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ユリカモメの眼差し

隅田川に流れ込む堀割にかかる橋。
その欄干のうえで鳥が羽をやすめていました。

yurikamome1.jpg

ユリカモメだと思います。
古くは「都鳥」と呼ばれました。

由来は平安時代に遡ります。
はるばる都から東下りしてきた在原業平。
武蔵の国を流れる隅田川を渡ろうとします。
ふと気付くと、川面には、波に揺られて泳ぐ、白い鳥が。
船頭に聞くと、「まったく、田舎者はものを知らない」と言わんばかりに、「都鳥」という名を教えます。
業平はびっくり。なにしろ都でこんな鳥を見かけたことはないのだから。

なぜ「都鳥」なのか。
この武蔵の国に住む人たちは、おそらく一生、京の都になど行くことはありません。
その彼らが、都の空を飛ぶ美しい鳥をイメージに描き、都へのあこがれに重ね合わせている。
だから「都の鳥」、都鳥と呼んでいるのだ・・・
・・・とそこまで思ったかどうかはともかく、興に乗った業平は歌を詠みます。

名にしおはばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人は在りやなしやと

「都鳥」という名を持つのであれば、都のことはよく知っているのだろう。ならば教えてほしい。私の大切なあの人は無事でいるのかどうかを。

聞かれた都鳥も困ってしまうでしょうね。
愛する人の行方を問われているのに、つれない返事はできないだろうから。

画像のユリカモメも、心なしか思いに沈んでいるようにも見えます。
なぜか静かに瞑目しているようにも見えます。


すぐ近くには別のユリカモメがいました。
これはその画像。

yurikamome5.jpg

雰囲気からすると女の子ではないかと思います。
ガールフレンドなのかもしれません。
あるいはパートナーなのか。
悲しげな目をしています。
反面、どうにかしてパートナーを元気づけることを考えているようにも見えます。
明るく振るまわなければ、と心に決めて。

これは、数年前に松島で撮ったウミネコの画像。
ユリカモメとおなじ、カモメの仲間です。

yurikamome6.jpg

潮風に乗って羽ばたいて、気持ちよさそうですね。
ウミネコとユリカモメ、住む場所は違うけど、みんな一緒に羽ばたいて、思う存分、青空を飛ぶことができたらいいなと思います。


それでは。



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グスコーブドリの末裔

「ああ、これはもう噴火が近い。けさの地震が刺激したのだ。この山の北十キロのところにはサンムトリの市がある。今度爆発すれば、たぶん山は三分の一、北側をはねとばして、牛やテーブルぐらいの岩は熱い灰やガスといっしょに、どしどしサンムトリ市におちてくる。どうでも今のうちに、この海に向いたほうへボーリングを入れて傷口をこさえて、ガスを抜くか熔岩を出させるかしなければならない。」

宮沢賢治の『グスコーブドリの伝記』の一節です。



少年だったブドリの家族は、旱魃のために農作物が全滅し、生活がどん底に落ちてしまいます。
そのために両親を亡くし、妹とも生き別れになってしまったブドリ。
でも、ひとりぼっちになりながら、努力の末に、「イーハトーブ火山局」というところで働くようになります。
仕事の内容は、イーハトーブ中にある300以上の火山を調査・監視し、旱魃などを根絶するために制御・利用しようというもの。

冒頭の文章は、サンムトリという火山の想定外の噴火を前にした、火山局の技師の叫びです。

以下、ブドリと技師との会話がつづきます。

「局からすぐ工作隊を出すそうだ。工作隊といっても半分決死隊だ。私はいままでに、こんな危険に迫った仕事をしたことがない。」
「十日のうちにできるでしょうか。」
「きっとできる。装置には三日、サンムトリ市の発電所から電線を引いてくるには五日かかるな。」


必死の努力のすえに事なきを得る、サンムトリ火山。
イーハトーブに平和が戻り、ブドリも充実した日々を送ります。

しかし平和な月日はたちまち過ぎ、この地は、またもや脅威にさらされることに。
世界をめぐる気候変化からみて、確実に予想されるすさまじい冷害。
回避するためには、「カルボナード火山島」を爆発させ、噴き上がる炭酸ガスによって気温を上昇させるしかありません。

「先生、あれを今すぐ噴かせられないでしょうか。」
「それはできるだろう。けれども、その仕事に行ったもののうち、最後の一人はどうしても逃げられないのでね。」


それでも、ブドリは行きます。
かつてのブドリのような家族、両親が失われ、崩壊してしまう家族を生まないために。
すべての家族が、その冬を暖かい食べ物と明るい薪で暮らすことができるために。

それから三日の後、火山局の船が、カルボナード島へ急いで行きました。
そこへいくつものやぐらは建ち、電線は連結されました。
すっかりしたくができると、ブドリはみんなを船で帰してしまって、じぶんは一人、島に残りました。
そして次の日、イーハトーブの人たちは、青ぞらが緑いろに濁り、日や月が銅いろになったのを見ました。
けれどもそれから三、四日たちますと、気候はぐんぐん暖かくなってきて、その秋はほぼ普通の作柄になりました。


こどものころ、この部分の文章は、文字が滲んで見えて、読みにくくて困りました。
この作品が発表されてから八〇年。
いま、身を挺して、職務をまっとうされている人たちの姿があります。
しっかりと目に焼き付けておかなければと思います。


それでは。

仙台平野の屋敷林

仙台平野に、「イグネ」と呼ばれる木立群があります。
「居(住まい)」を守る「久根(生け垣)」で「イグネ」。
屋敷林のことです。
奥羽山脈から吹き下ろす強い風。
家屋をその風から守るため、そこに住む人たちが一本一本植えた樹木なのだそうです。

そうしたイグネのひとつを守り継ぎ、昔ながらの暮らしを営んでいる人たち。
今年一月、その生活を一年にわたり記録した番組が、「NHKBSアーカイブス名作選」として放映されました。
タイトルは、 『「イグネ」~仙台平野に浮かぶ緑の島』 。
「長喜城(ちょうきじょう)」と呼ばれる仙台市若林区の一画。
そこに住む、戸数23戸の人たちの、春夏秋冬の記録です。

ここでは、四季折々に木立の中で採れる胡桃や柿、栗やきのこが、住む人たちの食卓に恵みを与えてくれます。
木々は、家を建て直すときには建材として使われます。
樹木も落ち葉も枯れ枝も木の実も、すべて有効に利用されないものはありません。

人々は祖先をとても大切にしています。
イグネの中に咲く色鮮やかな花々をいっぱい抱えてのお墓参り。
家族みんながイグネと共に元気でいることを、ご先祖様たちに手を合わせて報告します。

そのほか、イグネでのさまざまな日常が紹介されます。
たとえば戸板に並べたたくさんの梅の実。
塩漬けにして天日に干せば、美味しい梅干しの出来上がり。
見ているうちに甘酸っぱいものが口の中に広がってきます。

樹木を守り、樹木に守られ、樹木とともに生きる人たち。
その生活の様子を見ていると、体の奥から「なつかしさ」を呼び覚まされる気がしてきます。

ぼくは東京下町での生活しか知りません。
なのになぜ「なつかしさ」を感じるのか。
たぶん、ぼくの中の遠い祖先の記憶が蘇るからなんでしょうね。
いま住む場所がどこであろうと、みんな「日本」というこの国に、この国の自然風土の中に住んでいることに違いはないのだから。


地震による津波が、東北地方の太平洋沿岸一帯を襲いました。
多くの命が奪われてしまいました。
いまだに行方のわからない人がどれだけおられるのかもわかりません。
津波は、仙台市若林区も襲いました。
長喜城地区がいまどのような状況なのか、それもわかりません。

生活に恵みや潤いを与えてくれていた自然風土が、3月11日午後2時46分、一転して牙を剥きました。
「自然」がときに怖ろしい形相を露わにする。
それは、「言葉」としては理解していたし、ある程度は「実感」としても知っていたつもりです。
でも今回は、限度を超えてしまっています。
これほどのパワーを人間に見せつける必要がどこにあったのか。
これからぼくたちはこの国の「自然風土」とどう折り合って生きていけばいいのか。

とはいえ、途方に暮れてばかりいるわけにはいきません。
自然の威力は存分に目の当たりにしました。
こんどは、人間が底力を見せる番です。
助け合い、ひとつにまとまり、力を合わせたときの人間の持つ、人間だけの力。

支援の輪が国内外で広がりつつあります。
「いま、自分に何ができるのか」を真剣に考えるひとりひとりの思いと行動。
その総和が、家族を喪い、家を奪われたすべての人たちを取り囲む「イグネ」となることを祈るばかりです。
被災された方々が、一日も早く平常な生活に戻られることを祈るばかりです。


それでは。

戸籍が語る戦争

ずいぶん前のことになります。
「妻子がおらずひとり暮らしをしていた兄が死んだ」という方から相談を受けました。
亡くなったのはAというご老人です。

この場合、まず「相続人の有無」を戸籍をたどって確認することになります。
Aさんには、確かに妻子はいませんでした。
正確にいうと、かつては「奥さんと二人の子ども」がおられました。
でももういません。すでに亡くなっていました。
ひとり暮らしをされているご老人の中には、こういう形で「ひとり暮らし」を余儀なくされているケースもあるんですね。

さて、戸籍の記載に再び注意を向けると、不思議な事実に気がつきました。
Aさんの奥さんは、子ども二人と同じ日に亡くなっています。
いったい何ごとが起こったのか。
母子3人が同時に死んでしまうような、どんな出来事があったというのか。

多角文字により手書きで戸籍に記された「死亡年月日」が、その答えを教えてくれました。
昭和20年3月10日。
焼夷弾を用いた大規模な戦略爆撃が東京を襲った日です。

その日、東京の深川地区や、いまぼくの事務所のある城東地区に300機を超えるB-29爆撃機が飛来し、夜空を埋めつくしました。
投下された焼夷弾は無数の火災を引き起こし、下町一帯は火の海に。

その業火に呑み込まれた命は10万人以上、と言われています。
Aさんの妻子の命も、その10万人の中に含まれてしまっていたんですね。

二人の男の子は、それぞれ5才と9才でした。
Aさんはそのとき、遠い戦地で、妻子との再会だけを心に描いて日々を過ごしていたのだろうと思います。
やっとのことで復員してみれば、東京は焼け野原。
妻子の消息を知るまでには、どのくらいの曲折があったのでしょうか。
また、消息を知ってからのちのAさんの人生は、どんな軌跡をたどったのか。
それがどのようなものであれ、時間だけは積み重なります。
そして迎えることになる最後のその日。
ひとりだけのAさんの部屋には、妻子の面影が満ちていたにちがいありません。

Aさんの戸籍は、さまざまなことを語りかけてくれました。
でも、ときに、「戸籍」それ自体が、口を封じられてしまうことも。

区役所から、戸籍について、「滅失証明書」というものが交付されることがあります。
通常、次のような文言が記されています。

「上記の者の除籍簿および○○法務局に保管中の副本は、昭和20年3月10日に戦災で焼失しました。このため再製することができないので、除籍の謄(抄)本は交付できません。」

命だけでは足りないで、戸籍までも奪ってしまう。
焼夷弾による絨緞爆撃は、あれもこれも根こそぎすべてを奪ってしまうようにみえます。
だけど、そうは問屋が卸さないぞ、とも思います。
奪おうとしても奪えないもの。
そういうものだってあります。

Aさん家族にとっての「3月10日」は、半世紀を経てようやく静かに幕を閉じました。
でも、すべての幕が閉じた、というわけではありません。
幕間はなんど繰り返そうと、まだまだ幕は閉じません。
毎年、「3月10日」は3月10日に訪れます。

それでは。

モネが見た光~『モネとジヴェルニーの画家たち』展

「ひかり」がなければ、ぼくたちは何も見ることができません。
では、「ひかり」そのものを見ることはできるのか。
そもそも、「ひかり」とは?

古い時代から物理学の対象として研究されてきた「光」。
光は「波動」であるという人がいて、光は「粒」であるという人も現れます。
量子物理学の研究が進み、「ああだこうだ」とかまびすしいその同じ頃、物理学者とは別の角度から「光の正体」にアプローチする人たちがいました。
印象派の画家たちです。
なかでもとりわけ「光り」に魅入られ、「光り」の追究にその生涯を費やした画家といえば・・・
日本でも人気の高い、巨匠クロード・モネです。

先月、渋谷Bunkamura ザ・ミュージアムで、 『モネとジヴェルニーの画家たち』展 を観てきました。

20110306140623898_0001.jpg

「ジヴェルニー」というのは、パリの北西約80キロのところにある村です。
80キロといえば、東京・小田原間ぐらいの距離にあたります。
風光明媚で気候も穏やかなその田舎村で、モネは後半生を送りました。

この村にモネを慕ってたくさんの芸術家が訪れ、創作に打ち込んだそうです。
なかでも多かったのがアメリカ人画家たち。
純粋フランス的田園風景に魅了された彼らは、モネの影響をさまざま受けながら、その才能を開花させていきました。

その作品の数々を、この展示ではたくさん観ることができました。
アメリカ人たちの目が見た「光」とモネの網膜がとらえた「光」。
どう違うのか、それとも違わないのか、などと思いながらの鑑賞です。

モネの作品は、18点、観ることができました。
ジヴェルニー近郊を描いたものが中心です。

この村は、東と西に開けた谷間にあります。
つまり、「日の出」と「日の入り」、両方の光りを見ることができます。
斜めに差し込むその光りがセーヌ川に舞う水蒸気を霧のように光らせます。
この光りを、モネはどのように「見た」のでしょう。
物理学者とは異なる、どういう「眼」で見たのか。

モネは、ジヴェルニーの自邸に、ひょうたん池を作ります。
その水面に浮かべた睡蓮を、憑かれたように描き続けたモネ。
光の正体が「波動」であれ「粒」であれ「エネルギー」であれ、水面を見ればそこに「すべて」は映し取られています。
太陽も、霧も、風も、青空も。
偏在するすべての「光」をあつめた池の面。
そこになにかの象徴であるかのような花を開かせる睡蓮。

飽くこともなく、倦むこともなく、どこかにある答えを求めてモネは睡蓮を見つめ続けました。
途方もない眼の酷使は、モネに白内障をもたらします。
その視覚障害に苦しみながら、なおも彼は睡蓮を見つづけました。

最初の妻のカミーユが32才で亡くなったとき、そのデスマスクを描きとめたモネは、後年、述懐しています。

・・・私はもはや動かなくなってしまった彼女の顔に死が加え続ける色の変化を機械的に写し取っている自分に気づいた。

『死の床のカミーユ・モネ』と題されるその作品を見ると、最晩年に描かれた睡蓮の絵に、どこか相通じるものがあるような気もします。

モネの盟友ともいうべきセザンヌが言っています。

モネは眼に過ぎない。しかし何という眼だろう!

モネは「ひかり」を見ることができたのか。
「ひかり」の奥の奥に、モネはなにを見たのか。
なにが見えたのか。
なにを見たかったのか。

答えに近づくことは、とってもむずかしいのかもしれません。
すくなくともモネと同じ信念を持って、同じぐらいまでに眼を酷使するのでなければ。


それでは。

プロフィール

JIRO

Author:JIRO
東京下町で開業する司法書士です。
司法書士とはなにをする人か?
・・・一言では説明が難しいです。
といって二言三言あれば説明できるわけではなし。

このブログでは、日頃の出来事や読んだ本、観た映画などのことを書きつらねてみたいと思います。
あ、お仕事のこともすこし触れていきます。

(ホームページ http://www.noguchi-office.jp/)

相続なら江東区の司法書士 みどりの杜司法書士事務所(会社設立)

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