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狭いながらも楽しい我が家

ここ一年、自宅のあちこちに綻(ほころ)びが出ています。お風呂の給湯器を修理したあとすぐにトイレの交換工事が必要に。引き続いてシステムキッチンの取替工事を済ませた途端、「お次の番」だと言わんばかりに故障するドアホン。少し前にはエアコンも取り替えを余儀なくされているし、もう次から次へと出費がかさんで大変でした。ずっと昔、ばけものみたいな家が人を食べまくる映画(『ハウス』:1977年大林宣彦監督)があったことを思い出してしまいます。まあ、築25年を経ているんだから、いたしかたがないことかもしれません。なんといってもかけがえのないマイホーム。当初メンバー二人から四人となり、いまは三人が住まうだけになったけど、まだまだ末永く雨風をしのぎ、ぬくもりを保ちつづけてもらわないと。

「マイホーム」を舞台にした、ほろ苦い、を通り越して「胃が痛くなるような」後味を残す映画があります。
『葛城事件』(2016年) です。劇場で見逃してしまっていたのが惜しまれるような、また逆に閉鎖された劇場空間で観ないでつくづくよかったと思えるような、映画です。



モラハラの権化のようなお父さんの強烈極まる磁力が家族(妻と二人の息子)の心をやんわりとむしばみ、じんわりと追い詰めます。お互いの関係が極限まで歪んだときに次男が引き起こす通り魔殺人。ちょうど太陽表面の磁力線がくびれきったとき、磁場エネルギーが一気に放出されてフレア(大爆発)を起こすのと似ています。

この父親にとって、「マイホーム」はまさに「一国一城」であり、じぶんはその「主(あるじ)」でした。新築時に庭に植えた蜜柑の木は、その幸福の象徴です。でも、最後に彼は、その「蜜柑の木」にさえそっぽを向かれてしまう。「守るべき城」が、いつしか抜け出ることを許されない「牢獄」となっていたという、その皮肉の痛切さ。「胃が痛くなるような」と書いた理由がおわかりいただけるでしょうか。

「守るべき城」がありながら、果敢に打って出ようとした夫婦を描く映画もあります。
その映画、 『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』(2008年) もまた、別の意味で胃が痛くなります。



傍から見れば、「絵に描いたようにしあわせ」な若い夫婦。趣味のいい洒落たマイホームに住み、可愛い子どもに恵まれ、生活は安定し、何ひとつ不自由はないように見えます。ところが、ある日突然、この夫婦の心に不満が根ざします。もっと自分らしく生きていける世界があるのではないか。未来へのとりとめのない希望にとりつかれてしまいます。同じ夢(いまここにない幸せ)を得た当初こそ、お互いの絆をいっそう強める二人だったけど、やがてこの二人三脚、足並みが乱れていきます。「同床異夢」という言葉そのものになっていきます。確かであったはずの絆がゆるび、足と足とがもつれあって、ついにはあらぬ方向へと迷走してしまう・・・。

これらの映画を観ていたら、こんな歌が頭に浮かびました。

「世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」

その昔、山上憶良が詠んだ歌ですね。
「やさし」は、この場合、「耐えがたいほどつらい」というような意味。
もしも鳥だったら、いまのこんな状況から自由に羽ばたいてさよならすることができるのに・・・・
鳥へのあこがれは、時代を超えて万国共通なのかもしれません。

いっぽう、自由に羽ばたいたからといってすべてが解決するとは限りません。
ギリシア神話に登場するイカロスがいい例です。蝋で固めた翼を得て、自由に大空に飛翔したのも束の間、うっかり太陽に近づき過ぎて蝋が溶けてしまいます。もげた翼と一緒にむなしく墜落していくイカロス。その人生は、「束の間」の幸福を得たことをもってよしとすべきなんでしょうか。

ということで、「マイホーム」とは、「出るも地獄、とどまるも地獄である」とでも言うような二本の映画のお話でした。
思えば太宰治も「家庭の幸福は諸悪の本(もと)」だなんて書いています。
なら、どうしろといいうのか。
そんなことをぼやきながら、胃薬片手にこういった映画を鑑賞できる「平和な我が家」が「いま」あることをかみしめています。

ところで、数日前から、洗面台の配水管工事の見積もりが手元に置かれています。
金額が一桁、間違っているのではと矯(た)めつ眇(すが)めつしています。
「我が家の平和」を保つのは、ほんとに大変ですね。努力、努力です。
そういえば、われらが日本国憲法にもこう書かれていたのでした。

「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」(12条)

「不断の努力」とはまた「普段の努力」ということの掛詞なのかもしれません。
憲法も励ましてくれています。
がんばりましょう。がんばります。

それでは。



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行く人と帰る人と(映画『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』)

お正月の遊びといって思い出すのは、百人一首です。
子どもの頃、大人同士の源平合戦に混ぜてもらっているうちに、いくつかの歌は自然に覚えていました。
あのころは、いろんなことを自然に覚えられたんですね。
歳月を経たいま、すべてのことは自然と忘れます。
「覚えていない」ことさえ、たちどころに忘れます。
なのに、子どもの頃に覚えてしまったことだけは、いまだに思い出すことができる。
頭の中がどうなっているからなのか、なんだか不思議な話です。

百人一首の中で、子どもの頃に覚えて忘れていない歌のひとつに、蝉丸法師の歌があります。

  これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関

坊主めくりのときに蝉丸法師の札を引くと、座が一気に盛り上がったことと重ね合わせて覚えています。
坊主めくりには「蝉丸ルール」と呼ばれるものがあるそうだけど、それはまた別の話。
この歌の意味は、こんな感じになります。

行く人も帰る人も、知る人も知らない人も、みんなが出逢っては別れる坂、「逢坂の関」とはそういうところ・・・

公開中の映画『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』は、この歌を思い出させます。
ある日、電車の中で出逢った女性に一目惚れしてしまう主人公。
でも、彼女は、どんな神様のいたずらなのか、時間軸を逆行しながら生きています。
だから、ふたりが恋人同士でいられるのは、お互いの時間が交錯する40日あまり。
まさに、ひとつの時間軸のうえで、「行く人」と「帰る人」が出逢ってしまう。
年に一度の逢瀬が約束されている織姫と彦星よりも苛酷な運命のなか、淡いラブストーリーが描かれます。
映画の舞台となるの京都の街は、「逢坂の関」のイメージにもぴったりな感じではありました。

別れるための出逢い、その運命を微笑みながら受け入れるヒロイン(小松菜奈)が印象に残ります。
堪えきれずに流す涙は、そのまま淵となっていつまでも流れ続けるのかもしれません。
そういえば、百人一首には、こんな歌もあります。

  思ひわびさても命はあるものを 憂きに堪えぬは涙なりけり

どれほど辛くても命はあるというのに、生きてはいけるというのに、堪えきれない悲しみに涙があふれてきてしまう・・・

この涙のせつなさはひとしおです。

行く人、帰る人、みんなすれ違ってふたたび出逢うことはない。
思えば蝉丸法師も罪作りな歌を詠んだものです。
この歌さえなければ、この世のすべての出逢いはハッピーエンドになったのかもしれないのに。

それでは。



「時」の鎖を断ち切る(映画『君の名は。』)

先月、東京都心で雪が降りました。
11月としては54年ぶりのことで、史上初の積雪となったところもあったそうです。
ちょうどこの日、東京から神奈川の三浦海岸まで出かける用事がありました。
1時間半ぐらいで着く予定だったけど、雪のためダイヤが乱れてしまい、途中駅で何度か時間調整することに。
結局、40分ほどの遅延で到着しました。
ダイヤどおりに進まない電車の窓から降り続ける雪を見ていたら、ふと新海誠監督の『秒速5センチメートル』という作品を思い出しました。ちょっと似たシチュエーションのような気がしませんか?まあ、「待ち人」がまったく異なるのは仕方ないこととして。

新海誠監督の作品には、「伝えたいのに伝えられないこと」のもどかしさ、せつなさが通底しています。人と人とを繋ぐツールがどれだけ進歩しても、何かしらが立ち塞がり、その思いが相手に伝わることを妨げます。
妨げるもの。それは降雪のような自然現象であったり、お互いの間に横たわる距離であったりします。『ほしのこえ』(2002年)という作品では、この距離はじつに「光年」の隔たりを持つまでに至ってしまいます。

新作『君の名は。』を観ました。
今回、人の恋路を邪魔する野暮は、「空間」ではなく「時間」です。
かくも手強い障壁を乗り越えて、思いはふたたび繋がりあうことができるのか・・・・

この映画には、古今の過去作品をオマージュしているような気配があり、新海監督の映画愛を感じます。
個人的に想起したのは、たとえば『ある日どこかで 』(1980年、アメリカ)。
この映画で、主人公は「時間」が築く城壁に果敢に立ち向かいます。
その愚直なまでの一念は、そこに小さな穴をうがつ。
でも、その穴から溢れ出る奔流は、逆にたちまち彼を呑み込んでしまう。
甘さとほろ苦さがブレンドされた、忘れがたい名作です。

『時をかける少女』 という映画もありました。
何度も映画化されている中で、なんといっても思い出されるのは、原田知世がヒロインとなった1983年版。
北原白秋に「どくだみの花のにほひを思ふとき青みて迫る君がまなざし」という歌があるけど、この映画を思うたびによみがえるのはラベンダーのあの香りです。
せつなさ溢れるラストシーンから反転した爽やかなエンディングテーマが心に残る映画でした。

『君の名は。』という映画が想起させるのは、こういった過去の映画だけではありません。
たとえば、夏目漱石の『夢十夜』
この小説には、「100年の後に百合の花になって会いに来る」と言い残して息を引き取る女性がいます。その墓の傍らで待ち続ける男がいます。
いつしか時は流れて、そこに一輪の蕾が花びらを開きます。

『君の名は。』は、こういったさまざまな「物語」と通底する美しさを感じさせます。
「時」の鎖を断ち切ったとき、絶望や孤独の彼方からやがて降りてくる一条の「ひかり」。
映画の中から放たれるこのひかりを浴びると、視界が揺れてゆがんで溶けるおそれがあります。注意が必要です。

それにしても・・・
通信機器の発達は日進月歩。
遠くない将来、「光年の壁」も「時間の障壁」も超えたスマホが登場するかもしれません。
さらに、「この世」と「彼岸」を繋ぐスマホを、スティーブ・ジョブスが開発中・・・・
だったらいいですね。大いに期待したいです。

それでは。



「空洞」を満たすもの(映画『永い言い訳』)

いま、東京では、豊洲というところの地下に見つかった空洞をめぐって、てんやわんやの事態になっています。
どのように収束していくのか、まだ予断を許しません。
「さっさと埋めてしまって、なかったことにしてしまえばいい」という訳にはもいかず、右往左往するひとたち。
とつぜん降って湧いたような「空洞」とは、かくもやっかいなものかと思います。

「空洞」は、建設予定地の地下のみにとどまらず、誰彼かまわず、いきなりその胸の奥底に出現することがあります。
「喪失」が人の世の常なのだとしたら、「空洞」をかかえて生きることもまた避けられないのかもしれません。
では、ぽっかり空いたその暗闇は、盛り土をすることでリカバーできるのか。
そもそも、それは、何かで埋め合わせができるようなものなのか。
そこに湧き出し続ける「悲しみ」は、ほかのどこに持っていったらよいのか。
誰にとっても「空洞」というのはやっかいなものですよね。

公開中の映画『永い言い訳』を観ました。

永い言い訳

不慮の事故でいきなり妻を失った小説家のお話です。
なのに主人公は「これっぽっちも泣けない」ことに戸惑います。
どうも、彼の中の「空洞」は、「妻の死」以前のもっとずっと前から、そこにありつづけていた。
そのことに気がつきます。
じぶんの体の中心に居座る、黒々とした「空洞」。
それは、誰を寄せ付けることもなかった、秘密の場所です。
彼自身の「本音」でさえ、そこには居場所がありません。
彼はあせります。
せめて「悲しみの涙」でこの空虚をいっぱいに満たせたら。
だけど、「これっぽっちも泣けない」彼には、それすらままなりません。

なんだか難儀な話ですね。
観ていて息が詰まりそうになりました。

それでも映画は、結末を迎えます。
「先送り」でもなく「一時しのぎ」でもない結末に思えます。
からっぽの自分を丸ごと受け入れ、あるがままの自分を人にも受け入れてもらう覚悟。
自分の延長が「他者」であり、その「他者」もまた「受け入れがたい」ものを受け入れて生きていることを認める勇気。
「空洞」はどこまでいってもやっかいでありつづけます。
でもまずそこに「他者」のまなざしを光として満たす、そこから始めることが必要みたいです。

豊洲の地下空間問題で頭を悩ます人たちも、この映画を観れば落としどころがすぐにわかる・・・・かもしれません。
「他者のまなざし」はあなどれないです。
どうか「先送り」でもなく「一時しのぎ」でもない結末になりますように。

それでは。



「自分の仕事をしただけ」(映画『ハドソン川の奇跡』)

「トム・ハンクス主演の映画に、はずれなし」という格言が辞書に搭載される日も遠くはない・・・
そう思わせられる映画を観ました。クリント・イーストウッド監督の『ハドソン川の奇跡』です。

ハドソン川の奇跡


9年前、乗客155人を乗せた民間機がニューヨークのハドソン川に不時着水した事故の映画化作品です。
トラブル発生後、着水までの208秒。わずかこれだけの時間で、飛行場に戻るという選択肢を捨てる決断をし、最高の技量で機体を無事に着水させたサリー機長。
メディアから「英雄ですね」とマイクを向けられ、こう答えます。

「自分の仕事をしただけです」

この映画を観て、このセリフにしびれた人は多いのではないでしょうか。
まさに、寡黙で腕のたしかな職人(アルチザン)としての年輪を感じさせるひと言です。
長年、ひとつのこと(飛行機の操縦)に打ち込んできた人間がもつ、ゆるぎない「風格」と言ってもいい。

いっぽう、「自分の仕事をしただけ」という言葉を、別の文脈で使った人物がいます。
ドイツの親衛隊(SS)中佐として、数百万のユダヤ人を強制収容所へ移送するに際に指揮を取っていた、アドルフ・アイヒマンです。
戦後、逃亡の末、イスラエルで裁判にかけられ、死刑となりました。

『ハンナ・アーレント』(2012年)という映画で、そのことが触れられています。



アイヒマンは、裁判の中、「自分は命じられてただ仕事をしただけ」と繰り返します。
稀代の殺人者というよりも、むしろ凡庸なまでの「小役人」の姿がそこには浮かび上がります。

「ただ、自分の仕事をしただけ」という結果として、155人の命を救う「英雄」となることもあれば、大量虐殺のお先棒を担ぐ、悪魔的「小役人」となることもある。

両者の「差」はいったいどこから来るのでしょう。
日々の仕事にいそしむとき、心の中で、胸を張って空を仰いで、「自分の仕事をしただけ」と言えるかどうか。
分岐点はそこにあるような気がしました。

それでは。




「想定外」を具現化(映画『シン・ゴジラ』)

公開中の映画『シン・ゴジラ』が面白いです。
2年前、ハリウッド製『GODZILLA ゴジラ』を観て、その迫力に圧倒されました。
そのとき、もう日本でゴジラ映画を撮っても仕方がないとまで思ったけど、とんだ思い違いでした。
今回の『シン・ゴジラ』、世界中に胸を張って見てもらえる日本映画です。
「怪獣」映画というくくり方をしてよいのかどうかわからなくなるような、観ている側に緊張を強い続ける映画です。

5年前、日本は「想定外」という事態が現実に起こることを体験しました。
国のシステムが、「想定外」に対してはいかに無力であるかも思い知らされました。
この映画でのゴジラは、まさに「想定外」という事象の具現化として眼前に現れます。
ゴジラには、「人々を恐怖におとしいれる」といった「意図」はありません。
「都市を破壊する」という「目的」もありません。
ただ、「想定外」の存在として「存在」します。
そのことに、どうしようもないリアリティを突きつけられます。

絶望的な展開の映画の中で、2つのことに救いが感じられました。

ひとつは、対処する側の人たちが、途方に暮れながらも概して冷静な態度を崩さないこと。
首相は、頼りなさげであったり茫洋としていたりするけど、少なくとも取り乱したりする姿は見せません。
ただ一度、対策責任者が怒声を発する場面でも、即座に同僚は水のペットボトルを彼の胸に押しつけ、落ち着かせます。
危機的状況であればあるほど、クールダウンをこころがける。
日常生活レベルでも役立つ教訓です。
たとえばレストランで食事中に財布を忘れてきたことを思い出した、というときなどに是非生かしたいものです。
とりあえず慌てずに、最後まで食べきりたいものです。
それ以前に、外出時には財布を忘れないようにしたいものです。

もうひとつの「救い」は、この想定外の脅威に立ち向かい、未曾有の危機を安定させるのが、カリスマ的な指導者でも限定されたヒーローでもなく、日本人ひとりひとりの英知と勇気の集合である、という点。
これまでこの国で繰り返されてきた災厄を乗り越えてきたのは、乗り越えられたのは、まさにそのパワーがあったからではないでしょうか。こういう国土で生きなければならない宿命を負ったわれわれにとって、それを信じられることこそが「希望」であり「光明」です。

「いささか甘いのでは」というお叱りを受けるかも知れません。
でも、このビターきわまる映画に、その程度の「蜜」はトッピングしてかまわない気がしました。

それでは。


人生の花道はどこに?(映画『教授のおかしな妄想殺人』)

ウディ・アレンの最新作、『教授のおかしな妄想殺人』を鑑賞。
軽妙、コミカルなミステリー、といった味わいの映画です。
映画のバックには軽快なジャズが流れつづけます。
スクリーンと音楽に身を委ねていると、いつのまにかはじまるエンディングロール。
2時間を超える映画が多い中、90分の上映時間にはほっとします。

主人公は「人生に『意味』はあるのか」と悩む厭世的な哲学教授。
この厭世ぶり、アレン映画ではおなじみのキャラクターです。
その彼があるとき、世直しのための「正義の殺人」を思いつき、その計画に熱中する。
でもそこに『罪と罰』のラスコリニコフのような重苦しい葛藤は微塵もありません。
逆に、犯罪遂行に生きがいを見いだし、表情も明るく輝き、女子学生にもててしまったりします。そしてあっさりと手に染める殺人行為。
さてこの「完全犯罪」の行方は・・・・
それは映画を観てのお楽しみ。

ウディ・アレンがこの映画で描きたかったことは何なのか。
どうも、「殺人」という犯罪の顛末そのものではなかったような気がします。
ラストのラスト、ある「取るに足らないモノ」が主人公の運命を反転させてしまう、その「瞬間の皮肉」にこそメッセージが凝縮されているのでは。あとのことはすべて長い「前振り」に過ぎなかったのでは。どうもそんな気配を感じます。

では、それはどんな「メッセージ」なんでしょう。
「人生の意味」を問い続け、「生きがい」を求めてあくせくして、「最後の瞬間」に直面していることにも気づかずに、ただあっさりとこの世からフェイドアウトする。良くも悪くも、人間なんて所詮みんなそんなふうにして人生の幕を閉じていく・・・重たいメッセージなのに、そうとは感じさせないところに彼の「芸」があります。

ウディ・アレンも御年ついに80才。
いよいよ身の始末のつけ方が気になってきているのでしょうか。
日本には、「願はくは花の下にて春死なむ その如月の望月のころ」という歌がありますね。ひょっとしたら彼にも気に入ってもらえるかもしれません。

それでは。

遠い昔の物語(『スターウォーズ/フォースの覚醒』)

公開中の映画『スターウォーズ/フォースの覚醒』を観てきました。
ハン・ソロ船長とレイア姫の再登場は、やっぱりうれしかったです。その一瞬、「懐旧の念」がじわっとこみあげてしまいました。
とくにレイア姫(キャリー・フィッシャー)はほんとに久しぶり。レジスタンスの将軍としてみせる貫禄の奥からは、これまで歩んできた人生の哀歓がにじみ出ているみたいに見えます。「お互い、寄る年波には勝てませんね」などと語りかけてしまいたくなります。

「スターウォーズ」という映画を最初に観たときのことは鮮明に覚えています。
場所は西日本の某県庁所在地。駅前繁華街にある映画館でした。
ジャッキー・チェン主演の映画と二本立て、夜の最終上映だったと思います。
なぜそのときそんな場所で、ひとりで映画を観ることになったのか。
いきさつを説明をするととても長いお話になります。でも「銀河帝国とジェダイの騎士をめぐる昔むかしの物語」に比べてあまり面白味がありません。よって、子細は割愛します。

映画館はがらがらでした。収容人数は多そうな劇場なのに客はせいぜい10人足らず。寒々とした気配が漂うとはいえ、まるで大きなスクリーンを独占しているみたい。そんな王侯気分のなか、映画ははじまりました。
オープニングのファンファーレが鳴り響き、はじめて観るおどろきの映像の連続に目を見張ってしばらくすると、そのとき・・・・
足元をつむじ風が通り過ぎたような気配が。
ズボンの裾を何かがかすめたような感覚もあります。

いまなら「ギミック(映画館の仕掛け)か?」と疑うところでしょう。
残念ながら違いました。正体は「ねずみ」です。
以前、ディズニーランドでは実際にそんなギミックを仕掛けたこともあったみたい。
でもこのときは「本物」です。
何匹だかのねずみがひんぱんに座席の下を行き交っていたのでした。

映画館に我が物顔でもぐりこんできたねずみ・・・ではなく、たぶん、この時間の館内は彼らのテリトリーだったのでしょう。
そこに無断で入り込んでしまったぼくに果たして居場所はあるのか。
かろうじて座席の上ならば、と、靴のままそこに正座する羽目に。

座席に「正座」して映画を観る。後にも先にもこのときだけのことです。
さすがに気もそぞろになりかけたりもしたけど、それでも「途中で席を立つ」ということをさせないパワーのある映画でした。ダースベイダーにライトセーバーで立ち向かう勇気を思えば、ねずみさんたちにひるんでいるわけにはいかないですからね。

それにしても、いやはやなんとも、懐かしい思い出ではあります。
大変な映画館があったものだ、といまなら言えるけど、当時はいろんな映画館があったし、たいていのことは「まあいいか」で済ませてしまう、おおらかな時代だったんでしょうね。

さて今回の鑑賞は、ラージスクリーンで観る3D映像です。
大画面からは巨大戦艦「スター・デストロイヤー」がせり上がります。戦闘機「Xウイング」が突進し、敵戦闘機「タイ・ファイター」も次々と眼前に飛び込んできます。
当然ながら、足元をおびやかす、あの不穏な気配はありません。なにしろ年が明けていまは2016年。「スマホ」なる通話機能付き・カメラ内蔵コンピューターを誰もが持ち歩ける時代です。時空を超えてしまっているのです。まさに「光陰」はファルコン号のごとく過ぎ去ります。


それでは。


五人の裸婦と、屍の兵士(映画『FOUJITA』と藤田嗣治)

画家藤田嗣治を描いた映画『FOUJITA』を観てきました。

藤田の生涯や画業を丹念に追う、という映画ではありません。
テーマはどこにあるのかを考えはじめると、なかなか手強い映画です。
こういう映画を観るときは、肩の力を抜くに限ります。抜きすぎるとうとっとしてしまうこともあるので要注意です。

映画前半の舞台は、1920年代、芸術家たちが華やかに才能を競い合った時代のパリ。
後半は太平洋戦争のまっただ中にある日本に舞台を移します。

前半パートでまず目を惹くのが、面相筆を持つ藤田が、女性の横顔、その輪郭をためらいなくなぞる場面。孤独なアルチザン(職人)としての藤田の側面が活写されます。
そして15世紀に織られた、ミステリアスな『貴婦人と一角獣』のタペストリーを食い入るように見つめる彼の姿。過剰なほどの長回しで撮られています。6枚連作のこのタペストリー、テーマは六つの感覚であるとされているけど、6枚目の解釈は謎に包まれています。
画家としての藤田の矜持や、内面に渦巻くただならぬ情念をさりげなくイメージさせるシーンです。

映画は、藤田たち芸術家が「狂乱の時代」そのままのばか騒ぎに興ずる様子を描きます。
でもどんなにおどけても、藤田の背中には寂寥がまとわりついています。
一方、酒場で熱狂する彼らと裏腹に、パリの街並みは息をひそめているように見えます。
彼らが澱んだ空気を撹拌しようとすればするほど、街全体はなぜかひっそりと静まりかえります。

舞台が日本に移ると、一転して自然の繰り出す「音」があふれています。雨の音、風の音、せせらぎの音。耳をよくすませば、その奥からは、軍靴の響きや砲声、爆音も聞こえてきます。多重的に音が混ざり合う中、息をひそめているのは、藤田やその妻、周囲の人たちのほうです。

出征していくある兵士は、「きつね」にまつわる言い伝えを語ります。
走行する汽車をたぶらかし、逆にひき殺されてしまったきつね。
この映画の、どこにどのように当てはめていいのかわかりにくい説話です。
わかりにくいけれど、どこか気になる説話でもあります。
行き場のないジグソーパズルの断片のようです。

ためしに、藤田自身の姿をこの「きつね」に投影してみました。
パリ時代の藤田は、己を韜晦(とうかい)し、自己演出の限りを尽くします。
終戦直前の時期になると、自らの芸術的創作意欲を充たすため、軍の要求する「戦意高揚」を結果として隠れ蓑にした、という側面がなかったとは言い切れません。そして行き着いたのが『アッツ島玉砕』などの戦争画でした。
どちらの「時代」にあっても、周囲を「あざむく」ことを余儀なくされていたと言えないこともなさそうです。

でも、そのようにして藤田が「たぶらかした汽車」は、藤田にしっぺ返しをします。
パリでは、たとえ帰化したあとであっても結局は異邦人でありつづけたし、また、戦後の日本は、藤田からその居場所を奪いました。

周囲にうごめく圧力をすべてを逆手に取ろうと立ち回ったあげくのその生涯は、説話の「きつね」とどこか通じるようにも思えます。
ただ、藤田は、汽車に黙っておとなしくひき殺されたりはしません。
もっとずっとしたたかです。映画の最後、画面をよぎるCGの「きつね」は、山奥の闇の中に消えていきます。誰の手にも届かない闇です。闇の中で孤独ではあっても、自由です。孤独だからこそ自由です。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

東京国立近代美術館で展示されている、藤田嗣治の全所蔵作品を観てきました。
映画にも登場したパリ時代の『五人の裸婦』や、戦争画の『アッツ島玉砕』、『サイパン島同胞臣節を全うす』などが展示されています。

戦争末期に制作された『アッツ島玉砕』などの作品には、西洋古典絵画のモチーフや構図も取り入れられているそうです。
画家としての藤田は、いかなる状況でも前向きです。おそるべき創作意欲です。
そしてここで描かれている「ころしあい」の、息をのむばかりのむごたらしさ。
乳白色の裸婦と茶色一色の屍(しかばね)は、20年の時間を隔てて描かれました。
両者を同じ場所、同じ空間で観て、どんな感想を持ったらいいのか、とまどうばかりでした。


五人の裸婦

アッツ島玉砕



それでは。



沈黙の秋

映画で描かれる「ヒーロー」は、一般的には言葉数が少ないタイプが多いみたいです。
『ダイ・ハード』のブルース・ウィリスみたいに、始終ぼやいているヒーローなどは少数派ではないでしょうか。実際、体を動かして敵をなぎ倒すのに忙しいのだから、長いセリフをしゃべっている余裕はなさそうです。

セリフの少ないヒーローの典型に、スティーヴン・セガールがいます。
『沈黙の戦艦』、『沈黙の断崖』など、『沈黙』の二文字を冠したシリーズは15作品以上にのぼります。なぜ「沈黙」なのか。「戦艦」や「断崖」にセリフがないのは当然なので、これはやっぱり主役であるセガールのイメージを意識したタイトルなのだろうと思います。

どの映画でも圧倒的に強いセガール。なぜこんなに強いのかという疑問に答えて、映画の中で「かつて○○○で○○○だった」というような経歴であることが明かされたりします(○○○には、「海兵隊特殊部隊」、「米陸軍特殊部隊」、「CIA工作員」あるいは「格闘技全般に精通」、「対テロ部隊指揮官」、「唯一の生き残り」などの言葉を適宜挿入)。「過剰」ではあっても「葛藤」があまり(あるいはほとんど)ないストーリー展開がなんといっても魅力です。

『沈黙の要塞』 (1994年)という映画でも、セガールは天下無双の強さです。酒場でからんでくる大男だって子ども扱い。そのセガールがどれだけすごいのか、相手方の悪役から飛び出すのは、たとえばこんなセリフです。

 身ぐるみはいで北極にパンツ一枚で放り出しても、翌日にはメキシコからにっこり笑って現れる。奴はプロだ。

宅配便の宣伝文句のようでもあるけど、冷静に考えてみるとたしかにこれは「すごい男」だと言わざるを得ません。「メキシコから現れる」という点に若干の疑問はあります。北極だったら、経由するのはアラスカになるのでは。ただ、この映画の舞台がまさに「アラスカ」であることを考えると、「メキシコから現れる」ということに何か別の怖ろしい意味があるのでしょうか。よくわからないだけに不気味です。

こういうセリフを考える脚本の人はきっと楽しいだろうな、と思います。
ちなみにぼくも、バリエーションとして、こんなのを考えてみました。

 鎖でがんじがらめにしてマリアナ海溝に沈めても、木枯らし吹く日に空を見上げれば、パラソル広げて歌いながら舞い降りてくる。奴はプロだ。

ダメですね。引田天功とメリーポピンズを合体させただけみたいになってしまいました。どことなく牧歌的ではあっても、セガールの「すごみ」は、その片鱗も表現できていません。本職の脚本家には到底かなわないなと思います。その道のプロの前では、とりあえず沈黙していたほうがよさそうです。

それでは。


プロフィール

JIRO

Author:JIRO
東京下町で開業する司法書士です。
司法書士とはなにをする人か?
・・・一言では説明が難しいです。
といって二言三言あれば説明できるわけではなし。

このブログでは、日頃の出来事や読んだ本、観た映画などのことを書きつらねてみたいと思います。
あ、お仕事のこともすこし触れていきます。

(ホームページ http://www.noguchi-office.jp/)

相続なら江東区の司法書士 みどりの杜司法書士事務所(会社設立)

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