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見落としてしまっているものは?

前回の続きをもうすこし。

風の吹く音が鳴り止まない夜に、きまって思い出す映画があります。
1964年公開、ジュリー・アンドリュース主演の 『メリー・ポピンズ』 です。

楽しいナンバーが目白押しのこのミュージカル映画の中で、とりわけ好きなシーンがあります。
セントポール寺院の前で「ハトの餌」を売るおばあさんを、ジュリー・アンドリュースが情感豊かに歌い上げ歌る、 「2ペンスを鳩に」 という曲です。

ハトを慈しめばあなたの心も豊かになる
巣で待つひなは空腹でかよわい
2ペンスでハトの幸せを与えて
一袋2ペンス たったの2ペンス


メリー・ポピンズは、風に乗って降りてきた家庭教師。
教える子どもたちの父親は銀行の役員です。
仕事一筋で脇目もふらず、子どもたちと一緒に遊ぶ楽しさも忘れています。

彼は、銀行へ行く途中、毎日、セントポール寺院の前を通っていてこの「おばあさん」を見ていました。
「見ていた」はずなのに、じつはそこに「おばあさん」がいることにさえ気づいていなかった。
その代わりに彼が毎日「見ていた」ものは、いったい何だったのでしょうか。

いま眼の前にある大切なもの。
手の触れるところにいるかけがえのない人。
父親は、いちばん大切なものを見落としてしまっていたことにようやく気がつきます。
自分自身を取り戻し、子どもたちへの愛情を取り戻します。

見えないものが見えるようになる。
そのためには、なにか「きっかけ」が必要です。
おおげさなことではなく、ほんのささやかなこと。
たとえば「一袋2ペンス たったの2ペンス」の歌声のような。

この映画は、20世紀初頭、エドワード朝の頃のイギリスを背景に描かれています。
ハトの棲む世界と人間社会との「垣根」が、いまよりずっと低かった時代のお話。
「ハト害」という言葉もなく、「合成の誤謬」のような用語も考え方も一般的ではなかった、牧歌的な時代だったのでしょう。

いっぽう、21世紀の現在、都市部でのハトと人間の関係は抜き差しならないところまで来てしまっています。
もっとも、かりかりしているのは人間だけ。
ハトのほうはといえば、何を見ているのか見ていないのか、人の心も知らぬげに、今日もただ「ぽっぽぽっぽ」とのんきにくつろいでいるのでした。

それでは。
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ハトに「餌をやる」ということ

駅前で、「二、三羽のハトに餌を投げ与えているおじさん」をみかけました。
袋に入った、パン屑のような餌。
日頃、粗食に耐えているハトにとっては、思わぬご馳走だったのでは。

とはいえ、ハトへの「餌やり」という行為、一般的にあまり歓迎されていません。
たくさんのハトが集まってしまい、いわゆる「ハト害」を呼び込んでしまうからです。
一羽二羽では罪のないハト。
でも数が集まればカラスと並んで、「住まいを脅かす2大害鳥」となってしまいます。
一人の人が一羽のハトに「餌やり」することに他意がなかったとしても、大勢の人が一斉に同じことをすれば、たちまち住民生活に被害が及んでしまう。
日々悩まされ、精神的にまいってしまうほどのダメージを受けてしまう人もいる。
むずかしいものですね。

「合成の誤謬(ごびゅう)」という言葉があります。
ミクロの視点では正しいことでも、それが合成されたマクロの世界では、かならずしも正しいとは限らないことをいう、経済学の用語です。

たとえば貯金に励むこと。
ミクロの視点でいえば正しいことでしょう。
すくなくとも、「自分のお金」である限り、人から後ろ指を指されるようなことはないはずです。「へそくり」は「悪」ではないのです。
ところが、日本中の人がいっせいに貯金に励み、お金を使わなくなってしまうと・・
たちまち世の中は不況になってしまう。
こういう状況のことを指していう言葉が「合成の誤謬」です。

ということで、ハトへ「餌やり」するということも、あるいは道端のノラ猫に「カニかまぼこ」や「ミルク」を与えたりすることも、マクロの世界では「誤謬」、すなわち「間違っている」と言われることに。
マクロの世界を支配しているのが「人間」である以上、この理路が崩れることはなさそうです。
ハトやノラ猫には、自ら活路を見出してもらうしかないのかもしれません。

それでは。

岡本太郎:生誕百年

諏訪大社の「御柱祭」をテーマにしたTV番組を観ました(NHK「新日本風土記」)。
6年に1度、諏訪中の男たちが命をかけるというこの祭り。
この中で、あの岡本太郎がこの「御柱祭」に魅せられていたということを知りました。
番組では太郎の言葉が引用されています。

御柱祭は縄文人が満ち満ちている。

弥生人とは対照的な、縄文人の「激情」。
そのインパクトが 「芸術は爆発だ」 のフレーズにつながっていったのでしょうか。

今年は岡本太郎生誕100年です。

先月、竹橋の東京国立近代美術館で 「岡本太郎展」 を観てきました。
東京法務局に近いので、仕事のついでにふらりと寄り道。
平日の午後なのに、熱心なファンと思われる人たちでいっぱいです。

時系列で展示された作品からは、「岡本太郎」という人の歴史が見えてきます。
時代とともに変遷したものと、移ろうことなく貫いているもの。
太郎の中に眠る「異様なパワー」を呼び覚ましたのは、縄文時代に作られた「火焔土器」との出会いだったとのこと。
体内でざわめく「縄文人の血」が、またたく間に燎原の火となって燃えさかっていく、そんな様子がよくわかる展示でした。

先日、渋谷パルコでは、 「岡本太郎生誕100年企画展:顔は宇宙だ」という展示を観ることもできました。

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ここでの展示は撮影フリー。
展示物は少なかったけど、好きなだけ画像を撮ることができます。

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なんだか見ているだけでほかほかと楽しくなってきます。

古代人の呪術祭具のようなオブジェも。

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色彩がとても鮮やかです。
フォルムの中に、「童心」とか「遊び心」というようなものも同居しているように思えます。

これは、「坐ることを拒否する椅子」という椅子。

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岡本太郎曰く、

あのお尻の雛形のような、いかにも坐ってちょうだいと媚態をつくっている不潔さが嫌いだ。そこで逆に精神的にも、肉体的にも人間と「対等づら」するものをつくった。生活の中の創造的な笑いである。

でも、実際に坐ってみると、座り心地は悪くありません。
「拒否」されていても人間は平気で坐ります。
この「あつかましさ」を拒否するには、この椅子、まだまだ人がよすぎる顔をしていますね。

これは、有名な、「グラスの中に顔があってもいいじゃないか」のフレーズを商品化したペアのグラスです。

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その昔、万葉集の時代。
グラスの底に恋の歌を書き付けた女性がいました。

思い遣るすべの知らねば片垸(かたもひ)の底にぞ吾は恋ひなりにける

「片垸」とは、楽焼きのような茶碗のこと。
恋をした相手にプレゼントしたその茶碗の底に込められた思い。
あふれる思いがあれば、なにがどこにあってもいいじゃないか。
岡本太郎だったら、そう言ったかもしれないですね。

これは、「豊饒の神話」とタイトルのついた作品です。
メキシコのホテルから高さ9メートル、幅60メートルの壁画の大作を依頼されたのに、ホテルは倒産。
けっきょく、この原画だけが残ったものであるとのこと。

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その左端には、こんなものが描かれています。
アリの親子のようですね。
うきうきと、ピクニックにでも行く途中のようにも見えます。

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ところがアリの行く手に待ちかまえているのがこの緑色の猫。
ちょっとご機嫌斜めみたいです。
アリの家族に八つ当たりなどしなければいいのだけど。

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ささやかな喜びや得体の知れない怒りや、さまざまな感情が渦巻く大地。
太陽が光を浴びせかけるその渾沌の中から生まれるものこそ、「豊饒な世界」の神話なのかもしれません。


さて、「雷人」というタイトルのこの絵。
太郎の養女であり、生涯のパートナーであった岡本敏子の証言により、岡本太郎の絶筆であることが判明している作品なのだそうです。

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「超新星」というイメージが一瞬、浮かびます。
恒星がその一生を終えるときに起こす大規模な爆発現象のことをいう「超新星」。

数々の岡本太郎語録の中に、こんな言葉があります。

死を怖れて尻込みしていても、それは意味がない。”死”と”生”とはいつでも対面しているものなんだ。むしろ、恐怖と面と向かい、”死”と対決しなければ、強烈な生命感はわきおこってこない。

煮えたぎる縄文人の血。
それは、岡本太郎という人の体内で、ついに鎮まることがなかった。
そんな気がします。

それでは。

いずれがアヤメか花ショウブ

梅雨の晴れ間の一日。
東京・葛飾区にある堀切菖蒲園に行って来ました。
7700平方メートルの敷地に、200種以上の花ショウブが咲き乱れています。

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花ショウブは、アヤメ、カキツバタとよく似ています。
見分けるポイントは、それぞれの花びらにあります。
網目のような模様のあるアヤメ、白くすっきりした線が目印になるカキツバタ、そしてつけねが黄色く色づいている花ショウブ。

こうしてみると、たしかに、つけねの黄色いことがわかります。

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以前、NHKの「美の壺」という番組が、花ショウブ鑑賞の「壺」を紹介していました。

まず最初のポイントは、 「雌しべ(芯)が立ち上がる姿を見よ」 。

ショウブは、「尚武」に通じることから、江戸時代、武士階級に愛されました。
武士たちは、ショウブの雌しべ(芯)がすっくと立つその姿に、自らの精神のありようを重ね合わせたとのこと。

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花を見て心を和ませるのではなく、花を前にして一心に研ぎ澄ます。
昔の武士のもののふたちは、なにかにつけて大変だったんですね。

二つめの鑑賞ポイントは、 「微妙な濃淡が作る紫を味わう」 

梅雨どきに咲く花ショウブは、夏に咲く花のように、原色を際だたせたりはしません。
どんよりとした雲の下でも美しく映える色を輝かせます。
さまざまなグラデュエーションを見せる「紫」が、とてもあざやかですね。

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さて、三つめ、最後の鑑賞ポイントは、 「配置が魅せる群生の美」 。

菖蒲園では、多彩な色を強調し、より華やかに見せるために、あえて品種を散らして植えるのだ、とのこと。
白や薄紫の花びらに混じり合う濃紫。
真夏に比べてまだまだ彩度の低い青空のした、気品という言葉を思わせるような小世界が拡がります。
花々が戯れ合っているようにも見えます。

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この画像では、花ショウブが奏でる饗宴に、ピンクのサツキがハーモニーを添えています。
斜めによぎるのは、花を終えたあとの梅の木。

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ところでこの構図、どこかで見たような・・・
思い出しました。
歌川広重の浮世絵、「名所江戸百景・亀戸梅屋舗」。

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・・・あんまり似ていなかったですね。
大変失礼致しました。


それでは。

観覧車は苦手です

前回の続きです。

子どものころは、観覧車が大好きでした。
遊園地の思い出といえば、いつも鮮明によみがえる観覧車。
ところが、さかのぼること10年前・・・・
箱がゆっくりとてっぺんに向かっている最中、急に息苦しくなってしまいました。
突発的に「狭くて高いところ」が苦手になった瞬間です。
飛び出したいのに飛び出せない。
そんな圧迫感にいたたまれなくなってしまったんでしょうね。

以来、観覧車に乗ったことはありません。
ぼくが乗らなくても、ひたすら回り続ける観覧車。
回り続けていても、ことさら乗る必要には迫られないので、日々、平らかな気持ちで過ごしています。
もっとも顧客との打ち合わせ場所に「観覧車の中」を指定されたりするととても困ります。
幸い、そういうお客は今のところ、あらわれません。やれやれです。
まあ、普通、観覧車に乗って「大事なお話」はしませんもんね。

ところが・・・
「観覧車」の箱の中で男二人がのっぴきならないやりとりをする映画があります。
キャロル・リード監督『第三の男』がそれ。
ひとりは死んだはずの男ハリー・ライム、もうひとりはその友人。



この場面では、ハリーを演じるオーソン・ウェルズが有名な台詞を残します。
曰く、

「ボルジア家の圧政はルネッサンスを生んだ。しかしスイスの500年の平和は何を生んだ?鳩時計だけだ」

オーソン・ウェルズは、この台詞ひとつのために世界中の鳩時計屋さんから目の敵にされることになりました。
たぶん。

さて、鳩時計の中には、閉じこめられた鳩がひそんでいます。
定時になると飛び出してきて時を告げる、囚われの鳩。
虜囚の身のストレスを解放するかのように時を告げ、役目を終えると、またおとなしく元の箱の中に戻っていく「機械仕掛け」の鳩。
なんだかとてもけなげではないですか。

さて、人類初の人工衛星として地球を「飛び出した」のは「スプートニク1号」でした。
このロケットの名を借りてタイトルにした小説があります。
村上春樹の長編小説、『スプートニクの恋人』です。
タイトルとはうらはらに、どこへも「飛び出す」ことができずにたゆたう恋人たち。

この物語では、夜の観覧車に閉じこめられてしまう女性が描かれます。
飛び出すこともできずに閉じこめられてしまったため、見るはずのなかった「もう一人の自分」を見ることになる、「ミュウ」という名のその女性。

主人公の「ぼく」が恋してしまう「すみれ」という名の女の子が、強い恋心を抱いてしまう年上の女性です。
ちょっとややこしい関係です。
その彼女が、「観覧車」から「この世界」の外へ、飛び出すためには・・・
生霊となって身体から遊離するしかなかったようにも思えてしまいました。

いっぽう、「すみれ」のほうは、唐突に「この世界」から消失してしまいます。
彼女はなぜ、箱から飛び出すことを選んだのか。
「高くて狭いところ」の息苦しさが臨界を超えたからなのか。
あるいはもっと別の理由があったのか。
どうやって、そしてどこへ、飛び出していったのか。

「飛び出す」ことのできない者には、疑問だけが累々と残ります。
答えを知るには「すみれ」からの電話を待つしかありません。
「迎えにきてほしい」という声を聞くまで待つしかありません。

でも、迎えに行くのが「観覧車の中」だったらどうしよう。
まあ、そのときはまたそのときの話ですね。


それでは。


「一日」という字をどう読むか

きょうは六月一日です。
「一日」と書いて「いっぴ」と読む。
社会人になると最初に覚え込まされることのひとつですね。
なんで「いっぴ」なのか。
正確な「伝達」を目的として生み出されて定着した用語のようです。
なにか変な言葉だな、とは思いつつ、「そういうものなのだ」とすぐになじんでしまいました。
独特の符牒を使う「社会人」というサークルに、自分もまぎれこむことができたような安心感、満足感に包まれて。

さて、「一日」は、また「ひとひ」と読ませることもあります。
たとえば歌人・栗木京子さんの、こんな歌。

観覧車回れよ回れ想ひ出は
     君には一日我には一生


「一生」も、ここでは「ひとよ」と読みます。
恋愛はふたりの「時間」をかぎりなく相対化してしまう。
二十四時間の出来事が、「一生」に該当すると思われるほど・・

この歌、「君にはいっぴ」と読んでしまうと、歌の中の大切なものがこわれてしまいます。
摩擦音pの前で一拍分だけ息を止めて発音する「いっぴ」。
促音特有の前へつんのめっていくような性急さは、「恋愛」と相性がよくないのかもしれません。
これに対して、「o音」を「h音」が上下から挟む「ひとひ」という言葉は、耳にやわらかく響きますね。

いっぴ、ひとひ、ついたち、いちにち。
瞬時に状況を把握し、適確に使い分ける。
日本語って、むずかしいけどおもしろいなと思います。
おもしろいけどむずかしいなとも思います。

それでは。

プロフィール

JIRO

Author:JIRO
東京下町で開業する司法書士です。
司法書士とはなにをする人か?
・・・一言では説明が難しいです。
といって二言三言あれば説明できるわけではなし。

このブログでは、日頃の出来事や読んだ本、観た映画などのことを書きつらねてみたいと思います。
あ、お仕事のこともすこし触れていきます。

(ホームページ http://www.noguchi-office.jp/)

相続なら江東区の司法書士 みどりの杜司法書士事務所(会社設立)

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