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微笑むように白木蓮

3月中旬、春一番のころに膨らみ始めた木蓮のつぼみです。

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数日後、すこしずつ、予感と期待とがみなぎってきます。

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そして4月。
咲き誇るさくらをよそに、ゆっくりと微笑みを返すように開いていく花。

mokuren2.jpg

のんびりと悠々と、「咲くべきときがきたので咲いた」という感じですね。
与謝野晶子にこういう歌があります。

おほらかに此処を楽土とする如し 白木蓮の高き一もと

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差し交わす枝をシルエットに、夕日が沈んでいきます。
白木蓮と夕日と。
より名残を惜しんでいるのはどちらのほうなのでしょうか。

yuuhi4.jpg




スーちゃん、田中好子さんが亡くなりました。
悲しいこと辛いこと寂しいことがいくつも重なる春がもうすぐ終わります。


それでは。
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覚えられない数字たち

自分の携帯電話の番号が覚えられません。
そういえば、自宅の郵便番号もいまだにあやふやなまま。
「もとから覚える気がないから」という理由が、一応考えられます。
「記憶力が減退し、覚えたくても覚えられなくなっている」という可能性も。
どちらにしても、生まれつき「数字のセンス」に欠けている、ということは間違いがないみたいです。

一方、世の中には、「数字」に対して異常なほどの能力を先天的に有している人たちがいます。
映画 『レインマン』 で、ダスティン・ホフマンが演じるのがまさにそれ。
電話帳の番号や、カードゲームの数字をたちどころに記憶してしまう場面が描かれます。
ただ、この能力は、必ずしも彼に平らかな人生を約束するわけではありません。
だとしたら、「数字センスの欠如」を悲観するする必要もまた、ないのかもしれませんね。

「数字」ということについて、独特の感覚を持った有名人がいます。
大英帝国が生んだ名探偵、シャーロック・ホームズその人です。

シリーズ初期の作、 『ボヘミアの醜聞』 の中で、ホームズはベーカー街の部屋まであがってくる「階段の段数」をワトソン君にたずねます。

「何段?知らないねえ」
「そうだろうさ。心で見ていないからだ。眼でみているだけなら、ずいぶん見ているんだがねえ。
僕は17段あると、ちゃんと知っている。それは僕がこの眼で見て、そして心で見ているからだ。」


さすがはホームズ。
・・・といいたいところだけれど、「心で見ている」という説明は、いまひとつ漠然としてますね。
本当のところ、なんでホームズは、毎日使う階段の段数までをぴたりと言い当てることができたのか。

「ワトソン君を驚かせ、自慢してみせたかったので、あらかじめ数えておいたのでは」という疑問がまず浮かびます。
「茶目っ気たっぷり」で人間味溢れるホームズ像。
どことなく親しみも感じられて愉快です。
反面、正義感が強くて誠実な人柄、という印象を損なうところもあるから、シャーロキアンの人には不評を買いそう。

となるとやっぱり「心で見ている」という説明に納得するしかありません。
心で見る、すなわち「心眼」です。
「無意識のうちに対象を把握する境地」ということになるのでしょうか。

「心眼」といって思い出すのは、剣聖・宮本武蔵。
肉眼(「見の目」)に頼ることなく、心眼(「観の目」)でものを見ることを説いています。

ホームズと武蔵。
共通するものがあるとはとても思えない二人ですね。
でも、ともに「求道的な精神」の持ち主であった、とは言えるのかもしれません。
日頃、上り下りする境内の石段の段数を尋ねたら、武蔵もきっと即答したのではないかと思います。

これは、ぼくが通勤に利用する地下鉄の階段です。

mokuren5.jpg

節電の影響でエスカレーターが停止されてしまい、毎朝、駆け上がっています。
電力不足が解消するころには、かなり足腰が鍛えられていることでしょう。

ところでこの階段、地上までは全部で「84段」。
駆け上がりながら、カウントしたのでまちがいありません。

84段を一段ずつ上れば、まちがいなく地上の出口にたどりつける。
出口にたどりつけば、朝のひかりが出迎えてくれる。
修行を積んだ「心眼」も特別な「能力」も必要はない。
一歩ずつ上れば、かならず朝日が包んでくれる。
そう思うと、なんだかうれしかったりします。

ただすこし残念なのは・・・
せっかく「84段」という「数字」を覚えたのに、驚かせて自慢ができるワトソン君が身近にいないこと。


それでは。

桜が包む歩道橋

「願わくば花のもとにて春 死なむ」と詠んだ西行。
実際に亡くなったのは、3月30日ごろのことだったそうです。
西行は、桜を生涯、愛し続けました。
願いは聞き届けられた、ということなんでしょうか。

大勢で飲んで歌って群れ騒ぐ「お花見」。
西行が苦々しげに詠んだ歌があります。

花見にと群れつつ人の来るのみぞ 
   あたら桜の科(とが)にはありける


花見に押し寄せる人の群れを嘆いて、それもみんな花が美しいせいだ、と桜を咎めています。
やつあたりと言えなくもないようなこの嘆き。
花と「愛する女性」とを重ね合わせているのかもしれないですね。

これほどまでに愛した桜の花とは、西行にとっていったいなんだったのか。

白洲正子著『西行』(新潮文庫)によると、「桜を詠む」ことは、彼にとって「信仰の証し」だったのでは、と書かれています。



桜との触れ合いの中で、いつしかそれは「わが身を救う神聖な花と化した」。
西行の生涯を丹念にたどり、西行に寄り添うようにして書かれた記述には、推量を超えた説得力があります。

何事のおはしますをば知らねども 
   かたじけなさの涙こぼるる


西行の作と信じられてきている歌です。

桜が咲いて散るのを眺めるとき、これに似た感慨が胸を去来する人も多いのではないでしょうか。

これは、事務所近くの幹線道路を跨ぐ歩道橋の画像です。

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歩道橋を包みこむようにして咲く桜。
場所は、都内でも有数の交通量を誇る交差点です。
桜にとって「恵まれた環境」であるとは、お世辞にも言えません。
人間世界が吐き出し続ける排気ガスを、昼夜、絶えることなく浴び続けているはず。
それなのに、毎年、「何事もなかった」ような顔をして花を咲かせ続けています。

sakura4.jpg

歩道橋を渡って花を見上げるとき、ほっとするような、どこか申し訳がないような、とらえどころのない気持ちに襲われます。
ひょっとすると、西行がいう「かたじけない」という気持ちに近いのかもしれません。

これは、近くの公園にさりげなく咲いている桜。

sakura1.jpg

切株から芽が出ているというわけではないから、「ひこばえ」とは違うのでしょうね。
でも、なんだか初々しい感じがあふれていて、心が惹かれます。

これは、その二日後の画像。

sakura2.jpg

大地からしっかりと養分を吸い上げて、いま、地上世界との初対面を果たしました。
自立の一歩を踏み出しました。
西行が愛した吉野の山の桜にも、心意気では負けません。
来年、そして再来年。
どんどん枝を伸ばしていって、青空の下、晴れやかに咲き満ちてほしいです。


それでは。

黄水仙・野水仙

まだ朝の寒いとき、花が開き始めたばかりの水仙です。

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何か戸惑っているみたいに見えます。
ざわざわとしてただならぬ、春の気配のせいでしょうか。

水仙の学名は、「Narcissus」(ナルキッソス)。
ナルシシズム(自己愛)ということばを生んだギリシャ神話に由来するとのこと。
水面に映る自分の姿しか愛せないままに死んでしまったナルキッソス。
そのかたわらに、その死を悼むかのように咲いたのがこの黄色の花だったそうです。
案外、芯が強く、自分自身を貫き通す花なのかもしれないですね。

明治生まれの俳人・松本たかしに、こういう句があります。

水仙や古鏡のごとく花をかかぐ

古鏡(こきょう)という言葉からは、たとえば「姫鏡台」の円い鏡がイメージされます。
咲いたその花は、春のひかりをいったん集め、集めたものを見る人にやわらかく照り返す。
そこには、水仙の、水仙としての「矜恃」があるのではないかなと思います。

これは、最近、両国駅周辺の公園で見かけた野水仙。
片隅に、なぜかひとつだけひっそりと咲いていました。

yurikamome2.jpg

茎が付け根で痛んでいて、花をかかげていることがいかにも辛そうです。
「古鏡」の奥にぼんやりと映っているのは、齢(よわい)を重ね、やつれた老妓。
ひとり淋しくぽつねんと坐っているようにも見えます。

でも、正面からきちんと見てみると・・・

yurikamome4.jpg

まだまだ、ぜんぜん衰えたりしていませんでした。
さすがに野水仙。たくましくてとてもきれいだなと思いました。
まさしく「古鏡のごとく」花をかかげています。
かかげた花に春のひかりを集めています。
茎を春の風にそよがせています。

春のひかりは、降りそそぐことを惜しんだりはしません。
春の風もそよぐことをためらったりはしません。
水仙がひとりぼっち、なんて考えるのがそもそも思い違いだったみたいです。
みんなどこかでつながって、みんなが一緒なんですね。


それでは。

こだまでしょうか、いいえ誰でも。  

大量に放送され続けているACジャパンのCM。
背景には、大人の事情がからみあって、ということがあるようです。
事情はどうあれ、思わぬかたちで金子みすゞさんのことばと共に過ごす毎日でした。
「こだまでしょうか、いいえ誰でも。」
シンプルな言い回しが、胸の奥まですとんと届く。
やっぱりみすゞさんはすばらしいな、と思います。

2月に、日本橋三越で開催された『金子みすゞ展』に行って来ました。

kisuisen2.jpg

展示では、新発見されたという、みすゞ17才のときに撮影された家族写真を見ることができました。
初々しくてあどけないみすゞさんが「気をつけ」の姿勢で佇んでいます。
このとき着ている、縦縞の着物。
驚いたことに、その着物の端切れもあわせて展示されてしました。
90年前といまこの「瞬間」とが、一枚の布切れによってひとつながりにつながっているようにも思えました。

展示の後半では、さまざまなジャンルで活躍をする人たちによって、それぞれいちばん好きな詩が手書きのコメントを添えて紹介されます。
60人を超える人たちの、みすゞさんを慕う気持ちが込められたパネルの数々。
こんなにも多方面の人たちにいまなお愛され続けている。
どのパネルからも、その熱い思いがひしひしと感じられました。

ひとつだけといわれたとき、自分だったらどの詩を選ぶだろう。
そんなことを考えながら買ったポストカードの中の一枚がこれです。

minna.jpg

「みんなちがって、みんないい」

いまや広く知られた一節ですね。
ぬくもりがそのまま伝わるような手書きの文字。
見ても見飽きません。

この展示で、印象に残った詩をもうひとつ。
「わらい」という題名の、この詩です。

わらい

それはきれいな薔薇いろで、
芥子粒よりかちいさくて、
こぼれて土に落ちたとき、
ぱっと花火がはじけるように、
大きな花がひらくのよ。

もしも泪がこぼれるように、
こんな笑いがこぼれたら、
どんなに、どんなに、きれいでしょう。


ときにさびしく、ときに悲しく、折々の気持ちをありのままに歌にすることもあったみすゞさん。
地方の因襲にがんじがらめにされ、辛い思いを抱えざるをえないこともありました。
そんなときにも、そしてそれだからこそ、明るく「笑(え)まう」ことを心の底から求めつづけていたのだろうと思います。



それでは。


プロフィール

JIRO

Author:JIRO
東京下町で開業する司法書士です。
司法書士とはなにをする人か?
・・・一言では説明が難しいです。
といって二言三言あれば説明できるわけではなし。

このブログでは、日頃の出来事や読んだ本、観た映画などのことを書きつらねてみたいと思います。
あ、お仕事のこともすこし触れていきます。

(ホームページ http://www.noguchi-office.jp/)

相続なら江東区の司法書士 みどりの杜司法書士事務所(会社設立)

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