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『佐藤忠良展』を観てきました。

前回、佐藤忠良氏原画による『おおきなかぶ』のことについて書きました。
その佐藤氏の回顧展「ある造形家の足跡」が世田谷美術館で開催されています。

作品は、大きく4つのテーマに分けて展示されています。

第1のテーマ: <冬>
「冬」以外のなにものでもない寒さの日だったので、このテーマはまさにタイムリー。
ここでは、帽子をかぶった頭像や、マントを身につけた作品を観ることができます。
マントや手袋は「冬」の季語でもあるから、これは納得ですね。
前肢を高々と宙に上げている『蝦夷鹿』の像。
札幌オリンピックを記念して制作されたものです。
なぜか映画『もののけ姫』が思い浮かびます。
昼間は角を持った鹿の姿なのに、夜になると見上げるような巨人へと変身する「ダイダラボッチ」。
この蝦夷鹿も夜になると・・・。どうなんでしょうね。

第2のテーマ: <頭像―人間の相貌>
いろいろな人物をモデルとした頭像がたくさん展示されています。
美男美女、というわけではありません。
どこにでもいる、そう思わせられるような人たちの肖像。
『群馬の人』という作品は、佐藤忠良氏の代表作のひとつだそうです。
じいっと見つめていると、たしかにこのモデルの人は「群馬の人」に違いない、という気がしてきます。
「栃木の人」でも「茨城の人」でもなく、「群馬の人」。
「群馬」という土地で人生を送り、ことによるともうすでにその人生を全うされた人。
小さい頃に髪を切ってもらっていた床屋のおじさんに似ているようにも見えます。
あの人も、ひょっとしたら群馬出身の人だったのでは。
いまではもう確かめようもないことだけど。

第3のテーマ: <女性像―人体の構造>
彫刻家・佐藤忠良の本領ここにあり、という作品群が展示されています。
ずらりと並ぶ女性像。
均整のとれた体、でも、かならずしもなだらかとばかりはいえない、肌の起伏。
起伏が作り出す「皺」や「陰翳」がとても気になります。

代表作の一つと言われる、『帽子・夏』。
帽子をかぶる、というよりもふんわりと頭にのせた若い女性。
パンタロンをはき、ひざを開き加減にして腰掛けています。
不安定な姿勢であるはずなのに、すこしも不自然な感じがありません。

観ていると、なにかを話しかけたくなります。
どんな雰囲気で、どんな会話を交わすのが似合っているのか、つい考えてしまいました。
映画『カサブランカ』で、イングリッド・バーグマンとハンフリー・ボガードが交わしたような会話・・・
ではありません。
『アニー・ホール』で、ウディ・アレンとダイアン・キートンが交わした会話・・・
やっぱり違います。
ジャン=ポール・ベルモンドとジーン・セバーグが意味のない会話を交わしあう『勝手にしやがれ』。
これがいちばんぴったりくるような感じ。
もっとも、映画の中では、帽子をかぶっているのはジーン・セバーグではなくベルモンドのほうだし、第一、ぼくはベルモンドではないわけだけど。

第4のテーマ:<子供の情景> 
佐藤忠良氏ご自身の子どもや孫、友人の娘などをモデルに、その成長を愛おしむようにつくられた彫像が展示されています。作家のあたたかい眼差しがすみずみまであふれています。
寅さんシリーズの第二作、『続・男はつらいよ』のマドンナを演じた佐藤オリエさんは、佐藤忠良氏の長女だったんですね。

展示を通じて、「写実的」であるというのはどういうことなのか、考えさせられます。
佐藤氏自身は、次のように語られています。

写実は、もちろん、単なる自然描写ではありません。作者が対象に持った共感、つまり対象に自分の投影を発見した時におきる衝動です。しかしこれも狭く考えるとただの個人的な呟きに過ぎなくなりますが、作者はいつでも、広い視野での典型的形象化を心がけなければ作品が写実に値するものにはならいで終わると、私は考えます。

「じぶん」と対象との共振作用の中にうまれる「衝動」。
その「衝動」を、さらに距離を置いたところにいる「じぶん」が俯瞰する。
俯瞰したときに見えるその形を描写したものこそが「写実」である。
・・・ということなんでしょうか。

むずかしく考える必要はないのかもしれません。
前回、「きみの めで みた ことや、きみの あたまで かんがえた ことを、きみの てで かいたり つくったり しなさい。」という佐藤氏の言葉を紹介しました。
たぶん、同じことを言っておられるのではないかと思います。

それでは。


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「おおきなかぶ」を抜いた話

まだ幼稚園に在籍し、「~ちゃん」と呼ばれていたころのこと。
お遊戯会で 『おおきなかぶ』 というお話を演じました。ロシア民話です。
ぼくが演じたのは、「おじいさん」の役柄。
舞台に最初から最後までずっと出ている役どころで、セリフも多かったせいか、親や親戚からは「主役に選ばれるとはたいしたものだ」と絶賛されました。
その後、波風も立たずに歳月は過ぎゆき、つぎに「絶賛」されたのは成人となってから。
結婚式の日に、仲人から「非の打ち所がない新郎」と紹介されるのを聞いたときです。

さて、今回、このお話をあらためてよく読んでみました。




「おおきくなれ」とかぶを植えるおじいさん。
大きくなりすぎて、ひとりでは抜けません。
おばあさんを呼んできていっしょにひっぱるけれど、やっぱり抜けない。
そこで孫むすめを呼んできます。でも抜けない。
孫むすめはいぬを、いぬはねこを呼んできてひっぱるけれど、どうしても抜けません。
なにしろ大きくて頑固なかぶなんです。
ここでねこは、ねずみをつれてきます。
ねずみが力をそえてひっぱると・・やっとかぶは抜けました。
やれやれ。

・・というお話です。

ええと、こうして読み直してみると・・
「おじいさん」はべつに「主役」でもなんでもないんですね。
お話の「きっかけ」になる人、というに過ぎないように思えます。
むしろ、最後に登場する「ねずみ」のほうが、いいところをさらっているみたい。
サッカーでたとえれば、中盤で地味にゲームを組み立てる守備的MFが「おじいさん」で、「ねずみ」は最後にゴールを決めるストライカー。
新聞の見出しになるのは、とうぜんねずみくんのほうでしょう。

ということで、「主役」としてスポットライトを浴びた、という晴れがましい記憶は、一瞬で霧消してしまったのでした。
世の中、知らないでいたほうがよいこともある、という一例です。
人生の「主役」になる、ということのむずかしさを痛感します。

でも、このぐらいのダメージでへこたれるわけにはいきません。
「絶賛」を浴びることには縁遠くても、「世間の塵埃」は、いやというほど浴びています。
立ち直りは早いのです。

立ち直りがてらに、このお話について冷静に考えてみました。
冷静に考えれば、「ねずみが主役」というのもすこし的がはずれていますね。
むしろ「主役は誰か」と考えることそのものを否定しているようにも思えます。
ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために。
こんな言葉が思い浮かびます。

『「大きなかぶ」はなぜ抜けた?』(講談社現代新書) という本を読んでみました。



この本によると、『おおきなかぶ』というお話は、1955年、小学校一年生の教科書に採用されています。
その後、こういう批判がなされました。

『団結』も『集団的労働』も悪くはないが、それを教えたければ日本の民話にも同じようなものが無数にあるではないか。にもかかわらず、小学一年生から何故ソ連の民話を学ばせなければならないのか。

一方、翻訳者の西郷竹彦という方は、この作品のテーマについてこう書きます。

おおぜいでひっぱってぬけなかったかぶが、小さなねずみが加わったくらいでぬけるだろうかと心配していた読者には、結末の『とうとうかぶがぬけました』というところで、ねずみのイメージがグーンと大きく感じられます。すなわち、小さなねずみの存在を大きくする、その過程がこの作品の筋であり、単なる協力ではなく、たとえ小さな弱い存在でも、その力を仲間に引き入れなければだめなのだとうのがこの作品のテーマなのです。

「小さな弱い存在」をあなどってはいけない。すべての力を結集することなしに事はなしえない。
お話が言わんとすることについて、そんなふうに考えるのが一般的な捉え方みたいです。

ただ、お話がシンプルなので、ほかにもいろいろな読み方ができそう。
たとえば、なぜ、おじいさんがかぶをひっぱり、おじいさんをおばあさんがひっぱり、おばあさんを孫むすめがひっぱり・・・というように、縦に鎖状になってかぶを引き抜こうとするのか。
力学的にいちばん効率的であるからなのか、それともほかに秘められた理由があるのか。

秘められた理由の有無はともかく、この場面は、絵本の中でとても楽しく描かれています。
とくに、ねずみがねこをどんなふうにひっぱっているのかが見物ですね。
ねことねずみ。
日頃の敵対関係を越えて力をあわせる姿は、どこかしら心なごむものがあります。
ひっぱるときの、 「うんとこしょ どっこいしょ」 というかけ声も名調子です。

ちなみに、絵を描いたのは佐藤忠良氏。
1912年生まれ、ことしで100才になられます。
日本を代表する彫刻家のお一人だけど、子どもの美術教育にも熱心にとりくまれてきた方です。

小学一年生用の美術教科書に、「絵を描くこと」と「ものを作ること」について、こんなふうにお書きになっています。

ずがこうさくの じかんは、じょうずに えを かいたり じょうずに ものを つくったり する ことが めあて では ありません。きみの めで みた ことや、きみの あたまで かんがえた ことを、きみの てで かいたり つくったり しなさい。
こころを こめて つくって いく あいだに しぜんが どんなに すばらしいか、どんな ひとに なるのが たいせつか、という ことが わかって くる でしょう。
これが めあてです。
「子どもの美術1」(1980年)


平明ですばらしい文章です。

じぶんの目で見て、じぶんの頭で考える。
ひとの目で見てはだめだし、ひとの頭で考えてもだめ。
そうか、じぶんの人生の「主役」になる、というのは、こういうことだったんですね。
耳が痛い言葉です。でも痛いのはじぶんの耳です。

それでは。

あの事件から2年7ヶ月です。

きのう、秋葉原の歩行者天国が再開されました。
あの殺傷事件から2年7ヶ月。
「自分に降りかかってもおかしくなかった。悲惨な事件は絶対忘れないけれど、ホコ天が無いままだと事件に負けた感じがする」
近くに住むという人の言葉が、新聞で紹介されています。

事件当日の日曜日、ぼくは事務所にいて雑用を片付けていました。
事務所から現場まで、電車に乗れば10分です。
第一報をテレビで見たとき、頭の中にぽっかり虚(うろ)が出来たような気分に。
しだいに吐き気に似たものがこみ上げてきたことも思い出します。

直後の報道から、犯人は職場でないがしろにされたと思い込み、携帯サイトでも誰にも相手にされなかったことが凶行のひきがねとなった、というようなことを知りました。
自分は居ても居なくてもいい人間だと思い込む。

マザー・テレサが「死を待つ人の家」を開設する際に述べたという言葉があります。
「この世で最大の不幸は、貧しさや病ではありません。だれからも自分を必要とされていないと感じることです。」

この犯人は、「この世で最大の不幸」を負っていたのか。
そんなはずはありません。
そんなはずがあるものか、と考えているうちに、ある映画のことが思い浮かびました。
フェデリコ・フェリーニ監督の『道』(1954年)という映画です。



主な登場人物は3人だけ。
大道芸人ザンパノと、彼に買われた少女ジェルソミーナ、それとこの二人に運命的な関わりを持つ綱渡りの芸人です。
ザンパノというのは、粗野で乱暴で、でも生命力に溢れた男。
少し頭の弱いジェルソミーナを「物」のように扱い、平然としています。

寄る辺もなく、心の拠り所も持たないジェルソミーナ。
そんな彼女を、綱渡り芸人が励まします。
  「道端の石ころだって何かの役に立っている」
  「空の星だって役に立っている」


ジェルソミーナの心の中に、生まれてはじめて、ぽっと小さな灯りが点ります。

一方のザンパノは相変わらずのやりたい放題。
とうとう彼女を野良猫のように放り捨ててしまいます。
そして勝手気ままなその日ぐらしに明け暮れる・・・

とはいえ、自慢の怪力も寄る年波とともに衰え、ついにはみじめな酔っぱらいに身を持ちくずします。
あげくの果てに流れ着いたとある漁村。
そこでジェルソミーナの悲しい行く末を知ることに。
夜の海辺にさまよいでたザンパノは、はじめて「孤独」という言葉を知ります。
こらえきれずにこぼれる嗚咽。
身も世もなく泣き崩れる彼の目に映るのは、ただ漆黒の闇と星とだけ。

「誰にも必要とされない」ように見えたジェルソミーナでした。
でも、彼女こそが、彼にとって二人とはいない存在だったことに気づきます。
失ってはならないものを失ってしまった、そのことに気づいてしまった悲しみと怖れの中で、ザンパノは果てることなく身を震わせます。

ザンパノのような男でさえ、誰かを必要としなければ生きてはいけませんでした。
すべて人間は誰かを必要としなければ生きていけない。
逆からいえば・・・
生きとし生ける人間はすべて、誰かに、どこかにいる誰かに、必要とされている。
そう断言しても差し支えないはずです。
道端のすべての石ころが「何か」のためにそこに存在するのと同じように。

そんな人間同士が寄り集まって暮らしているのに、携帯サイトで相手にされなかったことを理由に、自分だけ特権的に「誰にも必要とされない」と思い定めることの、なんと思い上がった考えであることか。

「だれからも自分を必要とされていないと感じること」が「この世で最大の不幸」であるというマザー・テレサの言葉。
これは、「そのような不幸がこの世にあってはならない、あるはずがない」という、力強いメッセージではなかったのかな、と思います。

犯人がもしこの映画を直前に観る機会があったなら、ひょっとしたら、もしかしたらあの事件は・・・
などと、ついつい考えてしまいました。

それでは。


『ノルウェイの森』で食べる鍋焼きうどん

映画『ノルウェイの森』を観ました。

人間を傷つけるのに、刃物なんて要りません。
ほんのささいな言葉や振る舞いで、たやすく損なわれてしまう人がいます。
ぎゃくにちょっとしたやさしさや自然のたたずまいに、心を慰められることも。
傷ついて慰められて。
なんとか収支とんとんで、毎日を過ごしていきます。

でも、そうそう上手に帳尻を合わせていける人ばかりとは限りません。
3回つづけて傷ついて、次に1回癒される。
そんなことをずっと繰り返してしまう。
繰り返していった先は・・・あっという間に債務超過。
呼吸を重ねるそのたびに傷は深まり累積し、やがては抜き差しならない多重債務にまみれてしまう。
もろくてこわれやすい心には、持ちこたえることなんてできません。
たとえ誰かのやさしい掌(たなごころ)に包まれていても。

観ていてそんなことを考えてしまう映画でした。

この映画、原作の英語版をもとにして別の国の言葉に翻訳し、それをまたさらに日本語に訳し直したものを脚本とし、映像化したような印象がありました。
そのことでそぎ落とされたものと、逆に浮かび上がって見えるもの。
どちらもがあるなあと思いました。

原作について、村上春樹は、『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』というインタビュー集の中で、こう語っています。



『ノルウェイの森』を書いたときには、とにかく百パーセント・リアリズムの手法で小説を書いてみようと試みました。
そうすることがひとつの実験として、僕には必要だと思ったから。


たしかに、この小説には「羊男」も「カーネル・サンダース」も出て来ません。
誰かがいきなり失踪することもない。
でも、「リアリズム」という言葉には、どこか微妙な違和感がありました。
緊張感の中にただようはかなさ脆さ「あてどのなさ」のせいなのかもしれません。
たとえていえば、血の色の液体でぎりぎりまで満たされたワイングラス。
わずかな「ゆらぎ」があれば、表面張力の支えを失ったワインが縁からこぼれます。

この映画は、その漠然とした「非現実感」をうまく捉えて描いてくれていたように思います。
観ている間中、「リアリティ」という言葉をほとんど思い浮かべませんでした。

例外といえば、タクシーの窓に貼られたステッカーから当時の初乗り料金が100円であったことがわかる場面。
あるいは、セリフの中で「早稲田の学食で食べる120円のA定食」が大変なぜいたくだった、と語られる場面などに、かろうじて「現実」との接触点を感じたくらいです。

スクリーンでは、ペールブルーを基調とした暗色と、けだるい亜熱帯を思わせるような色彩とがしきりに交錯し、まるで「日本」という感じがわいてきません。
それは「異国風」とか「無国籍」というよりも、むしろ「この世ならぬ、どこともわからない世界」に迷い込んでいるような感じを与えます。
この印象は終始つきまとい、最後に主人公が電話口で思わず漏らす、「僕は今どこにいるんだ?」というつぶやきと響き合います。

二人がせわしなく歩きながら会話を交わす場面もいいですね。
ほぼ確信を持って言ってしまえば、このとき二人の足裏は、地面からほんのすこしだけ浮いています。
現世とのつながりから完全に切り離されているわけではなく、かといって、大地をしかと踏みしめているわけでもない。
どちらともいえる、どちらともとれるような地平。
「この世界」と「あちら側の世界」との端境。

二人のラブシーンも、この映画の中で、大切な場面ですね。
見ていて、目を背けたくなるほど痛々しいのに、目を背けるわけにはいきません。
背けた途端に、表面張力を失ったワインが縁からこぼれ落ちてしまうのではないかと思えるから。

自作の中のラブシーンについて、村上春樹は前掲インタビュー集の中で、こう語っています。

僕は読者の精神を揺さぶり、ふるわせることで、読者自身の秘密の部分にかかった覆いをとりのぞきたい。
それでこそ、読者と僕のあいだに、何かが起きるんです。


この映画のラブシーンが、観客の精神を揺さぶるものであったのかどうか。
それはもう、映画を観るひとりひとりの問題です。
ただ、ぼくについていえば、「ふるわせられた」とまでは言わないにしても、「揺さぶられる」ものはたしかにありました。

映画館では、七列ほど前にひとりで坐ったシニアの男性が、この場面で、おだやかな寝息を立てておられました。
ゆっくりとリズムを刻み、低く重く、くぐもった寝息。
スクリーンで躰をぶつけ合う二人と、寝息の響きとの不思議な取り合わせ。
なんだか、ルネ・マグリットの描いた絵を観ているような気分でした。

映画館を出るとき、なぜだか無性に「鍋焼きうどん」が食べたくなりました。
寒かったせいもあるんでしょうね。
海老の天ぷら。しいたけ。とり肉。長ねぎ。かまぼこも欠かせません。
いろとりどりに鍋の中で肩を寄せ合う具の中から、まずどれを選んで食べるか。
つかのま迷った箸が、狙いを定めます。
鍋にはなるべく触れないように。熱いですからね。
具もうどんも、ふーふーと、じゅうぶんに息をかけて、体温に近づけてから口に運びます。
食べるのになにかと手間暇がかかる鍋焼きうどん。
でも誰か大切な人、大好きな人が一緒だと、ことさら美味しく感じます。
富士には月見草が、「ノルウェイの森」には鍋焼きうどんが、とてもよく似合う。
そんな気がしました。

それでは。

『ドガ展』で観たエトワール

昨年の大晦日、横浜美術館で開催されていた『ドガ展』に行ってきました。
開催の最終日でもあります。
でも、年の暮だから、普通の人はみんな忙しいはず。
混み合うこともないだろう。
そう思っていたら、開館30分前からすでにずらりと行列が。
世の中にはなんとひまな人間の多いことか。
そんな人間はぼくぐらいのものだと思っていたのに。

さて、お目当ては、代表作「エトワール」です。
これは、入館時に無料で配布してくれたポストカード。

エトワール(縮小)

スポットライトを浴びて踊るエトワールの一瞬の動きを描くこの絵画。
着地をした瞬間のポーズなのでしょうか。
ほとんど重力の存在を忘れさせる「瞬間」が、58×42cmの、大きいとはいえない画布の上で、永遠に静止をつづけています。
 
「エトワール」というのは「星」という意味だけど、バレエの世界では、ヒエラルキーの頂点に立つダンサーのことをそう呼ぶのだそうです。
・・・ということを、とあるドキュメンタリー映画で知りました。
そのものずばり、『エトワール』というタイトルの映画。
パリ・オペラ座バレエ団のダンサーたちの素顔や日常をとらえたフィルムです。

バレエ団の一員として華やかな舞台で踊るために求められるすさまじい「克己」。
そのトップに立つダンサーが「エトワール」と呼ばれます。
以下、「プルミエール」、「ダンスーズ」、「スジェ」、「コリフェ」、そして「カドリーユ」と続く序列。
兵隊の位(くらい)みたいですね。
大相撲でいえば、「横綱」といったところ。
もっとも、横綱とエトワールでは、体型にいささかの相違がみられるけど、「きびしい修練のすえにたどりつく地位」という点では同じです。

ドガが描いたバレリーナも、「エトワール」となるまでにはずいぶん努力と犠牲を払い、払った末に、チャンスを掴んだんでしょう。
この絵、じつは気になる人物が描き込まれています。
絵の左側、隠れるように立っている黒い夜会服の紳士。
バレリーナのパトロンなんだそうです。
パトロン、すなわち「愛人」ですね。
バレリーナには金持ちのパトロンがいなければ、舞台に立つこともままならなかった。
そういう時代だった、というしかありません。

このバレリーナの、「日頃の血の滲むような努力」をドガが知っていたとしたら、それだけに「背後にたたずむパトロン」に対して、許しがたい思いがあったのでは。
彼女に寄せるほのかな愛情と、抑えても抑えきれない怒りと、こもごもが込められている作品なんだ、ということを感じさせられます。

ドガは、視力の衰えに苦しみ続けたとのこと。
60才ころからは、ほとんど見えなくなっていたようです。
いつかはすべてが闇に閉ざされることへの怖れ。
日々、光をとらえる力を弱めていく網膜。
室内光線に浮かびあがるエトワールを取り囲む淡い陰翳は、ドガ自身の胸の中に絶えず揺曳する陰翳でもあったのかなと思いました。

それでは。

不思議なかたちの雲と出会いました。

きのうの夕方、不思議な形の雲に出逢いました。

iwasi1.jpg

第一印象は、「棚田みたいだな」というもの。
でも、見入っていると、しだいに「巨大な龍のうろこ」のようにも思えてきます。
別の角度からも眺めてみると・・・

iwasi2.jpg

分類すると、「絹積雲」といわれている種類の雲ではないかなと思います。
別名、鰯(いわし)雲、あるいは、さば雲。
どちらも秋の季語にもなる言葉で、いまの季節には珍しいのではないでしょうか。

筋状の模様が幾何学的です。
自然の中に存在する「秩序」のようなものを感じます。
さらに眺めていると、「秩序」なんていう言葉をも突き抜けた、何か大きなものすら感知させるような空。
名前の付けようもないその「何か」が空を悠然と泳ぎ渡っているようで、すこし感動してしまいました。

歩くときには、すこし視線を上向きにしていると、思わぬものが目に飛びこんでくるものですね。
心塞ぐようなことがあったりすると、どうしてもうつむきがちになるけど・・
うつむいて、自分の靴先だけ見て歩いていて、いいことがあった「ためし」はありません。
これは経験的に断言できます。
どうせ歩くなら、「靴先」とは別のものを眺めるほうがぜんぜんいいな、と思いました。


それでは。


「電子書籍」は「元年」なのか

新しいモノを持つことは大好きなので、いま話題の電子書籍、その動向には興味津々です。
様子を見極めて、近いうちには是非、手に入れたいな、と思います。
ただ、いまはまだ機が熟していない、という雰囲気も。
なので、とりあえず情報収集を兼ねてこの本を購入してみました。
タイトルは、 『本は、これから』 。
岩波新書です。



電子ブックの登場・普及によって、「本」の未来はどうなるのか。
37人の論者の「思いのたけ」が、エッセイというかたちで語られます。
論者の肩書きはさまざま。
作家、学者、装丁家、出版関係者。
古書店主、町の本屋さん、国立国会図書館長。
多種多彩です。

これだけの人たちによって熱く書き綴られるので、この本、薄手の新書の割りには、とても読み出があります。
ずしりとした密度。電子ブックだったらどんな印象を持っただろう。

通読することで、現時点での電子書籍の長所と短所を知ることができます。
また、「紙の本」との共存について語られる前向きな提言の数々も、参考になりました。

ただ、電子書籍に対して否定的なニュアンスのものが多いのでは、という「読む前の予断」は、ほぼ当たっていました。
「書き手としてのわたしは、本という媒体がなくなっても痛くも痒くもない。」と書く 上野千鶴子氏 も、「書物はなくならない、今度は〝伝統工芸品〟として。」と結びます。

製本された「本」がなくなることはない。
その思いについて語られるエッセイ、とくに、忘れがたい一冊の「本」との邂逅について語られるエッセイは、どれも読み応えがありました。

「本との宿命的な出会い」の重要性を語る 内田樹氏 もそのひとり。
「活字中毒者は電子書籍で本を読むか?」というタイトルで書かれたエッセイを読むと・・・

結論として提示されるのは、やっぱり「紙の本はなくならない」ということ。
内田氏は言います。
かって「口承が中心であった時代」があった。
そして書物が生まれ、そのことによって人間は「長い物語を暗誦する能力」を失った。
同じように、紙の媒体が電子書籍にシフトするとき、われわれは「何か」を失う。
それは、失ってはならない、「人間の本然的な生きる力」であるにちがいない、と。
内田氏の指摘は、あいかわらず鋭いなあ、と思いました。

これを読んで、ふとフランソワ・トリュフォー監督の『華氏451』という映画が思い浮かびました。
1966年に製作された映画です。



描かれるのは、情報が完全に管理され、「読書は厳禁」という未来社会。
主人公は、押収した書物を焼くのがお仕事です。
嫌気がさして、反体制に身を投じ、たどり着いたのは「書物を愛する人々」が隠れて住む、緑豊かな、平和な土地。
そこで主人公が目にしたのは、住人ひとりひとりが一冊ずつ、古今の古典を暗誦している姿・・・
やがて主人公も「くびき」から解き放たれます。
かくて彼はふたたび「人間」に戻り、のびのびと「エドガー・アラン・ポー」の暗誦を始めるのでした。
タイトルの『華氏451』というのは、本が「自然発火」する温度のことです。
なんとも暗示的なお話ではありますね。

さて、この新書の話に戻ります。
とても面白い企画の本です。
ただ、このテーマの本が、「紙の本」として企画され製本され出版され販売されていることに、どこかアイロニーじみたものも感じてしまいました。

スタジオジブリの代表取締役である 鈴木敏夫氏 が、このように書いています。

「本は、これから」の後に言葉を続けるなら、冷静にこう言いたい。「適正な規模になる」と。
だから、岩波書店にはこんな本を作らずに、超然と屹立していてほしいというのが僕の本音だ。


それでは。

高峰秀子さんのこと

手持ちの電子辞書には、人名事典も備わっています。
女優の高峰秀子さんについては、こう記載されていました。

【高峰秀子】[生]1924.3.27~ 北海道
映画女優。1929年松竹に子役として入社。デビュー作『母』(1929)・・・


2010年12月28日、高峰さんは亡くなられました。
生年に続く「~」のあとの空白が埋まってしまいました。
埋まらなくてもよかったのに。ずっと空白のままでよかったのに。

『高峰秀子の流儀』 という本があります。




20年以上前に雑誌記者として高峰さんに出逢った筆者。
彼女を「かあちゃん」と呼べるほどの厚い信頼関係の中で肌身に感じつづけてきた、高峰秀子という女性の「流儀」について書かれている本です。

昨年3月、読売新聞のインタビューの中で、著者はこう語っています。

「果たして理解なんていうことができるのかというほど、大きいし、深いし、興味の尽きない人。
人間として豊かで、一日中、じっと見てても面白いだろうなって思うくらい」


「高峰さんは何を書かれても平気だって姿勢の人。自分の言動に常に責任を持っている。
人生を掃き清めながら歩いてきた。そんな感じがするんです」


各章の見出しは、「動じない」、「求めない」、「期待しない」、「迷わない」・・・
タイトルだけみても、高峰さんという女性の「生きる姿」が浮かんできます。

一例をあげると、「振り返らない」という章では、こう書かれています。

「私は考えても仕方のないことは考えない。自分の中で握りつぶす」
かつて、高峰さんが言った言葉。
(略)
振り返ってそれが何になる。高峰秀子の中にあるものを、私はハッキリと感じる。
それは〝潔さ〟である。


こんな一節に触れると、「なるほどなあ」と思います。
たとえば 『乱れる』(1964年)という映画では・・。

東北へと向かう夜行列車の中、窓から差し込む朝日を浴びた瞬間、主人公の女性は、道ならぬ恋に身を投じる決意をします。もう戻れない川を渡る決意。
高峰さんが見せてくれた「あの表情」は、この「潔さ」のあらわれだったんだ・・

彼女の自叙エッセイである 『 わたしの渡世日記 』
その文庫本解説で、沢木耕太郎も、こう書いています。

彼女が敬愛する二人の都会人について書いた二冊の本の中に、同じひとつの言葉が出てくる。

《 川口先生の身体を貫く鋼鉄のように強靱なものはいったい何だろう?/
ひと言でいえば、「人生に対する潔さ」ではないか、と思っている 》 (『人情話 松太郎』)
《 いまの日本に、こんなに立派で潔い男性がいるだろうか? 》 (『私の梅原龍三郎』)

潔さ。
もし、高峰秀子が雌ライオンであるとするなら、この雌ライオンの最大の願望は、人生において常に潔くありたいということであるに違いない。
それが達成されたとき、「毅然とした雌ライオン」は真の「高峰秀子」になっているはずである。


日本映画を代表する女優は誰か。
田中絹代の名前をあげる人もいるだろうし、断然、原節子だ、という人もいると思います。
昨年、ぼくは、高峰秀子さんこそが「その人」だということに気がつきました。
とつぜん、気がつきました。
気がつくのが遅すぎた、という申し訳なさがあります。
気がついてよかった、という思いもあります。

『高峰秀子の流儀』という本の最後には、高峰さんの「ひと言」が書かれています。

「理解する」。国が国を、人間が人間を理解するからこそ、いささかギクシャクとしながらも世の中は流れてゆく。

お互い同士が理解し合うことの大切であること。
高峰さんの根本にあることなんでしょうね。
ただ、つづけてこうも書かれます。

・・理解にも「限度」というものがあろう、と私は思う。

辛酸をなめることもあった過去の人間関係が滲み出るような言葉です。

それでも、「限度などぶっ飛ばしてなめるようにして綴りあげてくれた」著者に感謝し、文章をこう結びます。

心から「ありがとう」と言います。

日本中でいま、数え切れない人が同じことを高峰さんに対して言っていると思います。
心からの「ありがとう」を言っていると思います。


それでは。

初夕焼けの空を眺めて

東京では、元日からいいお天気が続いています。
たくさんの人が「初日の出」を拝まれたのではないでしょうか。
暦の節目を大切にし、あたらしく迎えた年を寿ぐ心。
ずっと昔から受け継がれてきて、ずっと先まで受け渡していくことになる「心」なんでしょうね。
今年がよい一年になることをぼくも心から願っています。

行く年のしがらみに区切りをつけた新しい年の、その最初の一日。
特別な日であるはずなのに、それでもやっぱり日は暮れます。

yuuhi3.jpg

群青から薄紫色へのグラデュエーション。
東京では珍しいぐらいにあざやかな夕空でした。
元旦は空気がことさら澄んでいるからなのでしょうか。
「東京には空がない」、とは言われて久しいことだけど、東京にもこんな空があります。
初日の出だけではなく、初夕焼けもいいなあと思いました。

芥川龍之介に、こんな句があります。

 元日や手を洗ひをる夕ごころ

年が明けたと思う間もなく、たちまちのうちに夕方になる。
元日の慌ただしさの中、ふだんと変わりなく日暮れは訪れる。
手を洗えばどこからともなく忍び寄ってくる、そこはかとない哀愁。
どんな気分なのか味わってみようと、夕方、ぼくも手を洗ってみたら・・・
とくに何も忍び寄ってはきませんでした。
駅伝のテレビ中継を眺めながらの気楽な寝正月。
「哀愁」も近づきようがないんでしょうね。

さて。
今年はどんな一年にしないといけないのか。
やはり、いろいろと考えてしまいます。

日の出を見る機会というのは、そんなに数多くないかもしれません。
でも、充実した一日のあとに気持ちのいい「夕焼け空」を眺める。
そんな日をたくさん持つことができる一年であればいいな、と思いました。


それでは。


プロフィール

JIRO

Author:JIRO
東京下町で開業する司法書士です。
司法書士とはなにをする人か?
・・・一言では説明が難しいです。
といって二言三言あれば説明できるわけではなし。

このブログでは、日頃の出来事や読んだ本、観た映画などのことを書きつらねてみたいと思います。
あ、お仕事のこともすこし触れていきます。

(ホームページ http://www.noguchi-office.jp/)

相続なら江東区の司法書士 みどりの杜司法書士事務所(会社設立)

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