FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

光の速度を超えるとき

先日の同窓会でつくづく思ったのは、出席する100人のうち、100人が抱くような感想でした。

光陰矢のごとし。

そういえば、この一節を漢文の授業で教わったのも、高校のI先生からだったのを思い出します。

少年老い易く学成り難し。
一寸の光陰軽んずべからず。

うんうん、まったくそのとおり、と、いまさらながら、深くうなずいてしまいます。

「光陰」というのは、「歳月」、つまり「時間」のこと。
昔の人は、「時間」と「光」との間に深い関係があることを、はやばやと見抜いていたのかもしれません。

では、その「光」の速さはどのくらいのものなのか。
「矢」よりも速いことは確かだとしても、正確にはどうなっているのか。
最初に計った人は大変だったと思います。
なにしろ、目にもとまらないぐらいに速いんだから。

計測の方法を最初に提案したのは、かのガリレオ・ガリレイだったとのこと。
以下、サイモン・シン著 『宇宙創成』(新潮文庫)からの抜粋です。

「二人の観測者がそれぞれランプと遮光器を持ち、ある距離だけ離れて立つ。第一の観測者が第二の観測者に向かって光の信号を送り、第二の観測者はそれを受信するとすぐに信号を送り返す。第一の観測者が送信から受信までにかかった時間を計れば、光の速度が推定できる。」

いかにも「家内制手工業」の時代の香り漂う方法ですね。
それでも、この観測によって、「光の速度は、時速一万キロメートルから無限大までのどれかの値である」という結果は得られたそうです。

その後、人類は進歩し、観測方法も一段と進化し、今では、光の速度はおよそ秒速30万キロメートルであることがわかっています。
やっぱり、どう考えても、「矢」よりはずっと速かったわけですね。

光には「速度」がある。
そう考えると、ふと不思議に思うことがあります。
毎朝、向き合う、洗面台の鏡。
そこにはじぶんの顔が映ります。
でも、鏡に映る「じぶん」というのは、「今のじぶん」ではありません。
なぜなら、「じぶんの顔」から出た光が鏡に到着し、鏡に反射されて戻ってきて「じぶんの網膜」に映るまでには、一瞬とはいえ、時間の経過があるはずだから。

ええと、たしか小学校高学年で教わった知識によれば・・・

速さ×時間=距離 

でした。

ということは、こうなります。

時間=距離÷速さ

いま、「じぶん」から「鏡」までの距離を50センチとします。
つまり往復で1メートル。
時速はおよそ秒速30万キロメートルだから、これを代入すると・・・

時間=1メートル÷秒速30万キロメートル

この時間分だけ、過去の「じぶん」と対峙していることになる。

・・・はずですよね。
だとすると、ぼくはじぶんの「いまの顔」を、一生の間、見ることができません。
でも、それはぼくだけに当てはまることではありません。
すべての人間は「いまのじぶんの顔」を見てはいけないことに決められているのかも。
その禁忌を犯して見てしまった人間は・・・
いったいどうなってしまうのか。
ちょっと想像するのが怖かったりします。

先日の新聞に、「光より速い素粒子観測」という見出しが躍りました。
アインシュタインの相対性理論を修正する必要があるかもしれないような実験結果が得られたのだとのこと。

「相対性理論」のことについては、あまりよくわかりません。
見栄を張らずに言えば、ぜんぜんわかりません。
以下、新聞記事からの受け売りです。

ものが速く動くほど「時間」の進み方は遅くなります。(なのだそうです。)
そうして、光速では進み方はゼロになります。(なのだそうです。)
さらに光速を超えると、時間の進み方は逆になり、時間を遡ってしまうことになります。(なのだそうです。)
でも、このような現象はありえない。
したがって、結論はひとつ。

「光速を超えるものはない。」

この大前提が、いま、揺さぶられようとしているんですね。
今回の実験結果は、まだまだ検証のための時間が必要なようです。
どんな成り行きになるのか、気になります。

成り行き如何によっては・・・
ひょとしたら、鏡の中に、「今のじぶんの顔」を見ることも、不可能ではないのかもしれません。
そればかりか、「過去のじぶんの顔」を見ることも・・・
まあ、そういうものはあんまり見たいとも思いませんけれど。

少年老い易く学成り難し、です。


それでは。


スポンサーサイト

台風の小さな爪痕

大きな爪痕を残して、台風が列島を駆け抜けて行きました。
幸い自宅近辺で土砂崩れの心配はありません。
また冠水の被害もなく、どうにか一夜が明けました。

今朝、家を出ると、「大きい」とは言えないまでも、ごく小さな爪痕があちこちに。

台風1

自宅近くの、ヤマボウシの樹です。

ほかの街路樹はみな無事なのに、なぜかこの一本だけ横倒しでした。
根っこまで剥き出して。
ハナミズキに似た白い花を咲かせているときの姿です。

台風5

二ヶ月の後に訪れる運命なんて知るよしもなく、ただ咲き誇っています。

これは、児童公園での光景。

台風2

プロペラ機が墜落した・・・・
というわけではありません。
公園に備え付けられていた「ミニ風力発電」の先端が折れて落ちたものです。
「柳に風」と受け流すには、あまりにも強烈な瞬間風速だったんでしょうね。
首を斬られたように散ってしまう落椿の花の無惨さが思われます。


そして、台風一過の、東京の秋空です。

台風4

ビルの谷からは、スカイツリーの尖端が見えます。
どうやら昨夜の強風にもびくともしなかったみたい。
きっと、100年の後にも、同じ姿のまま立っていることと思います。
そのことがすこしばかり心強く思える朝でした。


それでは。



仰げば尊しわが師の恩

きのうは、高校の同窓会でした。
じぶんにもたしかに存在した、16才、17才、18才のころ。
そのことがさまざま思い出されるひとときでした。

「同窓生」というのは、同じ箱舟に乗り合わせた仲間だ、ということを実感します。
かって同じ学舎(まなびや)で三年間を過ごした、という、ただそれだけなのに・・・

舟は、着実にすこしずつ、前へと進んで行きます。
あとに戻ったりすることはありません。
でも、舟の中では、時間の流れは自在です。
空間だって歪んでしまいます。

高校の三年間、ぼく自身はかなり地味で目立たないタイプでした。
エピソードにも乏しくて、「語るに足る」ほどのことはほとんどありません。
ただ、それでも、ひとつ、忘れがたい出来事があります。
S先生に思い切り頭を叩かれたこと。
手にした黒い出欠簿で。
思わず体がぐらりと傾くほど強烈に。

ちょっとした悪さを見とがめられた、という状況だったので、仕方がありません。
ただ、なにしろ「悪さ」の程度に比べ、目から星が飛び散るほどの一撃です。
「量刑不当」だったのでは、と、ずっと思いつづけてきました。

S先生は、朴訥な印象の、温顔、温厚な方でした。
個人面談のときのやりとりを思い出します。

「なんでもいいから、とにかく本をたくさん読みなさい。」
「・・・でも、何を読んだらいいんですか?」
「なんでもいいんだ。本なんて、本屋に行けばたくさん並んでいるだろう。」

・・たしかに、本屋さんに行けば、「売るほど」本は置いてあります。
思えば、これ以上は望めないほど的確なアドバイスでした。


当時のS先生の齢(よわい)に近づくに連れて、あのときの「量刑」の意味がなんとなくわかってきたような気がします。
あの「一撃」には、あれだけの「強烈さ」が必要だった。
目から星を飛び散らせることが必要だった。
そのことがわかってきたような気がします。

もしお会いすることができれば、ぜひともお訊ねしてみたかったのに・・・
お話することのできない場所に行ってしまわれたんですね。

でも、ひょっとしてお会いする機会があったとしたら。
そして、「あのとき」のことをお訊ねすることができていたとしたら。
案外、別の種明かしを聞かせてもらえたかもしれません。

「そういえば、あの日。前の晩に家内とけんかしてむしゃくしゃしていたんだ。腹の虫が治まらないときに、ちょうど手頃な頭が眼の前にあったから、思わず出欠簿で・・・」

ぼくの頭がお役に立ったのなら、それはそれでやっぱりうれしいです。
「仰げば尊しわが師の恩」です。


それでは。







遺言で「散骨」を。

遺言書に、じぶんの死後、「散骨」をしてほしいという希望を記載できるのか。
そもそも「散骨」は、法律に違反しないのか。
そういうご相談を受けることがあります。

散骨については、1997年に石原慎太郎・現都知事が、弟・石原裕次郎の遺骨の一部を湘南の海に散骨したいと希望したことがありました。
ただ、当時は、その可否について、法的にあいまいなものがあったようです。

そこで、 「墓地、埋葬等に関する法律」 を調べると、つぎのように規定されています。
そもそも「埋葬」とはなにか、ということについては・・・

第二条  この法律で「埋葬」とは、死体(妊娠四箇月以上の死胎を含む。以下同じ。)を土中に葬ることをいう。

カッコ内に書かれている「妊娠四箇月以上の死胎」という表現。
なんとも「ざわり」とした文言です。
でも、条文とはこういうもの。
「さらり」と読めるようにならなければいけないものなのです。

いずれにしても、「土中」に葬ることが「埋葬」であることはわかりました。
では、「土中」であればどこでもいいのかといえば、そういうわけにはいきません。

第四条  埋葬又は焼骨の埋蔵は、墓地以外の区域に、これを行ってはならない。
 
「埋葬」は、墓地でなされなければならず、違反した場合には、罰則(罰金又は拘留若しくは科料)が定めれています。
このように、この法律では、「埋葬」を選ぶ場合について、規制を課しています。
でも、「散骨」を直接に否定する規定はありません。

いっぽう、刑法には、こんな条文があります。

第一九〇条 死体、遺骨、遺髪又は棺に納めてある物を損壊し、遺棄し、又は領得した者は、三年以下の懲役に処する。

この文言を形式的に適用すれば、「散骨」は、「遺骨の損壊」ということで罪を問われかねません。
しかし、これについて法務省が、「葬送のための祭祀として節度をもって行われる限り」本条に該当しない、とう見解を出しています。

以上のことから、節度をもって行われる限り、「散骨」という行為自体がとくに法律違反となるわけではないことがわかります。
したがって、「散骨をしてほしい」という希望を遺言書の内容として記載することも差し支えありません。

何年か前、遺言書に記した場合、息子が記載どおりに散骨をしてくれるのかどうかを気にされている女性がおられました。
たしかに、自分では確かめようがないことですから、そのお気持ちもわかります。
そもそも、遺言書に書かれたことは、つねにかならず「法律的な効力」を生じるものなのか。
じつは、そういうわけではありません。
遺言として「法律的な効力」が生じるものを、民法は細かく規定しています。
それ以外の、たとえば「散骨」についてのことがらを記載しても、それはあくまでも遺言を書いた人の「希望」にとどまらざるをえないでしょうね。

「どうも不安な気がする。」

その女性は、しきりに心配されているご様子でした。
息子がほんとうにじぶんの希望どおり「散骨」してくれるのかどうか。

こればかりは、人のこころの問題になるのでむずかしいものがあります。
ただ、ひとつ、 「負担付き遺贈」 という方法は考えられるかもしれません。
「負担付き」などというと耳になじみがありませんけど、簡単にいえば「条件を付ける」ということです。
たとえば、特定の不動産について、「散骨をしてくれることを条件として、長男に相続させる」というような。
もっとも、どこまでいっても、息子に「強制」するということができるわけではありません。
遺言といえども、限界はあります。

「強制はできません。」

相談を受けた女性にそうご説明すると、なんだか、がっかりされてしまいました。
でも、そんなことでがっかりするのはやめましょう。
いまの、せっかく生きているこの貴重な時間を、悩んで心をすり減らすことに費やすよりも、もっと楽しく、充実させたほうがいいです。
たとえば、おともだちとおしゃべりしたり、お孫さんと遊んだり、いろいろなところに旅をしたり・・・

などと、ついつい余計なことまで話しこんでしまいました。
納得していただけたのだったらいいんだけど。

「散骨」については、今後、関心を寄せる人が増えていくのではないかと思います。
死後に海や大地とひとつに溶け込んでいく。
このことは、山や海にも、森や川にも、そこに「神」を感じる日本人の心性となじみやすい気がします。

実際、ずいぶんと昔から、散骨は行われていました。
万葉集にも、こんな歌が残されています。

玉梓(たまずさ)の妹(いも)は玉かも あしひきの清き山辺に撒けば散りぬる

わたしの妻は玉であったのだろうか。緑の清らかな山辺に散骨をしたら、玉となって散らばってしまった・・・

失ってはじめて「玉」であったと気づくというところが悲痛です。
もっと早く気づいてあげればよかったのに。
さらに・・・

秋津野を 人のかくれば 朝撒(ま)きし 君が思ほえて 嘆きは止まず

つねにその人のたましいを感じていたいと思い、大地に散骨をする。
でも、あなたがそこにいる、たしかにそこにいる、と思えば思うほど、深い嘆きはいつまでもやむことがない・・・

「散骨」を希望する場合には、あくまでも残されるひとたちの気持ちもじゅうぶんに考えてあげたいところではありますね。

散骨されて海・山とひとつになること。
それとも墓地で静かに眠ること。

じぶんはどういう選択をしたいのか。
目を瞑ってすこしだけ考えてみました。
でも、答えは見えてきません。
代わりに心に見えてきたものといえば・・・
たとえばお昼ご飯に食べたいもの。
紅生姜たっぷりの牛丼か、それとも日替わり定食か。
毎日毎日、まずこの選択が待っているのでした。
お腹が空いていたら、仕事も考え事もできないですからね。

それでは。


『空海と密教美術展』を観てきました。

上野・東京国立博物館で開催中の、『空海と密教美術展』を観てきました。

kuukai.jpg

展示作品の98.9%が国宝・重要文化財で構成されている・・・
「98.9%」というのは、「全部」ということとはちがいます。
だけど、「ほとんど全部」ですもんね。
かなりすごいことなのではと思います。
「国宝」と「重文」の密林に分けいっていくような感じがあります。

まず圧倒されるのが、壁面一面に展示された、巨大な 「両界曼荼羅図」
別名、 「血曼荼羅」 ともいうそうです。
言い伝えによると、平清盛が、自分の頭の血をまぜて彩色したのだ、とのこと。
歴史の荒波をくぐり抜けてきて「いまここ」にある曼荼羅図。
不気味な伝承もまた、図面の「荘重さ」に、ひと役、買っているように思えます。

「曼荼羅図」とは、たくさんの仏の、お互い同士の関係や、誰は誰よりも力が強いのかという関係などをわかりやすく図面にしたもの。
そして、そこに現されているものは、仏教の「世界観」。

たくさんの仏がさまざまに整然と描かれている曼荼羅図は、大きな会社の組織図を思わせるところがあります。
持株会社があってその代表者がいて、傘下にたくさんの会社が組織され、それぞれにまた関連会社が連なって・・・
人間社会の営みなんて、所詮は「仏教の世界観」から一歩も外に出ていないのでは、という気がしてきます。
そういえば孫悟空だって、お釈迦様の手のひらから外に飛び出ることはできませんでした。

さて、この展示では、京都・東寺講堂に安置されている仏像を観ることができます。
東寺の仏像配置は、曼荼羅図を「彫刻」によって立体的に現したもの。
「立体曼荼羅」 と呼ばれる由縁です。
その21体のうち、8体までもが、はるばる東海道を東へ、上野の森までやって来られました。

「五大明王」と呼ばれる中からは、 「降三世(ごうざんぜ)明王」 「大威徳明王」 が展示されています。
「降三世」の「三世」とは、過去・現在・未来のこと。
この三世にわたる人々の心に棲みつく煩悩を退散させる御利益があります。

「煩悩」とは、貪欲・瞋恚(しんに)・愚痴の三つ。
「瞋恚」というのが難しい言葉だけど、「怒り」という意味です。
そういえば、キリスト教の「7つの大罪」にも、「貪欲」と「怒り」とがありました。
「煩悩」は洋の東西を問いません。

この「降三世明王」には、顔が4面、手は8本。
近づいて、ぐるりと回って見上げていると、手が一本伸びてきて、ぽかりとぶたれてしまいそう。
ぶたれてしまうようなことに心当たりは・・・ないと思うんだけど。

お顔はといえば、「忿怒」の相。
この世の「悪」に立ち向かうには、「怖い顔」をしてにらみつけることだって必要なのでしょう。
だから、この「怒り」には、「慈悲」の心が裏打ちされています。
「忿怒」と「寛恕」(思いやる心)とは、コインの両面なのかもしれません。
「怒」と「恕」と、字が似ているのは偶然なのかどうか。

いっぽう、「大威徳明王」は水牛に乗っています。
なぜ水牛かといえば、農耕の仏さまでもあるからなのだとのこと。
でも、「のどか」に農耕にいそしむ、というにはほど遠いものを感じます。
なにしろ武将たちから戦勝祈願の信仰を集めていたというそのお姿は・・・
6本の手には、それぞれ剣や鉾、独鈷などの武器が握られ、とても強そうな雰囲気がみなぎっています。

この明王は、手だけでなく、顔も6面、足も6本、あります。
「降三世明王」といい、「大威徳明王」といい、「人間とは違う」ことをあえて強調するかのようなこの外見は、考えてみればずいぶん「異形」なもの、とも言えます。
なのに、近くから見上げても、さほどアンバランスな印象を受けません。
全体の造形がどっしりとしているからなのか。
すべてを「調和」したものとして観ている自分に気づき、驚いてしまいます。

「立体曼荼羅」の中で、今回いちばん見惚れてしまったのが 「帝釈天像」
どこかチャーミングにも見える象のうえにまたがっています。
もしも耳を羽ばたかせたならば、空高くどこまでも飛んで行ってしまいそうな「象」。
ディズニーランドの「ダンボ」のアトラクションのように。

甲冑を身につけた帝釈天は、とても整ったお顔立ちです。
穏やかでやさしげだけど、何かを思い詰めているようにも見える表情。
しばし魅せられてしまいました。

同じく表情がなんともいえない魅力に溢れている仏像に、興福寺の「阿修羅像」があります。
そういえば、阿修羅像は、一昨年、東京国立博物館(平成館)の、ちょうどこの同じフロアの一画に、展示されていたのでした。

なんでも、その昔、「阿修羅」と「帝釈天」とは激しく戦いを繰り広げた、という過去があるのだとのこと。
この両者を同じフロアに同時に展示することは控えた方がいいのかもしれません。
夜が更けてから、おもむろに象から降りて剣を振り上げ、阿修羅に襲いかかる帝釈天・・
そんな、映画『ナイトミュージアム』みたいなことになると大変ですからね。

さて、この展示会、今月25日までの開催です。
展示は「第一会場」と「第二会場」の二箇所。
これからご覧になる方には、「第二会場」の「立体曼荼羅」から先に鑑賞されることをお勧めします。
なにしろ「第一会場」の入口付近の混雑は、半端ではありません。
お盆時の東名高速道入口付近並です。
5メートル進むのに100カロリーは消費してしまうでしょう。

それに比べて、「第二会場」は、やっぱり混雑しているとはいえ、ずっと余裕をもって体を動かすことができます。
まだ体力に余裕のあるうちに、立体曼荼羅を構成する仏像たちにお会いする。
そのほうが賢明のように思います。
ただ、くれぐれも俗世の「煩悩」を引き摺ってはいかないように。

「 心暗きときは即ち遇ふ所 ことごとく禍(か)なり。
  眼明らかなるときは 即ち途(みち)に触れてみな宝なり。 」 『精霊集』


空海の言葉です。
煩悩によって心が暗くなっているときは、すべての出会うものは「災い」となるけれど、
煩悩から解き放たれ、心の「眼」をもって見るときは、出会うものすべてが「宝」ともなる。
そんな意味でしょうか。

この展示で出会うものすべてを「宝」として心の中にしまいたいものですよね。
ほとんど全部、「98.9%」まで、などといわず、そのすべてを。

それでは。

プロフィール

JIRO

Author:JIRO
東京下町で開業する司法書士です。
司法書士とはなにをする人か?
・・・一言では説明が難しいです。
といって二言三言あれば説明できるわけではなし。

このブログでは、日頃の出来事や読んだ本、観た映画などのことを書きつらねてみたいと思います。
あ、お仕事のこともすこし触れていきます。

(ホームページ http://www.noguchi-office.jp/)

相続なら江東区の司法書士 みどりの杜司法書士事務所(会社設立)

カレンダー
08 | 2011/09 | 10
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。