇所は置かれています。
たとえば、

 「自分よりも弱い何かを守ると決めた時、男の子は男になるのかもしれない」(「たまもの」:小池昌代)

 「時というものは残酷でもあるし、優しくもある。私の骨にもまだいくつかの染みが残っている」(「骨を彩る」:彩瀬まる)

 「人前だろうと一人だろうと、うわぁーんと大きな声で心からなけたなら、それは大人になるための二度目の産声なのかもしれない」(「逢沢りく」:ほしよりこ)


などなど。

言葉のセンスのよさも随所で感じられて、読後感のよい書評集でした。
新聞の書評欄にまた復活してくれたら、こんどはきちんと熟読します。
『日曜日にはコイズミを読む』というのは、朝のひとときの過ごし方として「Not bad」だと思います。

それでは。





「贅沢と幸福は別物だ」(『新しい道徳』(北野武))

ようやく知事が辞任することになりました。
都民のひとりとして、他府県の方々に肩身の狭い思いをすることもなくなりました。
ほっとしました。

ことは法規云々の話ではなく、倫理とか人としての節度の問題に終始しました。
品性とはなにか。生きるうえでの良心とは。
普段、あらたまって意識することの少ないテーマです。

北野武の『新しい道徳』(幻冬舎)に、こんなことが書かれています。



 「どんなに高いワインより、喉が渇いたときの一杯の冷たい水の方が旨い。
 お袋が握ってくれたオニギリより旨いものはない。
 贅沢と幸福は別物だ。慎ましく生きても、人生の大切な喜びはすべて味わえる。
 人生はそういう風にできている。」


さすがに「世界のキタノ」です。いいこと言います。
もちろん、彼自身、通常人ではありえない「贅沢」を体験することもあるでしょうね。
それでも、そんな自分自身をどこか醒めた目で見下ろしている、べつの「キタノタケシ」が常に傍らにいる。
そのことだけは疑わせません。

この本では、ネットの世界の風潮を指して、こんなふうにも書かれています。

 「この中で罪を犯したことのない人が、最初に石を投げなさい」
 キリストにこういわれて、昔の人はみんな黙り込んでしまったけれど、今は「じゃあ僕から」っ
 て、どんどん石を投げちゃうんじゃないか。


今回の辞任騒動で、東京都民はみんな品性や良心をめぐる命題を考えさせられたのでは。
その意味で、またとないよい機会を与えてくれた知事ではありました。
石は投げるだけが能ではないことを教えてくれました。
まさに、「他山の石、以て玉を攻むべし」、です。

それでは。



いのちの重みとかなしさと 

数日来の雨で、わずかに残っていた桜もほぼ散ってしまいました。
道ばたに落ちている花びらを見ていると、胸のうずきのようなものを感じるのも毎年のことです。
落花を見て、こんな歌を詠まれた方がおられます。

 朝の日に淡き影おく石の上 遅き桜のゆるやかに散る

美智子皇后の御歌です。
花冷えの早朝の光景がありありと目に浮かびますね。
これは、『皇后美智子さまの御歌』という本の中にある一首です。


美しい写真をふんだんに盛り込んだ、読みやすく親しみやすい歌集です。
シンプルな装幀で大きさもコンパクトだけど、手にするとずしりとした量感があります。
この重みがまたそれぞれの御歌の存在感を引き出しているようにも思えます。
こんな一首もあります。

 てのひらに君のせましし桑の実の その一粒に重みのありて

現天皇陛下とご成婚の際に詠まれたとのこと。
桑の実一粒の「重み」という感覚の中に、ひとりの女性の人生そのものが投影されているような気がしてきます。

とくに親しみの感じられる御歌を三首だけ。

 君とゆく道の果たての遠白く 夕暮れてなほ光あるらし

ご成婚50年の感慨を詠まれた一首とのこと。
桑の実をてのひらに受けてから、その「重み」を感じ続けての50年だったんでしょうね。
見晴るかす彼方になお暮れ残る光に明るい希望を感じます。

 たんぽぽの綿毛を追ひて遊びたる 遙かなる日の野辺なつかしき

綿毛の行方をどこまでも目で追って走り回る。
誰にでもあるようなささやかな記憶が、さりげなく詠まれています。
記憶の底に眠る「原風景」がそっと揺り起こされます。

 生命(いのち)あるもののかなしさ 早春の光のなかに揺り蚊(ユスリカ)の舞ふ

ユスリカの一生は1〜数日で終わるそうです。
はかないいのちへの心寄せは、「存在」そのものへの問いかけにつながります。
どんな「いのち」にも「重み」があり、いのちといのちの間に軽重はない。
そのことやさしく見つめる心に宿るものこそが「慈しみ」なのかもしれません。

それでは。


理由がわかれば安心するけど

前回、「人が決断するには、主たる理由、従たる理由と隠れた理由があるのでは」と書きました。
「隠れた理由」というのがわかりにくいのは、当の本人にも意識されていないからでもあるんでしょう。

『わたしが出会った殺人者たち』という本を読みました(佐木隆三著:新潮文庫)。
人が殺人を犯してしまう、その「隠れた理由」を追い求め続けてきた著者の、「集大成的な回顧録」と銘打たれた作品です。



取り上げられているのは、昭和から平成にかけての、18の有名な事件です。「深川通り魔殺人事件」、「和歌山毒カレー事件」、「オウム真理教事件」をはじめ、比較的最近の「大阪池田小事件」や「下関駅通り魔殺人事件」に至るまで、既知の事件が大半です。でも、そもそもある事件について、なにをもって「既知」などというのでしょうか。いったいじぶんは、その事件のなにを知っていたというのか。読んでいて考えさせられてしまいました。

凶悪な事件が起こったとき、みんながまず知りたがるのはその動機です。「なぜ、そんなことを」、ということ。時を経ずしてマスコミがその疑問に答えを見つけ出してきます。報道によって「主たる理由」らしきものがわかったとたん、犯行によってかきたてられた不安は鎮静に向かいます。そして事件は「既知」のカテゴリーに分類整理されてしまう。

だけど、「それらしい理由」が見つからない、動機が見えにくい凶悪事件が絶えることはありません。「主たる理由」にいくら「従たる理由」を継ぎ足しても、どうしても腑に落ちないものが澱となって残るような犯罪。既存の尺度では測ることが叶わないような、異常な犯罪。

そういえば、テレビなどでコメンテーターが「心の闇」という言葉を使い始めたのは、平成に入ったころからだったのでは。
なにかと便利に使われるようになった言葉です。ただ、「心の闇」というカテゴリーを造って、そこに当てはめさえすれば「安心できる」、そういう使い方で使ってほしくはない言葉ですね。

それでは。


プロフィール

JIRO

Author:JIRO
東京下町で開業する司法書士です。
司法書士とはなにをする人か?
・・・一言では説明が難しいです。
といって二言三言あれば説明できるわけではなし。

このブログでは、日頃の出来事や読んだ本、観た映画などのことを書きつらねてみたいと思います。
あ、お仕事のこともすこし触れていきます。

(ホームページ http://www.noguchi-office.jp/)

相続なら江東区の司法書士 みどりの杜司法書士事務所(会社設立)

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