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ヘレン・ケラーの真実~その1~

たまたま目にした「ゆすらうめ」という言葉。
意味がわかりませんでした。
電子辞書の出番です。
一瞬で表示される答え。
「山桜梅」のことなんですね。
「ゆすらうめ」とはまた風流な響きの言葉だなあと思いました。

それにしても、電子辞書は物知りです。とても重宝しています。
わずかの手間で知りたい言葉が自分のものになる。
「ゆすらうめ」という言葉を知らなかった自分は、あっという間にどこかへ消えてしまいます。
こういう便利さに慣れると、つい忘れてしまいがちですね。
ひとつの言葉を手に入れることが、ときにどれほど大変なことであるかを。

そんなことをつくづく思い返させてくれるテレビ番組を観ました。
タイトルは、『わたしは“奇跡”ではない~生誕130年 ヘレン・ケラーの真実』。
NHKハイビジョン特集です。

ヘレン・ケラーといえば、広く知られているのが、サリバン先生から「水」という言葉を教わる場面。
彼女は、当初、「水」とその器である「マグカップ」の区別をつけられないでいたそうです。
サリバン先生によって「水」という言葉と「水」という実体とが一致した瞬間。
その瞬間、音もなく開く、言葉の神秘の扉。
自伝の中で彼女は言います。

私の魂は目覚め、とうとう牢獄から解放されたのだ。



「水」に名前があることを知った彼女の前には、あらゆるものが姿を現します。
草、花、鳥、虫・・
生命の有る無しを問わず、世界中の「物という物」に名前があるということに気づきます。
世界が彼女になり、彼女は世界になります。

「水」と「water」とが彼女の中でひとつになるというこの場面が、なぜこれほどまでに感動的なのか。
あらためて納得してしまいました。

電子辞書でひとつの言葉を知る。
そのたびに、言葉の「神秘の扉」が開いている、という「有り難さ」。
このことをすこしは意識しないと罰が当たりそうだなあと思いました。

それでは。

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映画『桜田門外ノ変』~雪の降る日に飛ぶ血潮

赤穂浪士の討ち入り、桜田門外ノ変、二・二六事件。
どれも江戸、東京において、時の政府を揺るがした事件です。
この三つに共通するもの。
いづれも「雪の降る日」であったということ。

東京には生まれたときから住んでいるけど、めったに雪なんて降りません。
なのに、歴史に残る三つの血なまぐさい出来事がどれも雪の日に発生した。
このことに、なにか因縁を感じます。
雪の「純白」が人の「鮮血」を求めたのだろうかと思わせるような。

公開中の映画『桜田門外ノ変』。

伊井大老襲撃を描いた場面の臨場感はなかなかでした。
雪に足をとられる中、敵味方もつれあいながら刀を振り回す。
テレビ時代劇でおなじみの、「一刀の下に斬り伏せる」ようなことはどちらにもできません。
襲う浪士、守る彦根藩士、壮絶な死闘が再現されていたと思います。

映画のテーマは、襲撃に参加した水戸浪士たちの「その後の運命」にあります。
志の純粋さとは関わりなく、彼らは「政府」からみれば「テロリスト」です。
ひとりまたひとり。
あるいは捕らえられ、あるいは自死を選びます。
そして歴史の暗がりの中で露となって消えていく。

気になったのは、映画の中で「時間軸」が目まぐるしく変わること。
「襲撃」を起点として、行きつ戻りつ、歴史的背景の説明や浪士たちの人物描写が挟み込まれます。
この揺れ動く「時系列」によって、浪士たちが、木の葉のように時代の濁流の渦へと呑み込まれていくさまが浮き彫りになった、という側面はあったと思います。

反面、見えにくくなってしまったものもあります。
「黒船来航」がもたらした動揺と幕府への不信。
増幅する「不信」が元となって決行される伊井大老暗殺は、結果として幕府の権威を失墜させます。
このことから「不信」は「倒幕」へと姿を変え、一気に時流を加速させ、ついには「明治維新」をたぐり寄せる。
「時間軸」の往復という映画的手法は、こういった歴史の「直線的」なダイナミズムを感じさせることを、観る者から遠ざけてしまったのでは。

これは「人間を描くか」、「時代を鳥瞰するか」、どちらを重視した映画を撮るのか、ということに帰着するのかもしれません。
賛否の分かれるところではないかなと思います。

ともかくも、彼らは朽ち果てていきます。
自分たちが選んだ「行為」が、歴史の大きな流れにどのような「一石」を投じ、どのように「波紋」を広げ、押しとどめようのない、どのような「怒濤」となっていくのか、その帰結を知ることもなく。
そのことがなんだかとても哀れに思えてしまいました。

千代田区に「紀尾井町」という場所があります。
赤坂プリンスホテルのあるあたり。
この「紀尾井」というのは、尾張徳川家、紀州徳川家、彦根藩井伊家の屋敷があったことに由来するそうです。
この町にある、長さ200メートルほどの「紀尾井坂」。
この坂では、伊井大老暗殺から18年後、大久保利通が暗殺されています。

そういえば、よく行く東京法務局の港出張所の近くには、「二・二六事件慰霊塔」があります。
また、ぼくの事務所からも近い両国駅周辺には、忠臣蔵ゆかりの吉良邸跡があり、回向院があります。

見渡せば、さまざまな出来事の痕跡がそこかしこに残る江戸・東京。
ふだんはぜんぜんそんなことを意識もせず、歴史の記憶の残り香の中、ただぼんやり歩き回っています。


それでは。


「逆縁」という言葉

辞書の中にあるたくさんの言葉。
とりわけ悲しいもののひとつに、「逆縁」という言葉があります。

年長者が年下の者の法事をすること。
つまり、親が子に先立たれてしまうこと。

何年か前のこの季節。
ある老婦人からご依頼を受けてご自宅まで訪問したことを思い出します。
マンションの高層階の一室でした。
同居していた息子さんが亡くなったばかり。
独身の息子さんだったので妻子もなし。
文字通り、母ひとり子ひとり、というお暮らしでした。

マンションのお部屋は、広々として、快適な空間です。
高層階の窓からの見晴らしもなかなか。
それだけに、地から切り離され、老婦人ひとりが「取り残されてしまった」という空虚さがにじみ出ているようにも感じられます。

辞去するまでに、ずいぶんと長話をしてしまいました。
問わず語りにお話になる、息子さんとの思い出のかずかず。
そろそろおいとまを、というときになって、ひと言、ぽつりともらされました。

「いつも息子がいろいろと連れて行ってくれていました。春には桜、秋には紅葉。でも今年は観にいくことができません。来年も、そのあともずっと・・」

とっさになんと答えていいものやら、頭の中は真っ白に。
こういうときに、即座にかけて差し上げる「言葉」をなにも持っていない。
そのことがとてもくやしくて、いまだに忘れられないでいます。

歌人の五島美代子さんに、こういう歌があります。
溺愛していた長女が急逝したときに詠んだ歌。

 花に埋もるる子が死顔の冷たさを一生(ひとよ)たもちて生きなむ吾か

その五島さんの一生(ひとよ)も、すでに過去のものとなりました。
「花に埋もれた娘の顔」を思いつづけた彼女の深い悲しみもまた空の彼方です。
でも、その悲しみが生んだ一連の歌は、いまもこれからも、多くの人の胸の中で生き続けていきます。

ぼくは、あのときの老婦人にかける言葉を知りませんでした。
じつをいうと、いまだに知りません。
たぶん、これからも知ることはないと思います。
「かける言葉を知らなかった」自分がいた、その事実だけが心にとどまっています。

「逆縁」という言葉を辞書から追放したらよいのでは。
・・・と、そういうわけにはいかないんですよね。


それでは。

「インフォームド・コンセント」のこと~その2~

前回のつづきです。

つまらない見栄をはって、「麻酔なし」で歯を削ってもらうことになったというお話。

治療に要したのは数分間。
時計で見る限りはたしかに数分間。
・・・ともかく耐えきりました。
そして固く心に誓いました。
「麻酔なし」で耐えるなんて、もうこれが最後にしよう、と。

自分自身の「限界」を知っておくというのは大事です。
どのくらいの量までお酒を飲めるのか。
夜更かし、徹夜はどの程度まで大丈夫か。

「痛さ」についてもまたしかり。

どのくらいの「痛さ」までなら耐えられるか。
今回、自分の限界ポイントがよくわかりました。
「痛さ」をあなどってはいけません。謙虚にならないと。

歯医者さんに恨み言をいうのは「八つ当たり」に近いですね。
自業自得、というのがいちばん当たっていそう。
それでもあえてひと言だけ。

麻酔をしたほうがよいのかどうかを確認する際に、もうすこし「正確な情報」を提供してほしかった。
「蚊に刺される程度」なのか、「錐で脳天をえぐられる程度」なのか。
たしかに「痛さ」をどう感じるかは人それぞれ。
主観に関わることです。
それだけに、歯医者さんも迂闊なことは言えない。それはわかります。

それでも、世間一般の人であれば、普通どうするものなのか、教えてくれていたら。
麻酔による「メリット」と「デメリット」を比較検討できるだけの説明をしてくれていたら。
そしたらぼくだってつまらない意地を張らずに済んだかも・・
この嘆き、やっぱり「恨み言に近い八つ当たり」ですね。

司法書士という仕事においても、「正確な情報を提供したうえで、判断を委ねる」という局面はさまざまな場面で訪れます。
専門職の端くれとして、日常業務の「ありかた」という点で、考えさせられました。

つねに念頭に置きたいな、と思うこと。
こちらが「当然のこと」と思っているような前提が、相手にとっては「当然でもなんでもないということ」である可能性の存在です。
ここを見誤ると、とんでもない「ボタンの掛け違い」が生じるおそれがあるからです。

二つのうちどちらにするべきか、微妙な判断を顧客に委ねざるをえない場合もあります。
選択肢それぞれについてメリットやリスクを説明し、そのうえで、できるだけ顧客の置かれた状況に寄り添ってアドバイスする。
場合によっては、「私があなたならばこうする」というところまで踏み込むことが必要となるかもしれません。

一概にどうこうと言えない性質のものではあります。
ただどんな場合でも、「顧客の身に立って」ということだけは、肝に銘じないといけないですね。

ということで、「我が身をつねって人の痛さを知れ」ということを、つくづくと思い知った体験でした。

それでは。

「インフォームド・コンセント」のこと~その1~

冷たい水を飲むと、かすかに歯がしみます。
すぐさま歯科医院に行きました。
10年ぶりの歯医者さんです。

「軽い虫歯です」とのこと。
早めに治療してもらえることになってよかった。
「しみる」という自覚は大切にしたほうがいいみたいです。
「白玉の歯にしみとほる秋の夜の 酒は静かに飲むべかりけり」と詠んだ若山牧水。
彼もすぐ歯医者さんに通っていたのならいいけど。

10年ぶりの歯医者さん体験。
とまどうことがありました。

「すこしだけ削りますけど、麻酔をします?」

麻酔をするかどうかの選択。
そんなことを以前には求められることがなかったような気がします。
「インフォームド・コンセント」が、10年でここまで徹底してきているんですね。

でも。

インフォームド・コンセントとは、「正しい情報を伝えられた上での合意」という意味だったと思います。

ぼくには「麻酔をするべきなのかどうか」を判断する「正しい情報」がまったくありません。
どのぐらいの痛みなのか。
かりに痛いとして、いや、「痛い」に違いないわけだけど、ぼくはその痛みに果たして耐えうるのか。
痛みのあまり暴れたり気を失ったりすることはあるのか。

「正しい情報」がない中、歯医者さんの言葉を手がかりに、必死に考えました。

まず、「軽い虫歯であるらしい」ということ。
削るのは「少しだけらしい」ということ。
麻酔をするかどうかについて「選択の余地があるらしい」こと。

以上のことから、ひょっとして「耐えられる痛みなのでは?」という推測が可能です。

じつは、こういった推測以上に、ある「思い」が止めようもなくわきあがってきました。

それは・・・。

「麻酔をするか?」という申し出を、「渡りに舟」と受けてしまうのは、「男子」としていかにも情けないものがあるのではないか、ということ。

ようするに、「沽券に関わる」おそれがある、と思ってしまったわけです。
「沽券」とは、不動産売買の際の売渡し証文。
転じて、人の値打ちとか体面、という意味になります。
たいして値打ちがない人間ほどこだわる傾向があります。

「沽券の価値」にこだわったのには別の理由があったかもしれません。
歯医者さんの脇で控えている歯科助手の若い女性の存在。
白いマスクで顔の大半は見えないけど、たぶん「若い」女性です。

かりにも「若い」と思われる女性の面前で「痛み」に背中を見せ「麻酔」を所望する、というのは、「沽券に関わる」どころか、「騎士道にもとる」のではないか、という疑いが頭をもたげてしまいました。
なぜ「騎士道」なのかはぜんぜんわからないけれど、とにかく「騎士道」です。

それはそれとして。

歯医者さんに来るのは確かに10年ぶりです。
歯を削る際の痛さを具体的にイメージすることはできません。
でも、この10年、さまざまな人生経験を重ねてきました。
ずいぶんと「痛み」にも耐えてきた。
これまで耐えてきて、いまも耐えている「痛み」に比べたら、我慢できないほどの「痛み」など世の中にあるとは思えない。
なにを怖れることがあるだろうか。

これら「想念」が頭の中を駆け巡ること、時間にして約2秒。

意を決して、歯医者さんに伝えました。

「麻酔、いいです。」

で、どうなったかというと。



つづきはまた後日に。

それでは。

婉曲と直截と

地下鉄構内の駅トイレ。
こんなステッカーが貼ってあります

いつもキレイにご使用いただきありがとうございます。



「ありがとうございます。」の文字は太字の表示。
そうか、感謝されているんだ。
でもまあ、それほど大したことをしているわけでもないんだけど・・
などと思っていて気がつきました。
これ、ほんとうに言いたいことは別のところにあるんですね。
「ほんとうに言いたいこと」をくだけて言うとすると、

「きちんと使わないと承知しないからね」

というようなことになるのではと思います。

言いたいことを巧みにおおいかくし、それとなく伝える。
「婉曲」といわれる表現です。
この場合、「ほめ殺し」というテイストも含んだ、かなり高度な技なのでありました。

それにしても、わざわざもってまわらなくても、はっきりと言ってくれたら協力することにやぶさかではないんだのに。
などと思ってしまったことも事実です。

いま世の中にはこういった「婉曲」表現があふれている、というのはよく聞くところです。
はっきりとした物言いを避ける。
人間関係の摩擦を最小限に。
これはこれで理由のないことではないのでしょう。
「ないことではない」などという二重否定の表現自体、ある種の婉曲表現なのかもしれません。

などと思っていたら、事務所のあるビルのお隣で、かなりインパクトのあるものを見つけました。

DSC00164_convert_20101021131706[1]

「プライドをもってネ」

なんという直截な表現。
末尾の「ネ」に込められた真摯な願いが感じ取れないでしょうか。
この近辺に多い居酒屋さん。
夜更けとともに酔漢たちがはたらくさまざまな狂態。
プランターの植物たちが耐えてきた積年の狼藉が思いやられます。

難点があるとすればただひとつ。
「夜更けの酔漢」に「プライドをもって」という呼びかけがどこまで有効に作用するものかどうか、という点だけでしょう。

さて。

「婉曲」と「直截」の優劣というのは簡単に決まるものではありません。
なにしろ、どちらもぼくたちの遺伝子に遠い昔から組み込まれてしまっていることだから。

たとえばこんな歌。

 夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関は許さじ

清少納言が詠んだ歌ですね。百人一首です。
この歌の意味するところは、要するにこういうこと。

「今夜は来ても貴方には逢いませんからね。」

それだけのことを、「函谷関の故事」まで引き合いに出して「婉曲に」伝えます。
見事なものだと思います。

いっぽう、「直截」にはどういうものがあるか。

万葉集には、名もない防人の詠んだ、こんな歌があります。

 父母(ちちはは)が頭(かしら)掻き撫で幸(さ)くあれて
   言ひし言葉ぜ 忘れかねつる


父さん母さんが、頭を撫でて「無事に行っといで」と送ってくれた、その言葉が忘れられない、という意味。
これ以上ないほどストレートに、二度とは会えないかもしれないという「思い」が伝わってきます。

「婉曲」と「直截」。
どちらの表現を使うときにおいても、いちばん大切なのは「思い」が相手にきちんと伝わる、ということなんでしょうね。
あるときはふんわりとやさしく。
またあるときは鋭くまっすぐに。

ぼくの場合、仕事ではできるだけ「直截」をこころがけるようにしています。
家の中ではもっぱら「婉曲」な物言いを強いられていますけど。

それでは。

「デッドエンド」ということ。

先日触れた『風立ちぬ』(堀辰雄・著)で、「私」は「皆がもう行き止まりだと思っているところ」から生の愉しさを追い求めます。
「行き止まり」(デッドエンド)とは「出口」がないこと。
そこから求める「生の愉しさ」とはどういう姿なんだろう。

そんなことを考えていたら、この小説のことを思い出しました。



五話で構成された短編集です。
各編に登場する「私」は、それぞれに不思議な出来事に出会い、異常な事件に巻き込まれ、過酷な記憶を背負っています。
なにしろ、ボーイフレンドの住まうアパートには大家さん夫婦の亡霊が出没し、奇妙な同居生活をしているし(『幽霊の家』)、社員食堂でカレーを食べれば毒入りで、死の淵を垣間見るし(『おかあさーん!』)、大好きだった幼ななじみの男の子が無理心中に巻き込まれ、あっけなく死んでしまった思い出を忘れられずにいたりするし(『あったかくなんかない』)、はじめてデートをした相手には乱暴されてしまった過去があったりします(『ともちゃんの幸せ』)。

辛い体験が肥やしになる。
・・なんていうのは、「辛い体験をした」誰か他の人に向かって言うときにだけ、有効な言葉です。

辛いことはいつまでも辛いし、苦しかったことは、思い出せばいつでも苦しい。
処方箋は容易には見つけがたく、そもそも処方箋なんかどこにもないのかもしれない。

それでも、この短編のそれぞれを読み終わったときには、思い出の中にある「デッドエンド」の数々が親しいものに思えてくる。不思議です。

表題作(『デッドエンドの思い出』)の「私」は、婚約して信じ切っていた相手にあっけなく裏切られてしまいます。
通勤電車で寄りかかっている扉が突然開いてしまったような怖さに鷲づかみされ、心許なさに竦むような思いだったことでしょう。
自分がどこに立ち、なにを踏みしめて生きていけばいいのか、いっさいがわからなくなってしまうような戸惑い。

そんな中、「私」は、一緒にいるだけでラクな呼吸ができる「西山君」と出会います。
どこまでも突き抜ける青空の下にいることを感じさせてくれる「西山君」。
その「西山君」と「私」は、一緒にとある公園の門をくぐります。


すごい景色だった。いちょう並木が続く限り、いちょうの黄色い葉が地面にうづたかくもりあがり、一面が黄色だった。光を受けてあたりじゅうが光っているので、まるで黄色い雪が降ったあとのように、こんもりとした枯葉の山がふわふわっとした感じで道を覆い、果てしなく続いていた。



そこには、過去も未来も言葉もなんにもなくて、光と黄色と陽を受けた枯葉のいい匂いだけがあった。
私はその間じゅう、すごく幸せだった。



秋の日の公園に散り敷かれた落葉。
そのじゅうたんの感触を足の裏に感じる、ただそれだけのことで世界の見え方がまるっきり違ってくる。
一瞬で盤面の石の「色」がぱたぱたぱたと変化するオセロゲームのように。

辛い体験とどんなふうに同居していけばいいのか。
それはよくわかりません。
ただ、そんなことはわからなくても、枯葉を踏みしめて一面の光につつまれて、「その間じゅう、すごく幸せだった」と感じることができたら、それでじゅうぶん。
「行き止まり」から求める「生の愉しさ」は、きっと足もとにこそ見つかるものなんでしょうね。

それでは。

『風立ちぬ』いまは秋~その2~

前回、ポール・ヴァレリーの原詩を堀辰雄が翻訳した、「風立ちぬ。いざ生きめやも」のフレーズについて触れました。
それが「誤訳」と言われていること。

風立ちぬ。いざ生きめやも。

文脈からいえば、あきらかに、「さあ生きよう。強く生きなくては。」という意味に受け取れます。
原詩の意味もまたそうなっている。

ところが。

この「やも」というのがくせ者です。
では「何者」なのかというと、「やも」とは、文語文法でいうところの「終助詞」なんですね。
用言の已然形に接続したときには、「反語」の意味になる、とされている「終助詞」。

間の悪いことに、「生きめやも」の「め」は、助動詞「む」の已然形なのです。
したがって、この一文は「反語」ということに。

では「反語」とはいったい何なんでしょう。

簡単にいえば、断定したいことを強めるため、あえて言いたいことの反対を言うレトリック。

似た表現が、万葉集の歌にあります。

 恋ひ恋ひて 後も逢はむと慰(なぐさ)もる 心しなくは 生きてあらめやも

「いつかまた逢える、そう自らを慰める心を持たなくては、とてもじゃないが生きていけそうもない」というような意味です。

「生きてあらめやも」というフレーズが「反語」であることは明らか。
したがって、「生きてある」ことができるだろうか、いいやできはしない、生きてなんかいけるものか、という意味の流れになる。

「生きめやも」も同じです。

生きようかな。いいやそんなことはしない。生きていたりするものか。死んでしまうのだ。

こうなってしまうことに。

このため、冒頭の「風立ちぬ。いざ生きめやも」は「誤訳」である、言い換えれば、文語の用法を間違えている、という指摘がされているわけです。

真相はどうなんでしょうか。
考えられる可能性はつぎのうちどちらかです。

1.指摘されているとおり、「誤り」であった。うかつだった。
2.「誤り」ではあるが、「意図的」な「誤り」であった。「いざ生きめやも」という語感の美しさと響きは捨てがたい。「生きるのだ」という願望が読者にストレートに伝わるフレーズだ。文法上の齟齬などものの数ではない。

作家の意図につき、どちらとも解釈できる余地がある場合には、できるだけ作家の有利になるよう、しかも読者にとって心地よいほうを採用する、という原則があります。
これを「推定無罪」といいます。・・・言葉の選択に「誤り」があるかもしれませんが、いまはそういう「原則」があるものとして考えてみたい気がします。

ということで、ぼくとしては作者が「意図的」であった、という説に軍配を上げたいですね。
前回も書いたけど、なんといっても堀辰雄は高校の大先輩。
雲の上のような存在の人は、つねに無謬です。
そういうものなのです。

それでは。

『風立ちぬ』いまは秋~その1

日中はまだ暖かな日が続いています。
もう10月も半ばを過ぎているというのに。
でも、今朝、家を出たとたん、「やっぱり秋なんだな」と思いました。
やわらかいけれどすこしひんやりする風が頬に当たって。

『風立ちぬ』という小説があります。
作者の堀辰雄は、高校の大先輩。
思い立って、久しぶりに再読してみました。



結核を患い、サナトリウムに入院する恋人に付き添って暮らす「私」。
恋人とのなにげない平凡な会話や、日々変わらない日課の中に、「いくぶん死の味のする生の幸福」を感じます。
でも次第に、その「幸福」が「束の間のもの、気まぐれにちかいようなもの」ではないかと疑いはじめる。
「幸福である」と感じる、それだけのことを恐れるようになります。

いっぽう、恋人の方は、その感情を努めて押し隠します。
けっしてそれをあらわにすることはありません。
そして「私」に語りかける。

「私たち、これから本当に生きられるだけ生きましょうね・・」

「これから」のあとに残された時間。
長いものではありませんでした。
やがてすべてが終わったあと、「私」は思います。

「幸福の思い出ほど幸福を妨げるものはない」

同時に、「私」は自らに問いかけます。
「あのような幸福な瞬間を持てた」ということだけで、自分たちは「生きるに値した」のではないのか。そうではないのか。ちがうのか。
答えは永遠にわからないと「わかって」います。
それでも問いかけずにはいられない問いかけ。

同じ問いかけは、後年書かれる、村上春樹の『ノルウェイの森』の中にも潜んでいたような気がします。
最初から生死の境い目で結びつきあっていた、「直子」と「僕」。
「僕はいまどこにいるのだ?」「いったいここはどこなんだ?」
どこでもない場所の真ん中からうつろに自問を繰り返す「僕」。
答えはいったいどこから聞こえてくるのでしょうか。
風の中から?

村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』では、PP&Mの「くよくよするなよ Don't Think Twice, It's Alright」の歌詞が引用されています。
「もう何も考えるな。終わったことじゃないか。」

『風立ちぬ』冒頭にも、有名な一文があります。

「風立ちぬ。いざ生きめやも。」

ポール・ヴァレリーの原詩を堀辰雄が翻訳したもの。
堀辰雄の思いも、ここに始まりました。
そしてここに戻っていく。
けっきょくのところ、すべては終わったことなんだから。
いざ。生きめやも。

さて、「いざ生きめやも」の一文については、じつは「誤訳だった」のでは、と言われています。

これについては、また後日。

それでは。

チリ落盤事故、無事救出~その2

今回の救出劇については、映画化が決定しているようです。

たしかに、一大プロジェクトによる未曾有の救出作戦と、地底に残された人たちが織りなしたドラマのことを思うと、映画化の話は必然でしょうね。
周囲が浮かれすぎているのでは、という批判はあるだろうし、事柄の全体が商業主義の手垢でまみれてしまうという側面もあるでしょう。
それでも映画化をすることで、より多くの人がより正確に事実を知ることには、大きな意味があると思います。

いったいどんな映画になるのか。
じつは、今回のような救出劇と同じタイプの映画、というものを、思いつきません。

たとえば『ポセイドン・アドベンチャー』という映画がありました。
転覆した豪華客船に取り残された乗客が生還するまでのお話。
でも、この映画では、乗客たちが自力で脱出します。
「ただ神の助けを待つのではなく、助かるためにできる限りのことをするんだ」とばかりに、乗客は自分たちを信じて行動します。
ラストに待っているのは「神よ、せめて邪魔しないでくれ」という有名なセリフ。
今回の救出劇とはどこまでも異なるお話ですよね。
そもそもフィクションだし。

『アポロ13号』という映画はどうでしょう。
1970年4月、宇宙空間で爆発事故を起こしたアポロ13号が、奇跡の生還をなしとげるまでの物語。
「宇宙空間」と「地底600メートル」との間には、一脈、通じるものを感じないでもありません。
ただ、ここでの奇跡は、絶体絶命のピンチに直面した三人の飛行士たちの勇気と知力、そして地上のNASA管制官たちの熱意と叡智とが一体になることで生まれました。
感動的な映画だけど、今回の救出劇とはすこし趣が異なります。

日本映画ではどうか、といえば、ほとんど思いつくものがありません。
『海猿』シリーズはフィクションだからまず除外するとして・・

2004年10月23日、新潟県中越地方を大地震が襲いました。
その際に壊滅的な打撃を受けた、旧山古志村。
残された母犬と三匹の子犬が16日後に救出された実話を描く、『マリと子犬の物語』という映画があります。
この映画、地震発生の瞬間の怖ろしさについては、じゅうぶんに伝えてくれます。
映画館の座席まで激しく揺れているかと思わせる恐さがあったことを覚えています。
無事に子犬たちが救出されたときには思わずこころの中で拍手してしまいました。
ただ、鑑賞後には、どちらかというと子犬たちの可愛らしさのほうが強く印象に残ってしまっていたけど。

ということで、なかなか今回の「落盤事故からの生還」に類する題材の映画というものを思い浮かべることができません。
それだけ前例のない出来事ということなのだから、映画も、類例のないものを作ってほしいですね。
まずは発生した事実を正確に。
そして地中の人たちの心理描写を丁寧に。

期待したいです。

それでは。
プロフィール

JIRO

Author:JIRO
東京下町で開業する司法書士です。
司法書士とはなにをする人か?
・・・一言では説明が難しいです。
といって二言三言あれば説明できるわけではなし。

このブログでは、日頃の出来事や読んだ本、観た映画などのことを書きつらねてみたいと思います。
あ、お仕事のこともすこし触れていきます。

(ホームページ http://www.noguchi-office.jp/)

相続なら江東区の司法書士 みどりの杜司法書士事務所(会社設立)

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