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『ゴッホ展』を観る(2)

『ゴッホ展』で展示されていた『アルルの寝室』。
この絵に関連して、ちょっと面白い本があります。



2000年の日本推理作家協会賞を授賞している、ということに興味を惹かれて読んでみました。

ファン・ゴッホ美術館に所蔵されている「アルルの寝室」のスケッチ。

goho2.jpg

このスケッチを筆者は「贋作」だ、と断じます。
「と思う」ではなく、ほぼ「断定」しているところが小気味いいですね。

透視図法についての詳細な考察や、部屋の構造の徹底した分析を積み上げ、「贋作である」という状況証拠を踏み固めていきます。
なるほど、たしかに、推理小説に登場する刑事が容疑者のアリバイを崩していくプロセスに似たものがあります。
「日本推理作家協会賞」授賞というのもうなづけます。

決定的な証拠として筆者があげるのが、 絵のなかの壁に掛かっている肖像画に「目、鼻、口」が描き込まれていること。
このような「説明的」な描き込みは、「顔は最も大切である」という常識に支配されていると筆者は言います。 
 

これはラフスケッチにおいて画家がやることではない。ものの存在に迫らず視覚的なことばかりが気になる素人がやるようなことである。


さらに、ゴッホが描いた他のスケッチを取り上げ、それとの対比の中で、このような描写が彼の筆によるものではありえない、と断じてしまう。

少々、強引ではないのか、という疑問が頭をかすめないではありません。
ても、延々続く「腕力勝負」のような論証と筆者の情熱にほだされてしまい、「そうだ、贋作だ!」と大きく賛同してしまったのでした。
こういうのは「付和雷同」というのかもしれません。

もうひとつ興味深いのが、弟テオの妻となるヨハンナについての記述です。

ゴッホにとって唯一の理解者であった弟テオ。
二人をつなぐ信頼の絆の強さは有名です。
テオの経済的援助がなければ、ゴッホは絵を描き続けることさえできませんでした。

この二人に割って入ったのが、ヨハンナです。
この本では、彼女が間に入ることで、ゴッホを取り巻く人間関係のバランスが崩れ、それが彼の精神的な安定さえも揺るがしていくことを強調します。

「贋作」の犯人をめぐる考察についても、彼女に対してかなり濃厚な嫌疑をかけていて、このあたりは、筆者の思い込みが前面に出ている感じですね。
ジャン・バルジャンを執拗に追いかける刑事ジャベールを思い出します。
ここは筆者の熱気から距離を置き、読者としては冷静に読みたいところです。

いずれにしても、この本を読むと、サン=レミ療養院以後、死の直前までにゴッホが描いた作品の数々が、すこし違って見えてきます。
この時期、ゴッホの精神が閉じこめられていた部屋の狭さと暗さ、重苦しさが、想像の中で大きくふくらんできます。
それは、明日への希望を込めて描かれた『アルルの寝室』とは、似ても似つかない部屋だったでしょうね。

今回の『ゴッホ展』では、最後の時期に描かれた作品も観ることができました。
「炎の人」であるとか、「荒ぶる魂」であるとか、「情熱の画家」であるとか、いろんな言われ方をされるゴッホ。
でも、ゴーギャンと決裂し、弟が妻をめとり、絵は相変わらず売れない最後の数年間、ゴッホはほんとうにさびしかったんだろうなと思います。
ゴッホの絵に惹かれるのは、ここに漂う「さびしさ」にも理由があるような気がしました。

それでは。

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『ゴッホ展』を観る(1)

国立新美術館で開催中の『ゴッホ展』を観てきました。

goho.jpg

ゴッホ没後、120年になるんですね。
亡くなったのは、1890年7月29日。
同じ年の4ヶ月後、日本では第1回帝国議会が開設されました。
11月29日、ちょうど今日がその記念日にあたります。

ジャポニズムに深く影響され、日本にあこがれていたといわれるゴッホ。
ゴッホがもう少し長生きしていたら、このニュースを耳にしていたはずです。
極東から海を越えて伝わるこの出来事。
すこしは彼の関心を惹くこともあっただろうか。
まあ、それどころの騒ぎではなかったでしょうね。
彼の人生はいつだって波風の絶えることがなかったから。

今回の『ゴッホ展』、とても見応えがありました。
ミレーの『種蒔く人』の模写などを繰り返していた時代にはじまり、印象派の洗礼を浴びて「光」に開眼し、新印象派からは「点描」の技法を身に付け、日本の浮世絵からは大胆な構図や色遣いを取り入れる。
さらに、ゴーギャンから表現主義の影響を受け、「見えないもの」を描くことに関心を寄せる・・・
ゴッホという画家は、ある日突然「ゴッホ」になったわけではない。
その画業の軌跡をわかりやすく辿ることのできる展示でした。

ゴーギャンのために用意した倚子に火の付いたローソク1本を置いた『ゴーギャンの椅子』が印象に残ります。

isu.jpg

南仏アルルでゴッホが夢想したゴーギャンとの共同生活。
彼を歓迎し、彼への尊敬や愛情を込めて描かれたこの絵が、直後に訪れるその破綻と訣別とを逆に暗示しているかのようにも見えます。

南仏アルルでゴッホが暮らした≪黄色い家≫。
その部屋を描いた、有名な『アルルの寝室』も展示されていました。

aruru.jpg

興味深かったのが、この絵画の実物大オブジェが会場内に設置されていたこと。

押すな押すなの人だかりを肩でひたすら押して押してすり抜けて、いちばん前でしっかりと観てきました。
思ったよりもはるかに狭い部屋です。
せいぜい四畳半。
ベッドがとても窮屈そうです。
ゴッホの脚がこの木枠の中にたたんで収まったのだろうかと心配になってしまいました。
小型冷蔵庫も何もない、この部屋の扉ひとつ向うにはゴーギャンが寝起きしていた。
ふたりを隔てる薄い壁と青いドアひとつ。

120年前にはたしかに存在していた空間のひんやりとした手触りと、そこにいた二人の天才の息づかいが、目をつぶらなくてもなんとなく感じられたような気がしました。


それでは。

類推解釈と拡張解釈

大学に入りたての頃のこと。
民法の最初の講義で聴いた話を思い出します。

公園に「車馬入るべからず」という立て札がある。
このとき、「牛」が入ることは許されるのか?

こういう問題でした。

「馬がダメなら牛もダメ」と解釈する。
これを「類推解釈」という。
そう教わったと思います。
条文が規定する「言葉」自体には含まれていないものであっても、性質に類似性があれば
「含まれている」ものと解釈する。
法解釈技術のひとつですね。

では、「牛」ではなく、「驢馬(らば)」や「騾馬(ろば)」だったらどうか。

これらの動物は、もともとの「馬」という「言葉」に含まれている。
したがって、公園に立ち入ることはできない。
これを「拡張解釈」というのだ、とも教わりました。
「シマウマ」が立ち入ったらダメ、というのも、たぶん、「拡張解釈」になるんでしょうね。

つい少し前まで受験勉強であくせくしていたぼくにとって、「法律はこう解釈する」という話は、魔法の言葉のように新鮮でした。
「泳いでみないか」と手招きする海みたいに思えました。

さて、話は変わって、先日のわが家でのこと。
おかずの「鰈(かれい)の煮付け」が、ぼくの分だけ食卓に用意されていません。
いったいどういうことなのか。
丁重に、理由を問いただしてみたところ・・・

理由は「鯖(さば)」にありました。
以前、「鯖はもう食べない」と宣言したことがあります。
鯖を食べて体調を崩すことが続いたからです。
当然、「鯖の煮付け」もそれ以来、パスしていました。

パスが重なり、それが常態となり、その流れの中で、今回、「鰈の煮付け」もパスされてしまった、ということだったわけです。
しかし・・
鰈と鯖とでは、誰が見たってあきらかに違います。
顔も違うし、たぶん性格だって違うはず。
なのに、このような「解釈の飛躍」が許されていいのか。
類推解釈と拡張解釈を同時に行っているようなものではないのだろうか。

足もとをいきなり脅かされる日常生活。
理不尽な振る舞いにいつ襲われるものか、誰にもわかりません。

戦前の「治安維持法」がいい例です。
当初は共産主義者・無政府主義者を対象にしていたものが、すぐに自由主義的言論の統制にまで類推・拡張適用されるようになりました。

決まり事や条文が、ときの為政者によってどのように運用されているか。
享受すべき権利を、ある日突然奪われてはいないか。
日々、注意深く見守っていないといけないですね。
とんでもないことになってからでは遅いですから。

それでは。

ものいえば唇さむき人たち

口に出して言ってはいけないさまざまなこと。
職業を差別したり侮蔑したりする言辞もそのひとつです。

映画『おくりびと』では、納棺師という職業を選んだ夫に、妻(広末涼子)が「汚らわしい!」と言い放つ場面があります。
「納棺」という厳粛な場に立ち合う仕事の意義を何も知らなかった妻。
「無知」や「無理解」が偏見を産み、その偏見が心の中に作ってしまう澱みを、映画はこのシーンで痛烈に描き出します。

さまざまな職業について、差別的な言い回しや、軽侮のニュアンスを含んだ呼称が存在しています。
つい口を突いて出たそういう表現は、たいていあとになって「悪気があって言ったわけではない」というエクスキューズを伴います。

でも相手を傷つける言葉というのは、「悪意」が絶対必要条件というわけではありません。
汗を流して働くことに対する、ごく当り前の「敬意」。
その不在に胸を切り裂かれることだってあります。

国民の生命・財産を守ることをもって職務とする人たちに対して「暴力」という言葉をかぶせしまった官房長官の発言が取り沙汰されています。
「悪意」があってこぼれた言葉ではなかったとしても、働く人に払うべき「敬意」が不足していた、と言われても仕方がないでしょうね。

悪意があろうがなかろうが、世の中には口が裂けても言ってはいけないことがある。
くれぐれも肝に銘じておかないといけないなあと、思います。
権力のトップにいる政治家の人でさえもこのありさまなんだから。
もっとも、政治家というのははじめから口がすこし裂けている人たちなのかも。

・・・と、こういうへらず口もまた、「敬意を欠いた発言」なんだろうか。
そういえば、いまぼくの口の端はすこし裂けてしまっています。
たぶん、おとといの食べ過ぎのせいです。


それでは。

雪の降らない「小雪」の一日

きょう11月22日は、暦のうえでは「小雪」です。
映画『ALWAYS 三丁目の夕日』に出ている女優さんのことではありません。
「小雪」は「しょうせつ」と読みます。
冬が到来し、いよいよ雪が降り始める「小雪」。「二十四節気」のひとつです。
季節を知るために一年を二十四に区切る。
二十四もある「節気」を覚えるのは大変だけど、「立春」や「夏至」、「冬至」などはすでにおなじみですね。

なぜ「二十四節気」について急に詳しくなってしまったのか。
この本を読んだからです。



本の帯には、「池上彰さんおススめ!」という惹句とともに、「総ルビなのでお子さまにも読める!読み聞かせにもぴったり」と書かれています。
まさにそのとおり。ぼくにもなんなく読めました。
内容は、南ひろこさんの描く「ひなちゃん」の漫画と、民俗学者の方が書く歳時記の解説のコラボレーション。

民俗学者の先生らしい記述がいっぱいあって、わかりやすいけど中身は濃いです。
たとえば、日本人はなぜ桜の花を好むのかといえば・・・
「桜の花見をする」ことが、すなわち「米の豊作」を願うことであったからなのだそうです。

なぜ「米の豊作」なのか。
「桜」は「田の神」が依りつくとされる花だから。
なぜそうだとされているのか。
「サクラ」の「サ」というのは「田の神」のこと。
「サクラ」の「クラ」というのは「依りつくもの」のこと。
なので「桜」を愛でることは、「神さま」にお祈りをして豊作を願うこと。

なるほど、「民俗学」というのは、こういう手順でものごとを考えていくんですね。
さすがに池上彰さんおススめの本です。
思わず「そうだったのか!」とうなずいてしまいました。

「ひなちゃん」は、3才になる女の子で、やさしいパパとママに囲まれて暮しています。
南ひろこさんの描く漫画、「ひなちゃんの日常」は、現在、産経新聞に連載中。
なにかと「きっぱり」しているこの新聞の1面を見てひなちゃんの笑顔にほんわりと和む。
これが、毎朝のぼくの日常になっています。
家を出るのがおっくうな朝でも、「とりあえずきょう一日はがんばろうかな」という気持ちに。

さて今日は「小雪」の一日だけど、いまは外に小雨が降っています。
でも雨が雪に変わる気配はなさそう。
とはいえ、季節はどんどん冷たく寒くなっていきます。
心を和ませ温めてくれるものをひとつふたつ、いつでも取り出せるところに持っていたいですね。

それでは。

予防接種に思うこと

インフルエンザの予防接種をしてきました。

振り返れば、去年の今頃は「新型インフルエンザ」の大流行で大変でした。
ぼくも、季節性インフルエンザ用のワクチンは接種していたけど、それだけでは安心できず、けっきょく新型インフルエンザ用も接種してもらうことに。
今年のワクチンは、この両方のタイプに対応しているようですね。
一度の接種で済むので経済的な負担も半分。助かります。
とんこつラーメンを頼んだら、味玉とチャーシューがトッピングされていてうれしかった、みたいな感じかな。

人間にとって、なにかとやっかいな存在である「ウィルス」だけど、かって「宇宙の侵略」から地球を救ったことがあります。
もっとも、これはSF小説の話。



この小説は、2度にわたり映画化されました。
トム・クルーズ主演の2005年版では、宇宙人の圧倒的な破壊力がCGを駆使して描かれます。



「問答無用」で殺戮の限りを尽くす侵略者に地球上において対抗できるものを探すとすれば・・・
性格の悪いことで知られる「ウィルス」は、たしかに適役かもしれません。

そういえば、同じようにやりたい放題の宇宙人によって人類滅亡の淵に追い込まれる、映画『インディペンデンス・デイ』。
反撃の突破口を開いたのは、「コンピュータ・ウィルス」でした。
「コンピュータ」の中で生育するこの「ウィルス」、性格の悪さでは、自然界に生きる「ウィルス」に匹敵するみたいです。

地球を救う「ウィルス」がある反面、宇宙から飛来して人類を脅かす「ウィルス」もあります。
マイケル・クライトンが書いたこの小説。



1969年に映画化もされました。



落下した人工衛星がもたらした謎の病原体。
血液を一瞬で粉末状にしてしまい、町の住民はまたたく間に全滅してしまう。
なのに、「泣き止まない赤ちゃん」と、「酔っぱらいの老人」だけが生き残ります。
この二人に共通するものは何なのか。

病原体の正体を突き止めるまで、文字通り、「息詰まる」サスペンスが連続します。
本も映画も、無類の面白さ、一級のエンターテインメントですね。

日本の小説で「無類の面白さ」を誇るのは、篠田節子の『夏の災厄』。



とある東京のベッドタウンで、突如、日本脳炎に似た感染症が発生します。
すさまじい致死率に右往左往する官僚や行政の責任者。
開業医をはじめ、医療現場も大混乱に陥ります。
「市の保健センター職員」という視線から描かれるパニック描写もリアルで、思わず引き込まれます。

パンデミックともなれば、完成された行政システムでさえ一気に破壊するウィルス。
ときに凶悪無比の宇宙人さえ撃退するパワーを秘めたウィルス。
これをまた「撃退」するのは、人類のどのような「叡智」なんでしょう。

とりあえず、インフルエンザワクチンは接種しました。
あとは「手洗い」と「うがい」を怠らないこと。
この二つもまた人類の貴重な「叡智」なのです。

それでは。

「意思」を伝える20万回のまばたき

伝えたいことがある。
なのに伝える「手段」がない。

どういう状況が想像できるでしょうか。
携帯の電波が届かない雪山で遭難してしまったりしたら「実感」できることなのかもしれません。
雪山までいかなくても、目の前にいる相手に、どうしても気持ちが伝わらない、ということはありがちです。
恋人同士、親と子ども、夫と妻・・・
ただこの場合には、伝える「手段」がない、というよりは、伝える「気持ち」が足りない、といったほうが当たっていそう。

では、重たい潜水服を着て水中深く置き去りにされてしまったらどうでしょう。
光の絶えた暗闇の中で、ただごぼごぼともがく。
「伝えたいこと」は、鎧のような潜水服の中でむなしく谺するだけ・・・

『潜水服は蝶の夢を見る』という映画があります。



ある日突然脳梗塞に襲われる、人気雑誌の編集長。
麻痺は全身に亘り、言葉を発することはおろか、小指ひとつ動かせなくなります。
全身の運動機能を喪失してしまった彼に、いったい意識があるのかどうか。
周囲には、それすら定かになりません。

ところが。
彼の意識はまったく通常どおり活動していたのでした。
そして「左眼」だけが正常に機能することがわかります。
そんな彼と、なんとかコンタクトをとろうとする言語療法士。
でも、動かせるのは左眼の「目蓋(まぶた)」だけ・・・

ここで、一計を案じる言語療法士。
彼に「アルファベット」を順繰りに読み上げ、使いたい文字のところで「瞬(まばたき)き」をさせる。
これによって抽出される一文字ずつのアルファベット。
積み重ねていけば、やがて「文章(センテンス)」が現れ出ます。

気の遠くなるような作業ですね。
たとえば「y」なんていう文字は、最後から二番目だから、読み上げる人だって疲れてしまいます。

そこで、もうひと工夫。

読み上げるアルファベットを「使用頻度順」に並べ替えます。
アルファベットでよく使われる文字は、英語だったら「e,a,t,i,o・・・」というような順番になるようです。
この原理を利用して、効率よくアルファベットを読み上げていくことに。

最初はたどたどしかった意思伝達にも、次第にリズムが生まれます。
そして、瞬きすること20万回。
彼は、なんと「自伝」を書き上げてしまう・・・

ひたすら瞬きを繰り返す「彼」も大変です。
でもまた、20万回、そのメッセージを書き留める作業だって、並大抵ではありません。

「伝える」ということの本源的な姿を見せられるような思いのする映画です。
伝える「気持ち」さえあれば、「手段」はどうにでもなる。

将来、テクノロジーの発達は、「眼の瞬き」を文字に直接変換することを可能にするかもしれません。
ぼくが知らないだけで、すでにそういう技術がかなり進んでいることも考えられます。
残された問題は、「伝えられる」側にきちんと「聞く耳」があるかどうかということ。
全身を「耳」にして相手のメッセージを受けとめる「根気」「誠意」
受け手側の不断の努力は大切だと思います。

たとえば家庭内で発するぼくのメッセージはどのような運命をたどっているか。
べつに「瞬き」や「目配せ」で伝えようとしているわけではありません。
なのに、どのような「根気」や「誠意」に遭遇することもなく、右から左へと虚空を流れていきます。
受け手側の不断の努力は大切だと思います。

それでは。

2010年のオデッセイ~探査機「はやぶさ」がもたらしたもの

「はやぶさ(探査機)」の試料容器から、小惑星イトカワの微粒子約1500個発見。

うれしいニュースが飛び込んで来ました。

太陽系が誕生したのが46億年前。
そのころの痕跡をとどめる小惑星は、「太陽系の化石」とも呼ばれるそうです。
今回の発見によって、地球という惑星の成り立ちに迫れるかもしれないとのこと。
もし有機物が見つかれば、生命の起源を解き明かすという可能性も秘めています。
宇宙の彼方へ未知なるものを求める人類の探求心。
それが、自分たちの「存在」の足もとを明らかにしてくれるかもしれないんですね。

こう書いていて思い出すのは、アーサー・C・クラークによる『2001年宇宙の旅』です。



太陽系の奥深く、未踏の宇宙空間をいく宇宙船ディスカバリー号。
そしてたどりついた土星の衛星に佇立する謎の直方体・モノリス
それは人類の祖先であるヒトザルへとつながっていくものであり、そのヒトザルが始めて手にした道具こそが、宇宙の旅への最初の一歩なのでした。

この小説、スタンリー・キューブリック監督によって、当時の最新技術を駆使した、見事な映像化がなされています。
ただし、最終目的地は、映画では「土星」ではなく「木星」でした。

「生物の進化」ということを考えさせられるお話です。
「進化」の行き着くところでは、もはや自然の肉体は必要ではない。
やがては「脳」でさえも消えていき、「精神」が残る。
そして最後には「精神」までが「物質の束縛」を逃れ、「精霊」とでもいうべきものに移り変わる・・・・

日本でも、小松左京が『果てしなき流れの果に』の中で、「階梯」という言葉を使って人類の進化の長い道のりを描いていました。
『2001年宇宙の旅』が書かれる3年ほど前の作品です。



これらの作品が書かれた60年代は、東西冷戦のもと、全面核戦争の脅威を人類が肌で感じていた最中でした。「科学技術」の限界や「人類」の行き詰まりが切実に意識される時代背景が、こういった傑作を生み出したのかもしれません。

さて、小説のお話に戻ります。
ようやくのこと目的地にたどりついたボーマン船長は、「スターチャイルド」として再生します。
「スターチャイルド」とは何者なのか。
まるで全能者のようでもあります。
ニーチェのいう「超人」のような存在にもみえます。
なんだかよくはわかりません。
よくわからないところが尽きない魅力でもあります。

すこし仏教的な一面も感じます。
「悟っている人が本当に悟っているなら、自分が悟っていることを自覚することはない。真の悟りとは、悟りからも迷いからも自由になることなのだ」とでもいうような。
「解脱者」といったらいいのでしょうか。
やっぱりよくはわかりません。

なんにしても、時がどれだけ流れても魅力のあせない作品ではあります。
この小説の原題は、『2001:A SPACE ODYSSEY』
「オデッセイ」というのは、トロイ戦争のあと、難破しながら10年の漂流生活ののち帰国した、不撓不屈の男の物語です。
宇宙の果てをめぐるこの物語を「オデッセイ」に例えたのは、見事な比喩だなあと思いますね。

ただ、宇宙を海に例えるということでは、日本にもすごい人がいました。
その名も柿本人麻呂。
万葉集にこんな歌が残っています。

 天(あめ)の海に雲の波立ち
  月の舟 星の林に漕ぎ隠る見ゆ


かってこういう雄大な詩魂を持った人がいた。
同じ日本人として誇らしいです。
そして1300年後。
紆余曲折を乗り越え、60億kmの旅を終えて戻ってきた探査機「はやぶさ」が、またぼくたちの胸に、あらたな誇らしさをもたらしてくれたのでした。

それでは。

「推定死亡」という戸籍の記載

相続に関するご依頼の場合、亡くなった方の戸籍をまず拝見します。
ここ5年ほど、戸籍の死亡欄に、「平成○○年○月○日推定死亡」と記載されている例に接することが多くなりました。

「推定」というのは、法が、「一応こうであろう」という判断を下すことをいいます。
一応の判断なので、「反証」、すなわち、そうでない、という証拠があれば、それによって判断しなおされます。

戸籍に没年月日が「推定」という文言によって記載される。
これは、法が「一応こうであろう」と判断せざるを得ない状況であった、ということを意味します。

具体的に言えば、ひとり暮らしをされていた方であること、あるいは、病院で看取られたのではないこと、などが想像されます。
たった一行の戸籍の記載が、さまざまなことを語りかけてきます。

  誰にでも一対揃ひゐる公平 生年月日・没年月日

歌人・浜田蝶二郎氏の詠まれたこの歌に接すると、ほんとにそのとおりだなと思います。
お金持ちのひともそうではないひとも、欲張りのひともそうではないひとも、それぞれにみんなひとつずつ。
ひとりに一行の戸籍の記載。
公平といえばこれほどに公平なことはありません。
ほんとに、いさぎよいほどに公平ですよね。
「推定」などという余分な二文字のあるなしにかかわらず。

それでは。

映画『ふしぎの国のアリス』の不思議

先月、日本橋三越本店で開催された『不思議の国のアリス展』を観てきました。

aris0.jpg

作者ルイス・キャロルの人物像や、初版本のかずかずが展示されます。
また、挿絵画家ジョン・テニエルについても詳しく紹介され、興味深かったです。
アリスの挿絵は、世界中でさまざまな人が挑んでいて、サルバトール・ダリの作品が10点ほど展示されているのが目を惹きました。

この作品、ウォルト・ディズニーによる長編アニメが有名です。



60年前に製作されたとは思えない斬新な映像で「不思議の国」が表現されます。
もっとも、お話は、続編の『鏡の国のアリス』と融合しているところがあります。
たとえば、セイウチがかわいいカキの赤ちゃんを食べてしまうお話。
直接の描写はないけど、ずいぶんショッキングな場面です。
わざわざこのシーンを取り混ぜないでも・・とは思うけど、印象に残ってしまいますね。
「童話には残酷がつきもの」ということなんでしょうか。

「残酷」というわけではないけど、ともかく奇妙な場面がこれ。

aris2.jpg

『不思議の国のアリス展』で展示されていた、等身大のオブジェです。
「帽子屋さんとのお茶会」の場面。

このオブジェではみんなお行儀がいいけど、映画では、乱痴気騒ぎがシュールに展開します。
ぼく自身、このパーティシーンから、「首切り女王」の場面まで、まったくついていけませんでした。
これを観る「よいこのみんな」はどういう感想を持つのだろう。
理屈ぬきで、素直に楽しんでしまうのかもしれないですね。

これは、有名なチェシャ猫のオブジェ。

aris1.jpg

「チェシャ猫」は、この童話のなかで、もっともよく知られているキャラクターなのでは。
だいたい、なんでいつもにやにや笑っているのか。
なんで現れたり消えたりするのか。
まったく不気味なやつです。

ただ、このチェシャ猫、けっこうクールです。
誰も彼もが「へんてこ」なのに誰も自分が「へんてこ」だとは思っていないこの不思議ワールド。
なのにチェシャ猫だけは言います。

「ここではみんなへんてこさ。おれだってへんてこだし、あんただってへんてこなんだ。」

街角でよくノラ猫を見かけるけど、彼らもきっと、われわれを眺めてこういうことを考えている・・・。
そう思わせるような雰囲気が、ノラ猫くんにはありますよね。


それでは。

プロフィール

JIRO

Author:JIRO
東京下町で開業する司法書士です。
司法書士とはなにをする人か?
・・・一言では説明が難しいです。
といって二言三言あれば説明できるわけではなし。

このブログでは、日頃の出来事や読んだ本、観た映画などのことを書きつらねてみたいと思います。
あ、お仕事のこともすこし触れていきます。

(ホームページ http://www.noguchi-office.jp/)

相続なら江東区の司法書士 みどりの杜司法書士事務所(会社設立)

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