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東京の空の片隅に

三が日、いいお天気が続きました。
今年も初詣は亀戸天神。
行列の長さも例年どおりです。
待ち時間はおよそ1時間20分。
牛歩を続けて、ようやく太鼓橋を二つ渡ると、本殿が見えてきます。
でも見えてからが遠い。まだあと30分ぐらいは並ばないと、と思いつつ、手持ちぶさたに空を見上げました。お昼過ぎの空の、左側にはスカイツリー、そして・・・それだけ。どこを探しても雲のかけらも見あたりません。まったくもって、いいお天気でなによりです。

と思って見上げていたら、遠く彼方の一点から、なにか白いものが浮かび上がってきました。機影です。音もなくゆっくりと近づき、次第に「飛行機のかたち」となり、やがてまたなにか「白いもの」に戻って消えていきました。消えたと思ったら、またもとの方向からきらりと光を反射して、別の機影が近づいてきます。この空は旅客機の航路だったんですね。次々と消えては現れる機影を、その数8つまで数えたところで、気がつくと行列の先頭まで進んでいました。二礼二拍手一礼。今年もよい年でありますように。

お参りを終えて、ふと思いました。
元旦の神社の本殿の彼方の青空。そこを静かに横切ってゆく白い機影というのは、ことによると吉兆なのではないか。
そんなふうに思えるのは、いまが「平和な日常」だからこそなんでしょうね。
72年前の3月10日未明には、この同じ空を巨大な銀色の機影が覆い尽くしたそうです。その腹からまき散らされた焼夷弾は、この町もこの町に続く町もそのまた隣の町も、残らず焼き尽くしました。「いま」が72年前でなくて本当によかった。

『この世界の片隅に』という映画を観ました。
戦時中の広島・呉周辺が舞台です。どんなに物が不足しても、日々の生活を懸命に生きる少女の姿が描かれます。
でも、かけがえのない「いま」という日常の上に、機銃が掃射され、焼夷弾が落とされ、そしてきのこのかたちの雲を生む、あの「爆弾」が閃光を放ちます。見慣れた空に、ある日いきなり異物のような影が現れ、大切なものを根こそぎにしてしまう。

「みんなが笑うて暮らせりゃええのにねえ」

映画の中にある言葉です。
ほんとにそうですね。みんながにっこりと会釈を交わし合えるような毎日。
そんな毎日が続くといいなと思います。
空を横切る機影を見てのんきに「吉兆」だと思えるような毎日が、ずっと続くといいなと思います。


それでは。



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かささぎの架ける橋

早朝、家を出ると、聞き慣れない鳥の啼き声に上を見上げました。
電柱のあたりを、五,六羽の鳥が飛び交わしています。
どこかから渡ってきてひと息ついているところなのでしょうか。
朝空を背景に見えるシルエットでは、尾がすこし長い鳥たちでした。
かささぎ、かもしれない。
根拠は何もないけど、ふとそんな気がしました。
今の時期、この地域ということでいえば、生態分布的にありえないのかもしれません。
でも、そうだったらいいなと思いました。

かささぎは、その名前とはうらはらに、スズメ目カラス科の鳥です。「サギ科」ではありません。
「まるで詐欺のような話だ」というネタは、居酒屋雑談用にストックしておきましょう。
使いどころにはかなり悩みそうですけど。

ところで、百人一首に、こんな歌があります。

  かささぎの わたせる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける

この歌は、七夕伝説が下敷きになっています。
七夕の夜には、織女と牽牛の逢瀬を叶えるため、かささぎが翼を交わしあって天の川に橋をかける。
男女の機微を解する風情もあり、鳥にしてはなかなか乙な計らいのできるかささぎなのです。
でも、かささぎはカラス科なのに、なんで「白きを見れば」なのか。

『田辺聖子の小倉百人一首(上)』(角川文庫)を読むと、〈カササギというのはどんな鳥です?〉という問いに、〈カラス科の鳥で、ただしおなかのところは純白だそうです〉と答え、こんなふうに愉快に結論づけます。

 〈鳥が羽を拡げて橋を渡すと、地上から見上げる人間の目には、モロ、白い部分が見えますね。下から見上げれば白い橋ですな〉

なるほど、そういうことか。
黒い影のシルエットとはならず、星のひかりを映して、白く輝いて見えたのかもしれないですね。
ただ、いっぽう、この「かささぎ」は、ことによると「しらさぎ」だったのでは、という気もします。
どこから見ても白一色のしらさぎだったら、星のひかりに頼らなくても、白く神々しく輝いたに違いないです。

これは、先日、目黒の自然教育園で間近に見かけたシラサギです。

sirasagi.jpg

水面に映り込むじぶんの姿に、その優雅さに、時を忘れて見惚れているシラサギ・・・・というのは少し事実と違います。
水中の小魚を狙い澄まし、目にもとまらない速さで捕獲している最中でした。
池を彩る満開の桜にも関心はなさそう。
とりあえず生きていくことが優先だから、「風情」は二の次、というのも仕方がないですね。

それでは。


春の椿事

これは、先月、都心で見かけた光景です。

IMG_0232.jpg

裸木の枝に見え隠れしながら人がうごめいているのが見えます。
「枝打ちをする職人さん」だと思う人もいるでしょう。
でも、よくよく見ると違うような気がしてきます。
枝に花を咲かせようとして姿を現した、木の精霊なのかもしれません。

こちらは先日、明け方の空で見かけた光景です。



ゆっくり移動していく物体は、10秒ほどで見えなくなりました。
「飛行機雲」だと思う人もいるでしょう。
でも、でも、よくよく見ると違うような気がしてきます。
木の精霊を呼び覚まそうと流れ落ちる、青龍(春の神様)だったのかもしれません。

春先はいろんなことが起こります。
なにが起きても不思議はないのです。

それでは。



忘れないこと、忘れたいこと

いま、CSで連続放映中の『北の国から』を懐かしく観ています。
1980年代から90年代、昭和から平成にかけての激動する時代を背景に、ひとつの家族に焦点を当て続けたドラマです。
この家族にもいろいろあったけど、じぶんもこの頃は人生の岐路だったし、世の中全体もベルリンの壁が壊れたりバブルが一気にはじけたり地下鉄でサリンがまかれたり、さまざま大変だったなあ、などと思いながら観ているとしみじみしてしまいます。

さて、先日、スペシャル編の『北の国から98’ 時代』を観ていたら、こんなセリフにぶつかりました。

「純のこと、思い出すことはひとつもない。だって、忘れることが一秒もない気がするから」

黒板純(吉岡秀隆)の恋人、しゅう(宮沢りえ)が、彼と思うように会えない苦しさつらさをノートにつづった言葉です。
せつないまでに一途な思いの込められた言葉です。
そういえば、吉原の遊女高尾太夫が伊達の殿様に送った恋文にも、「忘れねばこそ思い出さず候」という有名なフレーズがあります。いっときも忘れずにいつも思い続けている。だからあなたを「思い出す」ということもない。
どれだけ時を隔てても、恋人たちの抱く思いは、未来永劫、いつも同じなんでしょうね。

いっぽう、能の『綾鼓』には、こんな詞章もあります。

  「忘れんと思ふ心こそ忘れぬより思ひなれ」

忘れようと思う心の方が、忘れないでいることよりもつらいせつない、というような意味です。「忘れることが一秒もない」というしゅう(宮沢りえ)の思いも、いつか「忘れられない」つらさへと変わる定めなのでしょうか。そして、「忘れよう」とする、「忘れ去ろう」とするしかない、そのことの、より一層大きく、耐えがたい苦しみ。覚えていないといけない、ただそれだけのことが苦行のように思えます。

だとすれば、年と共にだんだん「物忘れが多くなる」というのは、悪いことばかりではないのかもしれません。こういうつらさから救ってくれているわけだから。

とはいえ、「物忘れ」は、思わぬ諍いを呼ぶこともあります。
先週末、高校のクラス会の席で、「三年のときの教室が校舎の何階にあったか」で各自の記憶が錯綜し、意見が対立しました。
「一階だ」と声高に怒号する女性陣に対し、「二階だったような気が・・・」とおずおず抗弁する、ぼくを含めた男性陣。

お互い、決め手に欠けていたけど、どうみても「二階派」の形勢不利は否定できませんでした。しかし、声が大きく、顔に迫力のあるほうの言い分が一方的にまかりとおり、思い出が改変され、記憶がねつ造される、そんなことが許されるでしょうか。釈然としません。

「教室が一階にあっただなんて思い出したりはしない。だって、忘れることが一秒もない気がするから」

もしもあのとき、宮沢りえの可憐さでこんなふうに囁かれていたとしたら・・・
ぼくもすぐさま「一階派」に身を翻していたかもしれないです。

それでは。



天使となってはばたいた詩人(金子みすゞとエミリー・ディキンソン)

毎週、BS朝日で「黒柳徹子のコドモノクニ」という番組を放映しています。
今回のテーマは、「幻の童謡詩人・金子みすゞ」でした。
詩や文学への夢を持ちながら、不幸な結婚によってその道を閉ざされてしまう金子みすゞ。
幼子に一枚の写真だけを残し、わずか26才の若さで自ら命を絶ってしまいます。

観ていてふとエミリー・ディキンソンのことが思い出されました。
1830年にマサチューセッツ州アマーストに生まれた詩人です。
1886年に病気で亡くなりますが、その原稿のほとんどが死後になって発見されたこと、いまだにたくさんの人から根強く愛され続けていること、生涯さびしさのつきまとう人生だったようにみえることなど、どこか金子みすゞと相通ずるものがあるような気がします。

アメリカ映画を観ていると、このエミリー・ディキンソンがしばしば登場します。
たとえば、リチャード・ギア主演の『オータム・イン・ニューヨーク』(2000年)。薄命のヒロインを演じるウィノナ・ライダーは、エミリーに傾倒する帽子デザイナーという役柄でした。
また、ロバート・レッドフォードが監督した『クイズ・ショウ』(1995年)という映画。「希望は小鳥 魂の上で羽を休める」という詩のフレーズから、その作者(もちろん、エミリー・ディキンソン)を問うというクイズが出題されていました。エミリーがどれだけポピュラーな存在であるかがうかがえます。

日本映画でも、2006年公開の『ハチミツとクローバー』の冒頭、エピグラフとして詩の一節が引用されます。

  「草原をつくるには蜜蜂とクローバーが必要だ
          ―エミリー・ディキンソン」


この一節は、金子みすゞのこんな詩を思い出させます。

   はちはお花のなかに、
   お花はお庭のなかに、
   お庭は土べいのなかに、
   土べいは町のなかに、
   町は日本のなかに、
   日本は世界のなかに、
   世界は神さまのなかに。

   そうして、そうして、神さまは、
   小ちゃなはちのなかに。 


放映された番組では、最後に金子みすゞのこんな詩が紹介されました。

   かいこはまゆに
   はいります、
   きゅうくつそうな
   あのまゆに。

   けれどかいこは
   うれしかろ、
   ちょうちょになって
   とべるのよ。

   人はおはかへ
   はいります、
   暗いさみしい
   あのはかへ。
 
   そしていい子は 
   はねが生え、
   天使になって
   とべるのよ。


彼女の境涯を思うと、これはなんともいえないほどせつない詩ですね。
きゅうくつな繭に入る蚕に心を寄り添わせ、お墓に入れば羽が生えて天使になれると夢想する。
いったいどこまで追い詰められたらこんなことばが出てくるのでしょうか。

エミリー・ディキンソンにも、こんな詩が残されています。

   かみさま おねがい
   わたしをとりこにしてください
   でも ちかづくと いっそう
   さびしさがつのりそう
      (川名澄編訳:エミリ・ディキンソン詩集『わたしは誰でもない』87頁)




どこにあるのかわからない、ことによるとどこにもないかもしれない「天国」を、それでも求めてやまないエミリーの切実な声が聞こえてきそうです。

ただ彼女にはまた、こんな詩もあります。
  
   口にだしていうと
   ことばが死ぬと
   ひとがいう
   まさにその日から
   ことばは生きると
   わたしがいう
      (同上書25頁)


金子みすゞという詩人が生み出した詩のことばも、羽をはやした天使となってずっと生き続けるのかもしれませんね。番組を観終わったとき、そんなことを考えてしまっていました。


それでは。


梅雨明け前の虹を見る

週末の夕方6時半過ぎ、暮れかかった駅前の空に虹がかかっていました。

虹

虹はいつ見上げても風流なもの。
その風流な虹に後ろ髪をひかれながら向かったのは、風流とはまったく無縁のメンバーが待つ飲み会です。
どういう飲み会かといえば、暑気払いで集った、高校の同期会。
梅雨明け目前のこの日がその当日だったのでした。

それにしても、ひとりひとりどの顔を見回しても、人生に「梅雨時」などというものがあったとは思えません。
世間の荒波など「ものともしない」たくましさに満ちています。
見習わないといけないと思っても、時、既に遅し。
せっかく同じ船に乗り合わせて生きてきたというのに惜しいことをしたものです。

船といえば、角田光代の新作のタイトルが『笹の舟で海を渡る』 (毎日新聞社)でした。



戦争末期、集団疎開先で出会った佐織と風美子。
戦後の昭和史を貫いて生きる2人の女性の、ちょっとほろ苦い不思議な友情が描かれます。

「私は幸せかしら?不幸かしら?ああやっぱり、悪いことをしたら不幸になるのでも、いいことをしたから幸せになるのでもない。そのどちらもが、人生に影響など及ぼさず、ただ在るのだ。ただ在る、でも私たちはそれから逃れられない。」(406頁)

「昭和史の第四コーナーをともに駆け抜けた」ということでいえば、同期会の仲間たちも同じです。
彼らはまさに悪いことをしても不幸になるわけではないことを身をもって証明しています。
人は「慎ましく生きる」などと心がけなくても、じゅうぶんに幸せになれることを教えてくれます。

そんな彼らと、かつては同じ学舎でともに青雲の志を掲げたこともあったのかと思うと懐かしさでいっぱいになります。
仰ぎ見た虹はしだいにおぼろになってしまっても、それぞれの虹をそれぞれが追いかけ、両の手のひらにつかもうとして生きてきた記憶の航跡は消えません。

一昨日、関東甲信越の梅雨も明けたそうです。


それでは。



「大丈夫、マッサンならできる!」

NHKの朝ドラ「マッサン」が終わりました。
二日続けての最終話、泣けて泣けてしかたがありませんでした。
朝ドラの長い歴史の中で、ヒロインの死で終わるのは、これまで4作品だけだったとのこと。
いささか禁じ手ではないかとも思っていたけど、終わってみれば、思いがけないほど感動的なラストとなりましたね。
かなしいまでのさわやかさ、というか、いっそ、さわやかなほどのかなしさ、というか、ちょっと名状しがたい思いが余韻となって残ります。

このドラマ、ときに筋運びがもたついて、「ちょっとひと言、言わせてほしい」と思うことも多々ありました。
でも、エリーとマッサンのラブストーリーとして見たとき、結果として見事なほどに終始一貫していたことがわかります。
登場人物から「辛気くさい」と言われ続けるマッサンが「わしゃどうしたらええんじゃ?」とフリーズすると、エリーがにっこりほほえんで励まします。

 「大丈夫、マッサンならできる!」

そして再起動するマッサン。
この励ましには、なんの根拠もありません。
実際、最終話のエリーの手紙では、「ウイスキーの味のことはぜんぜんわからなかった」と告白されています。

人を勇気づけるときに「根拠」なんていらない。
ただ相手を信じればいい。

単純なことのように思えるけれど、こういう精神のありようって、日本人にはすこしなじみが薄いのかな、という気がします。それだけに、とても新鮮で、これまでどんなドラマでも観たことがない、そんなラブストーリーとなりえたのではないでしょうか。

パートナーが夢を追いかけようとするときに、「大丈夫、あなたならできる!」と励まして背中を押すか、「あなたには無理、絶対無理!」と言って再考を促すか。

どちらがどうなのか、一概には言えないことだけど、ただひとつだけははっきりしています。
いつでも無条件に信じてくれるエリーがいたマッサンの人生は、うらやましいほどに幸せだったということ。

じぶんを信じてくれる人の手はぜったいに放してはいけない。
死が二人を分かつとしても、放してはいけない。
ドラマのラストシーンから伝わるこのメッセージ、忘れがたいです。

それでは。



「大金」の使い方

自宅に届けられた、少し厚みのある封筒。
中身は、以前応募した懸賞が当選し、その賞金のようです。
「応募した」という事実は思い出せないけど、まあそういうこともたまにはあるでしょう。
なにはともあれ、さっそく封を切って中を確かめてみました。
するとそこには300万円の現金が・・・・・

という夢を見ました。
いきなり「夢オチ」の話を持ち出したりして恐縮です。
ただ、この夢の内容には、どうも納得できない点があります。

ひとつは、「300万円」というこの金額。
「大金」であることには相違ありません。まっとうに働いてそれだけ稼ぐのがどれだけ大変なことか、身にしみてわかっているつもりです。

でも。それにしても。
なんで「300万円」なんでしょうか。
「3億円」でも「10億円」でもなく、「300万円」なのか。
まるでぼくがイメージできる「大金」の上限を手にとって見せられたみたいな気がします。
ここには気宇壮大なスケールのようなものがみじんも感じられません。
心の奥に潜み夢を操る「超自我」を呼び出して、以後このようなことのないよう、厳重注意を与えたい気分です。

納得できないもうひとつの点は、夢の中で「300万円をゲットした」と意識したその瞬間、頭に浮かんだ想念のこと。
いったい何をいの一番に考えたかといえば・・・・
「これからは、二つのうちどちらにしようかと迷ったとき、値段を気にせず高いほうを選択できる」というものでした。
要するに、「AランチとBランチがメニューにあれば、いつでも即座にAランチ」ということですね。

その気持ちはわからないではありません。日常の些事にこそ重きを置くその心性をいとおしくさえ思います。しかし、棚から落ちてきたような「大金」を手にした際の反応としては、あまりにつましく、いじましすぎます。なぜもっと豪快な使い途を考えないのか。ここまでくると、わが「超自我」に退場を命じたくなります。

「世の中、お金で買えないものはない」という考え方の人がいます。その是非はさておき、すくなくとも「世の中、お金がなければ買えないものが多い」のは、動かしがたい真理です。
どれだけの大金を目の前に(夢の中で)積まれてもたじろがず、即座に豪快に(夢の中で)使い切ってしまいたいものだと思いました。

それにしても、「ほんとうのさいわいとは何だろう」と問い続けた宮澤賢治のことが、なぜだかふと思い出されるような、そんな不思議な夢でした。

それでは。




今年はこれが最後です

今年もあとわずかになりました。
振り返ってみると、このブログを更新する回数が少ない一年でした。
落ち着いた気分でブログを書けないことが多かったような気がします。
なんとなく心がざわざわしたりかりかりしたりすることが多かったみたい。
来年がどういう年になるのか、ほんとうにわかりません。
でもゆったり気分でブログが書ける、そんな日が多くなるといいなと思っています。

ブログを書くとき、じつをいうと、自分なりのルールを守るようにしています。
・・・と書くと、映画『トランスポーター』の主人公みたいで、ちょっとかっこいいですよね。
彼の場合、たしか、「1.契約厳守」、「2.クライアントの名前を聞かない」、「3.運ぶ品物が何であるか、その中身を開けて調べたりしない」というような3つがそのルールでした。

ぼくの場合も、同じように3つほど、「マイルール」があります。
そのうちのひとつは、「自分で書けない言葉を文章の中に使わない」というルール。
たとえば、「骨粗鬆症を病む躁鬱気味の蟷螂が頬を薔薇色に染めて欠伸をしていました。」というような文章を書こうと思ったら、あらかじめ書き取り練習を繰り返さないといけなくて、とても大変なことになります。

そんなことにも気をつけながら、来年もまたのんびり書きつづけていけたらいいなと思います。
ところで、マイルール「その2」と「その3」はどんなことなんでしょう。
いまは内緒です。そのうち書くかもしれません。
でもぜんぜんたいしたことではないので、期待しないで下さい。
・・・と書きながら、どこかで誰かが期待してくれることを「期待」してしまうぼくなのでした。


それでは。


地雷はいつか発火する

誰にでも、勘違いをしたまま覚えてしまった言葉があります。
人に気づかれず、自分でも気づかず、そのまま大人になってしまう。
自覚のない時限爆弾みたいなものです。
問題は、いつどんなシチュエーションでその思い違いに気がつくかにあります。
その状況によって、運のいい人と悪い人に別れるのかもしれません。

ぼくの「運」はどっちなんだろう。
先日、そんなことを考えさせられる出来事がありました。
原因となったのは、「高菜」という野菜です。
ランチどき、とあるセルフサービス式のカフェでメニューを眺めたら、「高菜パスタ」の文字が目に飛び込んできました。
和風テイストで、なんだか美味しそうに思えます。
早速、レジカウンターで係りの女性に注文しました。
20才前後に見える、アルバイトの女の子です。

「こうさいパスタ、くださいっ」

一瞬、怪訝そうに眉をひそめたその女の子、ちょっと考えてからオーダーを復誦しました。

「はい、たかなパスタ、ですね。」

・・・・・
知りませんでした。
ずっと、「こうさい」と読むのだとばかり思っていた。
「高菜」が「こうさい」であり続けた長い歳月が、この日の白昼、音を立てて崩れ落ちました。

この「過ち」は、いったいどの程度、深刻なものなのか。
それとも、日常的に誰でもが間違える、取るに足りないことだったのか。
気になったので、翌日、3人の女性(50代、40代、20代)に見解を求めてみました。
結果は次のとおり。

「子どもでも間違えない。いい年をしてはずかしい」
「常識がないとは思ってましたが、そこまでとは知りませんでした」
「信じられない。外でパスタなんか食べないでほしい」

比較的、きびしい意見が多かったようにも思えます。
ただ、みんな、我が事のように心配してくれていることがわかったのは収穫でした。

もっとも、ぼくにも少し言い分はあります。
要点は2つ。

1.「野菜」は「やさい」と読むのであり、「のな」と読む人はいない。
  「白菜」は「はくさい」と読むのであり、「しろな」と読む人はいない。
  したがって「高菜」を「こうさい」と読んでもよいではないか。

2.「夫婦」は、普通、「ふうふ」と読むが、「茶碗」と結合すると「めおと」に変化する。
  したがって「パスタ」と結合した「高菜」が「こうさい」と変化してもよいではないか。

しかし、こういう建設的な議論に耳を傾ける人はほとんどいません。
強いて主張すれば、ずるずると深みにはまっていくような気もします。

体内に深く埋め込まれた「勘違い」。
足元に秘かにばらまかれた地雷のようでもあります。
カフェのレジカウンターで発火するぐらいなら、まだ「運」がよかったのかもしれません。
大勢を前にしてのスピーチのときだったりしたら、かなり恥ずかしいです。
「読み間違え」をしたばかりに、一国の総理の座を危うくした政治家だっていたことだし。
日本語ってほんとにむずかしいですね。


それでは。



プロフィール

JIRO

Author:JIRO
東京下町で開業する司法書士です。
司法書士とはなにをする人か?
・・・一言では説明が難しいです。
といって二言三言あれば説明できるわけではなし。

このブログでは、日頃の出来事や読んだ本、観た映画などのことを書きつらねてみたいと思います。
あ、お仕事のこともすこし触れていきます。

(ホームページ http://www.noguchi-office.jp/)

相続なら江東区の司法書士 みどりの杜司法書士事務所(会社設立)

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