FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

節税にも節度が必要です

『ショーシャンクの空に』という映画があります。
主人公は、優秀な銀行員であったアンディ。無実の罪で投獄されてしまっています。
でも、彼の中には、つねに「戦略」がありました。
ある日、看守が遺産相続によって支払わなければならない税金に不満たらたらであることを知って、「コンサルタント」を申し出ます。
それをきっかけに、着々と固めて行く、刑務所内での地歩。
すべては、彼の遠大な計画のための「布石」となっていくのでした・・・

感動的な映画です。いろいろと教えられることもありました。
「専門知識」がときに強力な「武器」にもなりうるのだ、ということもそのひとつ。
アンディを助けることになる強靱な意志と、専門知識。
「芸は身を助ける」、という言葉どおりです。
ただ、自分だけが助かることをアンディはけっして望みません。
彼の行動は、周りの囚人たちにも喜びをもたらし、希望を与えます。
それを可能にすることこそが、ほんとうの「芸」なんでしょうね。

さて、先日の読売新聞一面に、 「税制逆手1000億円申告漏れ」 という記事が掲載されました。
それによると、「簿価」のまま資産を移動できる「企業再編税制」の優遇措置を利用したのだとのこと。

ちょっとわかりにくいお話ではあるんだけど、どうもこういうことのようです。

まず、親会社が会社分割によりA社を新設します。
ただし、出資するのは評価額が簿価より低い不動産。

この結果親会社が取得するA社の株式には、当然、「含み損」が生じています。
このA社株式を出資することで、同じように会社分割によりB社を新設。
親会社はまたまた「含み損」のあるB社株を取得します。
以下同文のように子会社をつぎつぎと増やしていきます。

みるみる産み落とされる、どれも損失を抱えた子会社たちの群れ。
最終的には、この子会社たちを、利益の出ている他のグループ会社と合併させます。
法人所得はもちろん減りますね。
場合によっては税金の還付を受けることさえできるかも。

「会社分割」や「合併」というスキームを「魔法の杖」のように振る。
それによって「損失を抱えた子会社」をたちどころに作りだしてしまう。
税金を専門とする人たちというのは、こんな複雑なことをよく考えつくものだと思います。

さて、記事には、国税当局の見解が書かれています。

「B、C社などの損失は、この操作によって新たに生み出されたもので、法人税法に規定された「法人税の負担を不当に減少させる」行為にあたると判断した」

要するにこのような節税策は認めない、ということですね。

たしかに、企業再編の法整備が行われたそもそもの趣旨は、日々変化する経済環境に即応し、競争社会を生き残るため、必要に応じてその時々の環境に適合するため、というようなことだったと思います。
その結果として、「経営の効率化」が図られ、また「企業統治の実効性」も高まるという効果もあります。
そういった制度趣旨からみて、このような企業再編スキームはどう評価されるべきなのか。
今回、それに対して国税当局の下した判断は、実務的にはとても影響が大きいだろうと思います。

専門家の持つ「専門知識」というものは、市井の人のそれを大きく凌駕しています。
当然、そうでなければ「専門家」などという看板は出せません。
したがって自らのその「知識」をクライアントのために最大限、有効に活用することが常に要求される。
これまた当然のことですね。
その意味で、「芸は身を助ける」わけではあるけれど、同時に、 「過ぎたるは及ばざるがごとし」 ということも忘れてはいけない。
そんなことを考えさせられるニュースでした。

それでは。

スポンサーサイト

「ネガティブ・オプション」、そして「一房の葡萄」

再び前回の続きを少し。

事務所に宅配されてきた甲州産の黒葡萄のお話です。

なにをとまどったのかというと、送り主のお名前。
どうにも心当たりがありません。
すぐにでも開封したい気持ちを抑え、過去一年の顧客リストを調べてみたけど、該当するお名前はなし。
さて困ったどうしよう・・・と思いつつ、念のため、もうすこし遡って調べなおしたら、ちょうど一年半ほど前にご依頼をいただいた顧客の方であることがわかりました。
二度お会いしただけだったので、お名前がすっかり記憶の淵に沈んでしまっていたんですね。
なのに先方は忘れずにこんな心づかいをしてくださいました。
思い出せなくてほんとうにすみません。
ただ、最近では3日前に食べたランチを思い出せないこともあります。
なので、「1年以上前」のこととなると、頭の中に靄と霧と霞みがいっぺんにかかったような状態になってしまうのです。
いただいた黒葡萄の甘さとすっぱさが、頭の中のそんなもやもやを一気に払ってくれたのでした。

さて、送り主の方がわからないでいるとき、なぜ「困ったどうしよう」と思ったかというと・・
「ネガティブ・オプション」という言葉が頭の片隅をよぎったからです。
仕事が仕事なので、ついつい「考えなくてもいいこと」を考えてしまいます。
そのかわり「考えなくてはいけないこと」はあまり考えません。
バランスはとれているのかもしれないですね。

ふだんあまり聞き慣れない「ネガティブ・オプション」という言葉。
これは一体、何のことでしょうか。

一般に、注文をしていない商品を宅配で送付して代金を請求する、という販売方法のことをいいます。
商品として多いのは、書籍、雑誌、名簿、そしてカニ、その他の魚介類など。
「○日以内に返品しない場合には購入を承諾したものとみなす」といったことの書かれた文書が入っていたりします。
一方的に「みなされる」いわれはまったくないので、心配いりません。
ただ、「受け取ってしまったし、知らないまま箱も開けてしまった」という心の動揺につけこまれてしまうおそれはあります。

この場合、どのように対応すればよいか。
簡単にいえば、受け取った商品を放っておくことがいちばんです。
業者にその商品の引き取りを請求してもいいし、しなくても差し支えない。
もちろん、代金を支払う必要などまったくなく、購入するのかどうかを業者に告げる義務もありません。

とはいえ、このまま保管しつづけるのはいやだ、ということもありますね。
だから処分していまいたいが、処分してしまったあとに業者から「返せ」といわれたらどうしよう。
そういう心配もあります。

でも、その「商品」を使ったり消費したりすることなく、ようするに「放っておいたまま」
14日が経過すれば、業者はその商品の返還を請求することができなくなります。
また、業者にその商品の引取りを請求してから7日間が経過した場合にも、業者はもうその返還を請求できません。
こんな知識も、頭の片隅に置いておくと安心できますね。

原則は以上のとおりです。
しかし、それでも、「商品」が現実に眼の前に置かれてあると、普通の生活をしている人にとっては、心理的にわずらわしいことこのうえないでしょう。
業者に引き取らせるためには、その業者と連絡をとり、やりとりを交わさなければなりません。
また、業者によっては、相手の知識不足につけこむように代金の支払いをしつこく求めてくるということもありえます。

現行法では、「ネガティブオプション」という販売方法自体が違法というわけではありません。
したがって、いつでも誰でも、意に反してこうした「当事者」の立場に立たされてしまうおそれがあります。
「平穏」に暮らすことに慣れている人達にとって、突発的な事態に正しく反応する、ということは、意外にむずかしいものです。
急激に「心理」を揺さぶられてしまうと、正しい判断や行動ができない。
ここがまさにポイントとなります。

なんのことわりもなく「一方的に送付されてくる商品」というのは、いわば平和な日常にまぎれこんでくる「異物」です。
「異物」は、いつでも虎視眈々と侵入を試みてくる。
そして、「法的」には、侵入自体を阻止することのできない「異物」もある。
おそろしいことのようではあるけれど、これが現実です。

でも、「平和な家庭」にいきなりの侵入を試みるのは、「ネガティブ・オプション」だけとは限りません。
「異物」とは、「平穏な生活」を乱すあらゆるものの「比喩」でもあるからです。
たとえば、家族の一員を襲う不慮の事故、知らぬ間に忍び寄ってくる病魔、仕事や家業での予期せぬつまづき・・・
招待もしていないのにいつの間にか塀や扉をすりぬけて、家庭の真ん中に居座ろうとするそうした「異物」たち。

断固として追い出す、ということもあるだろうし、丁重にお引き取りを願う、ということもあります。
なかには、なんとか折り合いをつけて共存していかなければならない種類の「異物」もあるでしょう。

どんな場合でも、「異物」に対する対応の基本は同じであるように思います。
整理してみると・・・

1.まずは「深呼吸」。
  昂ぶりがちな気分を鎮めて落ち着くこと。
2.「自分だけ」で判断しようとはしない。
  すべてをひとりで抱え込もうと思わないこと。
3.正しい「情報」をできるだけ集める。
  情報に基づいて、可能な選択肢(方針)をひとつずつ検討すること。

方針が固まれば、あとは「自衛」あるのみです。

4.「自衛」のための強い意志を持つこと。

「異物」の侵入を感知した瞬間から、大げさにいえば、体中の白血球を総動員する「覚悟」を固める必要があるといえるのかもしれません。

葡萄のことから、話からどんどんそれてしまいました。

それたついでにもうひとつ。

有島武郎に、『一房の葡萄』という短編があります。
友達の絵の具を盗んでしまって、身の置き所もなくしてしまった少年。
その少年の手に、西洋人の女性教師が、やさしく葡萄をもたせます。

「真白い手のひらに紫色の葡萄のつぶが重って乗っていたその美しさをぼくは今でもはっきりと思い出すことができます。ぼくはその時から前より少しいい子になり、少しはにかみ屋でなくなったようです。」

不意に心が激しく動揺してしまったようなときは、美味しい葡萄をゆっくり味わって、まずは気分を落ち着かせたいものですね。
甘くて美味しい一房の葡萄。
とくに甲州産の黒葡萄がおすすめです。

それでは。

遺言で「散骨」を。

遺言書に、じぶんの死後、「散骨」をしてほしいという希望を記載できるのか。
そもそも「散骨」は、法律に違反しないのか。
そういうご相談を受けることがあります。

散骨については、1997年に石原慎太郎・現都知事が、弟・石原裕次郎の遺骨の一部を湘南の海に散骨したいと希望したことがありました。
ただ、当時は、その可否について、法的にあいまいなものがあったようです。

そこで、 「墓地、埋葬等に関する法律」 を調べると、つぎのように規定されています。
そもそも「埋葬」とはなにか、ということについては・・・

第二条  この法律で「埋葬」とは、死体(妊娠四箇月以上の死胎を含む。以下同じ。)を土中に葬ることをいう。

カッコ内に書かれている「妊娠四箇月以上の死胎」という表現。
なんとも「ざわり」とした文言です。
でも、条文とはこういうもの。
「さらり」と読めるようにならなければいけないものなのです。

いずれにしても、「土中」に葬ることが「埋葬」であることはわかりました。
では、「土中」であればどこでもいいのかといえば、そういうわけにはいきません。

第四条  埋葬又は焼骨の埋蔵は、墓地以外の区域に、これを行ってはならない。
 
「埋葬」は、墓地でなされなければならず、違反した場合には、罰則(罰金又は拘留若しくは科料)が定めれています。
このように、この法律では、「埋葬」を選ぶ場合について、規制を課しています。
でも、「散骨」を直接に否定する規定はありません。

いっぽう、刑法には、こんな条文があります。

第一九〇条 死体、遺骨、遺髪又は棺に納めてある物を損壊し、遺棄し、又は領得した者は、三年以下の懲役に処する。

この文言を形式的に適用すれば、「散骨」は、「遺骨の損壊」ということで罪を問われかねません。
しかし、これについて法務省が、「葬送のための祭祀として節度をもって行われる限り」本条に該当しない、とう見解を出しています。

以上のことから、節度をもって行われる限り、「散骨」という行為自体がとくに法律違反となるわけではないことがわかります。
したがって、「散骨をしてほしい」という希望を遺言書の内容として記載することも差し支えありません。

何年か前、遺言書に記した場合、息子が記載どおりに散骨をしてくれるのかどうかを気にされている女性がおられました。
たしかに、自分では確かめようがないことですから、そのお気持ちもわかります。
そもそも、遺言書に書かれたことは、つねにかならず「法律的な効力」を生じるものなのか。
じつは、そういうわけではありません。
遺言として「法律的な効力」が生じるものを、民法は細かく規定しています。
それ以外の、たとえば「散骨」についてのことがらを記載しても、それはあくまでも遺言を書いた人の「希望」にとどまらざるをえないでしょうね。

「どうも不安な気がする。」

その女性は、しきりに心配されているご様子でした。
息子がほんとうにじぶんの希望どおり「散骨」してくれるのかどうか。

こればかりは、人のこころの問題になるのでむずかしいものがあります。
ただ、ひとつ、 「負担付き遺贈」 という方法は考えられるかもしれません。
「負担付き」などというと耳になじみがありませんけど、簡単にいえば「条件を付ける」ということです。
たとえば、特定の不動産について、「散骨をしてくれることを条件として、長男に相続させる」というような。
もっとも、どこまでいっても、息子に「強制」するということができるわけではありません。
遺言といえども、限界はあります。

「強制はできません。」

相談を受けた女性にそうご説明すると、なんだか、がっかりされてしまいました。
でも、そんなことでがっかりするのはやめましょう。
いまの、せっかく生きているこの貴重な時間を、悩んで心をすり減らすことに費やすよりも、もっと楽しく、充実させたほうがいいです。
たとえば、おともだちとおしゃべりしたり、お孫さんと遊んだり、いろいろなところに旅をしたり・・・

などと、ついつい余計なことまで話しこんでしまいました。
納得していただけたのだったらいいんだけど。

「散骨」については、今後、関心を寄せる人が増えていくのではないかと思います。
死後に海や大地とひとつに溶け込んでいく。
このことは、山や海にも、森や川にも、そこに「神」を感じる日本人の心性となじみやすい気がします。

実際、ずいぶんと昔から、散骨は行われていました。
万葉集にも、こんな歌が残されています。

玉梓(たまずさ)の妹(いも)は玉かも あしひきの清き山辺に撒けば散りぬる

わたしの妻は玉であったのだろうか。緑の清らかな山辺に散骨をしたら、玉となって散らばってしまった・・・

失ってはじめて「玉」であったと気づくというところが悲痛です。
もっと早く気づいてあげればよかったのに。
さらに・・・

秋津野を 人のかくれば 朝撒(ま)きし 君が思ほえて 嘆きは止まず

つねにその人のたましいを感じていたいと思い、大地に散骨をする。
でも、あなたがそこにいる、たしかにそこにいる、と思えば思うほど、深い嘆きはいつまでもやむことがない・・・

「散骨」を希望する場合には、あくまでも残されるひとたちの気持ちもじゅうぶんに考えてあげたいところではありますね。

散骨されて海・山とひとつになること。
それとも墓地で静かに眠ること。

じぶんはどういう選択をしたいのか。
目を瞑ってすこしだけ考えてみました。
でも、答えは見えてきません。
代わりに心に見えてきたものといえば・・・
たとえばお昼ご飯に食べたいもの。
紅生姜たっぷりの牛丼か、それとも日替わり定食か。
毎日毎日、まずこの選択が待っているのでした。
お腹が空いていたら、仕事も考え事もできないですからね。

それでは。


戸籍が語る戦争

ずいぶん前のことになります。
「妻子がおらずひとり暮らしをしていた兄が死んだ」という方から相談を受けました。
亡くなったのはAというご老人です。

この場合、まず「相続人の有無」を戸籍をたどって確認することになります。
Aさんには、確かに妻子はいませんでした。
正確にいうと、かつては「奥さんと二人の子ども」がおられました。
でももういません。すでに亡くなっていました。
ひとり暮らしをされているご老人の中には、こういう形で「ひとり暮らし」を余儀なくされているケースもあるんですね。

さて、戸籍の記載に再び注意を向けると、不思議な事実に気がつきました。
Aさんの奥さんは、子ども二人と同じ日に亡くなっています。
いったい何ごとが起こったのか。
母子3人が同時に死んでしまうような、どんな出来事があったというのか。

多角文字により手書きで戸籍に記された「死亡年月日」が、その答えを教えてくれました。
昭和20年3月10日。
焼夷弾を用いた大規模な戦略爆撃が東京を襲った日です。

その日、東京の深川地区や、いまぼくの事務所のある城東地区に300機を超えるB-29爆撃機が飛来し、夜空を埋めつくしました。
投下された焼夷弾は無数の火災を引き起こし、下町一帯は火の海に。

その業火に呑み込まれた命は10万人以上、と言われています。
Aさんの妻子の命も、その10万人の中に含まれてしまっていたんですね。

二人の男の子は、それぞれ5才と9才でした。
Aさんはそのとき、遠い戦地で、妻子との再会だけを心に描いて日々を過ごしていたのだろうと思います。
やっとのことで復員してみれば、東京は焼け野原。
妻子の消息を知るまでには、どのくらいの曲折があったのでしょうか。
また、消息を知ってからのちのAさんの人生は、どんな軌跡をたどったのか。
それがどのようなものであれ、時間だけは積み重なります。
そして迎えることになる最後のその日。
ひとりだけのAさんの部屋には、妻子の面影が満ちていたにちがいありません。

Aさんの戸籍は、さまざまなことを語りかけてくれました。
でも、ときに、「戸籍」それ自体が、口を封じられてしまうことも。

区役所から、戸籍について、「滅失証明書」というものが交付されることがあります。
通常、次のような文言が記されています。

「上記の者の除籍簿および○○法務局に保管中の副本は、昭和20年3月10日に戦災で焼失しました。このため再製することができないので、除籍の謄(抄)本は交付できません。」

命だけでは足りないで、戸籍までも奪ってしまう。
焼夷弾による絨緞爆撃は、あれもこれも根こそぎすべてを奪ってしまうようにみえます。
だけど、そうは問屋が卸さないぞ、とも思います。
奪おうとしても奪えないもの。
そういうものだってあります。

Aさん家族にとっての「3月10日」は、半世紀を経てようやく静かに幕を閉じました。
でも、すべての幕が閉じた、というわけではありません。
幕間はなんど繰り返そうと、まだまだ幕は閉じません。
毎年、「3月10日」は3月10日に訪れます。

それでは。

「推定死亡」という戸籍の記載

相続に関するご依頼の場合、亡くなった方の戸籍をまず拝見します。
ここ5年ほど、戸籍の死亡欄に、「平成○○年○月○日推定死亡」と記載されている例に接することが多くなりました。

「推定」というのは、法が、「一応こうであろう」という判断を下すことをいいます。
一応の判断なので、「反証」、すなわち、そうでない、という証拠があれば、それによって判断しなおされます。

戸籍に没年月日が「推定」という文言によって記載される。
これは、法が「一応こうであろう」と判断せざるを得ない状況であった、ということを意味します。

具体的に言えば、ひとり暮らしをされていた方であること、あるいは、病院で看取られたのではないこと、などが想像されます。
たった一行の戸籍の記載が、さまざまなことを語りかけてきます。

  誰にでも一対揃ひゐる公平 生年月日・没年月日

歌人・浜田蝶二郎氏の詠まれたこの歌に接すると、ほんとにそのとおりだなと思います。
お金持ちのひともそうではないひとも、欲張りのひともそうではないひとも、それぞれにみんなひとつずつ。
ひとりに一行の戸籍の記載。
公平といえばこれほどに公平なことはありません。
ほんとに、いさぎよいほどに公平ですよね。
「推定」などという余分な二文字のあるなしにかかわらず。

それでは。

映画『東京物語』から「姻族」について考えてみる~その1~

小津安二郎監督の映画『東京物語』。



夫が戦死した原節子は、そのまま再婚せずに、嫁として戦後を生きています。
亡き夫の両親が上京してくると、実の子どもたち以上に親身になってふたりの世話をします。
母親がそれとなく再婚を勧めても、首を振ってほほえむだけ。
終始、家族というもののあり方を考えさせられる映画です。

この映画で、原節子と夫の両親とは、法律的には「姻族」ということになります。
「姻族」とはなにか。

自分の配偶者の血族のことをいいます。
血族の配偶者、たとえば「兄のお嫁さん」などもまた「姻族」です。
「姻族」とは「婚姻」を契機として縁が生じた関係である。
そう考えるとわかりやすいですね。

ただ、「関係」というのは、どこまでもつながっていきます。
妻の父親に兄弟がたくさんいれば、そのみんなが「姻族」。
どこかで限定していかないと大変です。
そこで民法は、このうち、三親等内の姻族までを「親族」と決めました。

「親等」というのは、親族関係の遠近を表わす単位。
親は一親等、兄弟は二親等と数えます。
ちなみに、配偶者はカウントしないんですね。
夫婦は一心同体であるものとされます。
生きているときはともに老い、死んでからは同じ墓に入る。
つまり「偕老同穴」なのだから、「遠近」などを計ってはいけないのです。
というのが法律の規定です。

さて、民法の規定するところにより「親族」ということになった場合。
具体的には、どういう法律関係が生まれるのでしょうか。
『東京物語』という映画で、原節子は、夫の両親に対してどういう義務があるのでしょう。

ひとつには、「扶養義務」があります。
特別な事情があれば、三親等内の親族間でも扶養の義務を負うことがあります。
ただし、「特別な事情」の有無は、家庭裁判所が判断します(民法877条)。
この映画では、両親には、立派な実子がいます。
長男は小児科医、三男は鉄道勤務。
一方、原節子は、会社勤めしながら細々と自活する、寄る辺ないひとり身に過ぎません。
彼女が扶養しなければならないという「特別な事情」が認定されることはなさそうです。

つぎに、民法には、「互助義務」というものも規定されています。
お互いに困ったときには助け合いなさい、という趣旨ですね。
ただし、それが求められるのは「直系血族及び同居の親族」に限られます(民法730条)。
原節子は、夫の両親と同居しているわけではないので、民法上の「義務」として「助け合って生きる」ことを求められてはいないわけですね。
それにも関わらず彼女は心をこめて両親に尽くします。
ほんとに立派です。
もっとも、父親からの感謝に対し、映画終盤、彼女は胸奥にある「思い」を吐露します。
でもこれはまた別の話。

さて、映画では、夫の母親が急死してしまい、笠智衆演じる父親ひとりが取り残されます。
純粋に法律的な可能性の問題として考えたとき、原節子はこの父親と再婚することはできるのでしょうか。
民法は、正面から否定しています。
「直系姻族の間では、婚姻できない」という規定があるからです(民法735条)。
一度でも「親子関係」であった者同士の婚姻は認めない。それは「道義人情」に反するから。
こういう考えにもとづいた決まり事です。

ところで、この「婚姻禁止」を規定する条文には、「姻族関係が終了した後も同様とする」と書かれています。
ここにある、「姻族関係の終了」とはどういうことなんでしょう。

つづきはまた次回に。

それでは。

「逆縁」という言葉

辞書の中にあるたくさんの言葉。
とりわけ悲しいもののひとつに、「逆縁」という言葉があります。

年長者が年下の者の法事をすること。
つまり、親が子に先立たれてしまうこと。

何年か前のこの季節。
ある老婦人からご依頼を受けてご自宅まで訪問したことを思い出します。
マンションの高層階の一室でした。
同居していた息子さんが亡くなったばかり。
独身の息子さんだったので妻子もなし。
文字通り、母ひとり子ひとり、というお暮らしでした。

マンションのお部屋は、広々として、快適な空間です。
高層階の窓からの見晴らしもなかなか。
それだけに、地から切り離され、老婦人ひとりが「取り残されてしまった」という空虚さがにじみ出ているようにも感じられます。

辞去するまでに、ずいぶんと長話をしてしまいました。
問わず語りにお話になる、息子さんとの思い出のかずかず。
そろそろおいとまを、というときになって、ひと言、ぽつりともらされました。

「いつも息子がいろいろと連れて行ってくれていました。春には桜、秋には紅葉。でも今年は観にいくことができません。来年も、そのあともずっと・・」

とっさになんと答えていいものやら、頭の中は真っ白に。
こういうときに、即座にかけて差し上げる「言葉」をなにも持っていない。
そのことがとてもくやしくて、いまだに忘れられないでいます。

歌人の五島美代子さんに、こういう歌があります。
溺愛していた長女が急逝したときに詠んだ歌。

 花に埋もるる子が死顔の冷たさを一生(ひとよ)たもちて生きなむ吾か

その五島さんの一生(ひとよ)も、すでに過去のものとなりました。
「花に埋もれた娘の顔」を思いつづけた彼女の深い悲しみもまた空の彼方です。
でも、その悲しみが生んだ一連の歌は、いまもこれからも、多くの人の胸の中で生き続けていきます。

ぼくは、あのときの老婦人にかける言葉を知りませんでした。
じつをいうと、いまだに知りません。
たぶん、これからも知ることはないと思います。
「かける言葉を知らなかった」自分がいた、その事実だけが心にとどまっています。

「逆縁」という言葉を辞書から追放したらよいのでは。
・・・と、そういうわけにはいかないんですよね。


それでは。

遺族が負うべき責任とは

「『貸室で自殺』遺族に高額請求-家主ら『借り手なく賠償を』」

今朝の読売新聞に掲載された記事の見出しです。

「自殺のあった賃貸物件は借り手がつかなくなり、家賃も大幅に下がるため、損害賠償の対象になる。しかし、最近、遺族の混乱やショックにつけ込み、家主らが過大な請求をするケースが少なくない」

とのこと。
これは、ずいぶんと重い問題ですね。
かけがえのない家族を亡くし、気持ちを整理するいとまもないうちに、賠償請求の追い打ちをかけられる。
遺族の心に空いた穴は、「損害賠償」という錐に容赦なく広げられていきます。

このようなケースで、家主サイドはしばしばこう言います。
「迷惑をかけたんだから、親(家族)が払うのは当たり前だ。」

果たして、ほんとうに「当たり前」なのでしょうか。

じつは、かなり以前、ぼくも同じ相談を受けたことがあります。
その方の場合、100万円ほどの賠償を請求されていました。
この請求に遺族は応じなければならないのかどうか。応じるのが「当たり前」なのか。

このことを考えるとき、「当たり前」という言葉の内容を、いったん、法律的に
構成しなおしてみることが大切です。

自殺したことにより生じた損害(改装費、家賃補償、慰謝料)は、自殺者の債務であり、
それは、マイナスの遺産(相続債務)ということになります。
これを引き継ぐ(相続する)かどうかは、相続人の裁量に委ねられる、というのが民法の規定です。

相続人が「引き継ぐ」ことを選択しない場合、家庭裁判所に「相続放棄」という手続を申し出ること
ができます。
ただ、「相続人であることを知ったときから、3ヶ月以内」にしなければならない点、注意が必要で
す(民法915条1項)。

相談者の場合、身内が自殺されてから、すでに6ヶ月経過していました。
この場合、もはや「相続放棄」をすることはできないのでしょうか。

あきらめるのは早計です。
たとえば被相続人の債務を知らないことにつき、相続人に相当の理由があるという場合にまで、
「3ヶ月」という期間を杓子定規に適用するのは、いかにも「酷」である、ということを、裁判所で
認めてもらえる余地があるからです。

相談者が家主から請求を受けてから、まだ3ヶ月は経過していませんでした。
そこで、すぐに家庭裁判所に事情を言って、「相続放棄」を申し出るように勧めました。

仮にそれでも「相続放棄」が認められなかった場合。
そのときには、賠償請求額の妥当性について、粘り強く交渉していき、話にならないようであれば
裁判所の判断に委ねる、というところまでを覚悟する必要があります。

また、「相続放棄」をした場合、マイナスの財産のみならず、プラスの財産も放棄することになります。したがって、不動産などの資産がある場合には、どのような選択をするか、慎重に判断しなければなりません。

相談者には概ね、このようなことを説明しました。
でも、大事な家族を喪い、眸にも光がとぼしく思える相談者に、感情にはいっさい流されず、淡々とこういう説明をしなければいけないというのは、とてもむずかしいことでした。

この問題の難しさは、いっぽうでは「家主の事情」というものが存在することにあります。
中には、家賃収入を唯一の生計の頼りとしている家主だっているでしょう。
そういう人にとっては、この事態による収入減は、死活問題です。
そこまで深刻ではない場合であっても、家主サイドの「経済的損失」がなんら顧慮されない、ということであれば、そこにはやっぱり不合理な面がある、といわざるをえません。

切羽詰まった果てに選ばれなければならなかった一人の人の「自死」。
その先で待っているのが、「損害賠償」という名の経済的対価である、ということには、やりきれないものがあります。
遺族にとっても、自死された方にとっても。

冒頭の新聞記事によれば、こういったトラブルを防止するための立法に向けた署名運動も進められているとのこと。なにかしら、前向きな議論がなされていくことは大切なんだろうと思います。

それでは。

「親子の縁」を切る方法

100才以上の高齢者に所在不明の方が続出しています。
今後、多方面に問題が波及しそうな気配がただよっていますね。
このニュースを聞いていてふと思うのは、「親子の絆」ということについてです。
所在の知れない方たちにも、それぞれ息子や娘はいただろうに。

「息子と縁を切りたい」

ある日、事務所に来られた老婦人。開口一番、こんな相談を受けました。
いきなりの問いかけにびっくりしたけれど、お話をよく聞いてみて大体の事情が分かりました。
ようするに40才を過ぎた息子さんがいるが、借金生活を繰り返し、債権者が自分のところにまで
「払え」といってくる。
本人は雲隠れしていて連絡もつかない。こんな息子にはほとほと愛想が尽きた。もう顔を見ること
もしたくない。
・・・ということのようです。

江戸時代であれば、「親子の縁を切る」ために奉行所に届け出る、「勘当」というしくみがありま
した。現代の日本では、こういう制度はありません。親子は、どこまでいっても、法律的には
「親子」のまま。

では、この老婦人、息子に対してどのよう手段をとることができるのでしょう。

「縁を切る」ことはできなくても、似たような効果を得られる方法があります。
「相続」という場面で、自分の財産をその子どもに譲り渡さないように、あらかじめ手を打って
しまうという方法です。

ひとつは、家庭裁判所に請求して、その息子の相続資格を失わせるという方法。
「相続人廃除」という制度です。
「廃除」という言葉にはただ事ではない響きがあります。
たしかに、相続人から権利を奪い取る、「ただ事」とはいえない制度であるので、要件も厳格です。
具体的には、母親が息子から「虐待または重大な侮辱、その他著しい非行」を繰り返されているこ
とを裁判所に明らかにする必要があります。

もうひとつの方法として、「遺言」を利用する、というものがあります。
遺言の中で、その息子に対して財産を渡さないことを明記しておけばよいので、ある意味では簡単
に実行できます。ただし、民法で息子にみとめられた遺留分を侵害することはできません。
息子に渡る財産を「制限」することはできても、「ゼロ」にすることはできないということですね。

このような説明をして、納得していただきました。
もちろん、息子の借金を肩代わりする必要はまったくない、ということと合わせて。
でも、説明しているうちに、ぼく自身の中に「納得」いかないものが膨らんでいきました。

40才過ぎて、母親にここまで迷惑をかけ、辛い思いをかけ続ける息子。その人にはその人なりの
弁解はあるのでしょう。やむをえないいきさつもまた。事情はどうあれ、年老いた母親に孝行もで
きずに逃げ回る人生というものを考えると、体の奥深いところからため息がもれ出てしまいます。

「風樹の嘆」という言葉があります。
「孝行のしたい時に親はなし」ということわざと同じ意味。
たとえ樹が静かにしていたいと思っても、物事、ままならないもので、風が吹き止むことはない。
それと同じで、子が親孝行を尽くしたいと思っても、世の中ままならず、親は生きていてはくれ
ないものだ。

風に吹かれて嘆くのが子の定めである、というのは、いかにも情けない話ではないでしょうか。
一方、「風樹の嘆」というこの言葉からは、孝行をしてもらうことのなかった親の嘆きが樹をゆ
らす風となったようにも感じられます。

どちらにしても、こんな風には吹いて欲しくないものです。そのためにも、「親子の絆」という
ものを細らせることのないような心がけが、日々求められているんでしょうね。

それでは。

プロフィール

JIRO

Author:JIRO
東京下町で開業する司法書士です。
司法書士とはなにをする人か?
・・・一言では説明が難しいです。
といって二言三言あれば説明できるわけではなし。

このブログでは、日頃の出来事や読んだ本、観た映画などのことを書きつらねてみたいと思います。
あ、お仕事のこともすこし触れていきます。

(ホームページ http://www.noguchi-office.jp/)

相続なら江東区の司法書士 みどりの杜司法書士事務所(会社設立)

カレンダー
03 | 2019/04 | 05
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 - - - -
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。