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声に出しづらい四字熟語

朝、起きると、舌の先端近くの口内炎が前の晩よりぴりぴりします。
舌を動かしての発音が辛い一日になりそう。
ふと、「取捨選択(シュシャセンタク)」という言葉は言いづらいな、と思いました。
でもよくよく考えてみると・・・・
生まれてこの方、日常生活で「取捨選択」という言葉を使ったことはなかったような気がします。
すこし安心しました。

日常生活で使う四字熟語。
ふつうはかなり限られていますね。

以前、大関や横綱への推挙を伝達される際の口上に四字熟語を織り込む、ということが行われていました。
元横綱若乃花は、大関に推挙されたときには、「今後も一意専心の気持ちを忘れず相撲道に精進致します」と口上を述べています。
「一意専心」。
ふだん、ほとんど使われることのなさそうな言葉です。

さらに横綱に推挙されたときに用いたのが、「堅忍不抜(ケンニンフバツ)」という四字熟語。
ところがそのときの口上は・・・

「横綱としてケンシンフバツの精神で精進していきます」

たぶんこの日、若乃花も、口内炎で舌が思うように回らなかったのではと思います。

この若乃花関、幕内で通算487勝の成績を残しています。
四捨五入すると500勝。
一意専心、堅忍不抜の努力でひとつひとつ積み重ねたこの数字、さすがにたいしたものだと思います。

「四捨五入」といえば、この言葉も、発音しようとすると舌先に負担がかかりますね。
ただ、たぶん、日常会話で使うことはないでしょう。
なんにしても、きょうは寡黙に過ごします。
物言えば舌先痛し、です。

それでは。

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「ネガティブ・オプション」、そして「一房の葡萄」

再び前回の続きを少し。

事務所に宅配されてきた甲州産の黒葡萄のお話です。

なにをとまどったのかというと、送り主のお名前。
どうにも心当たりがありません。
すぐにでも開封したい気持ちを抑え、過去一年の顧客リストを調べてみたけど、該当するお名前はなし。
さて困ったどうしよう・・・と思いつつ、念のため、もうすこし遡って調べなおしたら、ちょうど一年半ほど前にご依頼をいただいた顧客の方であることがわかりました。
二度お会いしただけだったので、お名前がすっかり記憶の淵に沈んでしまっていたんですね。
なのに先方は忘れずにこんな心づかいをしてくださいました。
思い出せなくてほんとうにすみません。
ただ、最近では3日前に食べたランチを思い出せないこともあります。
なので、「1年以上前」のこととなると、頭の中に靄と霧と霞みがいっぺんにかかったような状態になってしまうのです。
いただいた黒葡萄の甘さとすっぱさが、頭の中のそんなもやもやを一気に払ってくれたのでした。

さて、送り主の方がわからないでいるとき、なぜ「困ったどうしよう」と思ったかというと・・
「ネガティブ・オプション」という言葉が頭の片隅をよぎったからです。
仕事が仕事なので、ついつい「考えなくてもいいこと」を考えてしまいます。
そのかわり「考えなくてはいけないこと」はあまり考えません。
バランスはとれているのかもしれないですね。

ふだんあまり聞き慣れない「ネガティブ・オプション」という言葉。
これは一体、何のことでしょうか。

一般に、注文をしていない商品を宅配で送付して代金を請求する、という販売方法のことをいいます。
商品として多いのは、書籍、雑誌、名簿、そしてカニ、その他の魚介類など。
「○日以内に返品しない場合には購入を承諾したものとみなす」といったことの書かれた文書が入っていたりします。
一方的に「みなされる」いわれはまったくないので、心配いりません。
ただ、「受け取ってしまったし、知らないまま箱も開けてしまった」という心の動揺につけこまれてしまうおそれはあります。

この場合、どのように対応すればよいか。
簡単にいえば、受け取った商品を放っておくことがいちばんです。
業者にその商品の引き取りを請求してもいいし、しなくても差し支えない。
もちろん、代金を支払う必要などまったくなく、購入するのかどうかを業者に告げる義務もありません。

とはいえ、このまま保管しつづけるのはいやだ、ということもありますね。
だから処分していまいたいが、処分してしまったあとに業者から「返せ」といわれたらどうしよう。
そういう心配もあります。

でも、その「商品」を使ったり消費したりすることなく、ようするに「放っておいたまま」
14日が経過すれば、業者はその商品の返還を請求することができなくなります。
また、業者にその商品の引取りを請求してから7日間が経過した場合にも、業者はもうその返還を請求できません。
こんな知識も、頭の片隅に置いておくと安心できますね。

原則は以上のとおりです。
しかし、それでも、「商品」が現実に眼の前に置かれてあると、普通の生活をしている人にとっては、心理的にわずらわしいことこのうえないでしょう。
業者に引き取らせるためには、その業者と連絡をとり、やりとりを交わさなければなりません。
また、業者によっては、相手の知識不足につけこむように代金の支払いをしつこく求めてくるということもありえます。

現行法では、「ネガティブオプション」という販売方法自体が違法というわけではありません。
したがって、いつでも誰でも、意に反してこうした「当事者」の立場に立たされてしまうおそれがあります。
「平穏」に暮らすことに慣れている人達にとって、突発的な事態に正しく反応する、ということは、意外にむずかしいものです。
急激に「心理」を揺さぶられてしまうと、正しい判断や行動ができない。
ここがまさにポイントとなります。

なんのことわりもなく「一方的に送付されてくる商品」というのは、いわば平和な日常にまぎれこんでくる「異物」です。
「異物」は、いつでも虎視眈々と侵入を試みてくる。
そして、「法的」には、侵入自体を阻止することのできない「異物」もある。
おそろしいことのようではあるけれど、これが現実です。

でも、「平和な家庭」にいきなりの侵入を試みるのは、「ネガティブ・オプション」だけとは限りません。
「異物」とは、「平穏な生活」を乱すあらゆるものの「比喩」でもあるからです。
たとえば、家族の一員を襲う不慮の事故、知らぬ間に忍び寄ってくる病魔、仕事や家業での予期せぬつまづき・・・
招待もしていないのにいつの間にか塀や扉をすりぬけて、家庭の真ん中に居座ろうとするそうした「異物」たち。

断固として追い出す、ということもあるだろうし、丁重にお引き取りを願う、ということもあります。
なかには、なんとか折り合いをつけて共存していかなければならない種類の「異物」もあるでしょう。

どんな場合でも、「異物」に対する対応の基本は同じであるように思います。
整理してみると・・・

1.まずは「深呼吸」。
  昂ぶりがちな気分を鎮めて落ち着くこと。
2.「自分だけ」で判断しようとはしない。
  すべてをひとりで抱え込もうと思わないこと。
3.正しい「情報」をできるだけ集める。
  情報に基づいて、可能な選択肢(方針)をひとつずつ検討すること。

方針が固まれば、あとは「自衛」あるのみです。

4.「自衛」のための強い意志を持つこと。

「異物」の侵入を感知した瞬間から、大げさにいえば、体中の白血球を総動員する「覚悟」を固める必要があるといえるのかもしれません。

葡萄のことから、話からどんどんそれてしまいました。

それたついでにもうひとつ。

有島武郎に、『一房の葡萄』という短編があります。
友達の絵の具を盗んでしまって、身の置き所もなくしてしまった少年。
その少年の手に、西洋人の女性教師が、やさしく葡萄をもたせます。

「真白い手のひらに紫色の葡萄のつぶが重って乗っていたその美しさをぼくは今でもはっきりと思い出すことができます。ぼくはその時から前より少しいい子になり、少しはにかみ屋でなくなったようです。」

不意に心が激しく動揺してしまったようなときは、美味しい葡萄をゆっくり味わって、まずは気分を落ち着かせたいものですね。
甘くて美味しい一房の葡萄。
とくに甲州産の黒葡萄がおすすめです。

それでは。

『落ち穂拾い』と『怒りの葡萄』

前回の続きを少し。

山梨美術館には、「ミレー館」が常設されています。
パリ郊外のバルビゾン村に居を定め、農民の姿や生活を、敬虔な感情を込めて描いたミレー。

まず目に飛びんで来るのは、ミレーの最初の妻を描いた 『ポーリーヌ・V・オノの肖像』 です。
透きとおるように美しい、そしてはかなげな肌と、なにかをすがろうしているようにも、すがることをあきらめているようにも見える瞳。
その瞳は、微笑んでいるようでもあり、また、涙で潤んでいるようでもあります。
彼女は、その後、22才で、肺結核で死んでしまいました。
相聞歌として描かれた絵画が、結果としては「挽歌」となってしまったんですね。

ミレーといえば、パリ・オルセー美術館に所蔵されている有名な 『落ち穂拾い』 という作品があります。
「ミレー館」では、その別バージョンとなる 『落ち穂拾い・夏』 を観ることもできました。
刈り入れが終わった後、畑にこぼれ落ちた「麦の穂」。
それを拾い集めることしか生きる術を持たなかった貧しい農婦たち。
なんだか、いまの時代の「格差社会」などという言葉がつくづく身に沁みてくるような絵画です。

ミレーには、このほかに、 『晩鐘』 という名画があります。
一日の労働を終えた夫婦が、没日を背景に祈る姿が描かれた作品。

この絵が1889年にオークションにかけられたとき、フランスとアメリカとの間で争奪戦が繰り広げられました。
なぜアメリカがこの絵に強い関心を示したのか。
清貧な農民の姿を描く『晩鐘』が、信仰の篤いアメリカのプロテスタントたちにとって、崇高な「祭壇画」のように思えたからであったそうです。
落札されいったんはアメリカに渡った『晩鐘』だったけど、その後すぐにフランスに買い戻され、現在はオルセー美術館に所蔵されています。

『晩鐘』を手放したアメリカ。
半世紀後、その代償のような映画を世に送り出しました。
ジョン・フォード監督の 『怒りの葡萄』 (1940年)です。



原作は、アメリカの小作農民の悲惨な生活を描く、スタインベックの小説。
土地を追われ、トラック一台に乗って西へ西へと流れていく貧しい一家がいます。
つぎつぎに襲いかかる災難、暴力、そして理不尽な死。
それでもひとり母親だけは絶望することなく、大地に根が生えたように家族を励ましつづけます。
遠景で人物を捉えるカメラワークが生むやわらかい抒情。
競争社会の中で落ちこぼれていく弱者に注がれるやさしいまなざし。
作品全体に流れるのは、まさに『晩鐘』に描かれた世界と同じだなあと思いました。

それでは。




山梨美術館へ~『川端康成・東山魁夷コレクション展』

秋が深まる中、山梨美術館へ『川端康成・東山魁夷コレクション展』を観に行ってきました。
新宿から2時間弱で到着です。

ヤマナシ1

既に文壇の重鎮だった川端康成と、当時は中堅画家だった東山魁夷との出会いは昭和30年のこと。
以後、その交流は川端の死までつづきます。
近年、膨大な往復書簡も発見されました。
あくなき美を探究してやまないふたりの精神と感性が互いに行き来し、響き合うことで、それぞれの創作にどのような、そしてどれほどの影響があったのか。
その一端でも感じることができたらいいな、と思って館内に入場しました。

ヤマナシ3

今回、いちばんのお目当ては、川端康成が所蔵する、浦上玉堂の『凍雲篩雪図』(とううんしせつず)という水墨画です。
川端が惚れ込んで、手に入れたそのあとに国宝に指定されました。
ガラスケース越しに対面を果たしたその画は・・・

雲が重く垂れ込めています。
凍ったようにも見える雲。
そこから、「篩(ふるい)」にかけられたような雪が降っています。
「降っている」ように見えます。
山の中腹には、代赭(赤い色)が点々と散らされています。
正体不明の「赤」がモノトーンの「山水」に沈み、異様な官能の気配が漂ってきます。
背徳の「赤」。
そんな「妖しさ」さえ感じます。
凄みが迫ってくるようでもあります。

老境に入っていた川端に、この絵はどんなインスピレーションを授けたのか、とても興味深いですね。
『眠れる美女』のような作品は、この絵の、「重苦しい、わけのわからなさ」から触発され、産み落とされたのではないか、というようなことも考えてしまいました。

その他、与謝蕪村と池大雅が競作した、『十便十宜図』も展示されています。
山中で暮らすことはこんなに「便利」だということを、池大雅が描いた『十便図』。
季節の移ろいのすばらしさ、「宜しきこと」を、蕪村が描いた『十宜図』。
ひとつひとつになんともいえない味わいがあります。

特に好きなのが、池大雅の『釣便』の絵。
来客に出す酒の肴を、茅屋から釣り糸を垂らして、釣り上げている、という図です。
「わざわざ川までいかなくても済んでしまう。だから山の中で暮らすのは便利なのだ」と言われれば、「なるほどおしゃるとおり」とうなずかざるを得ないような、ほほえましくなる楽しさにあふれています。

その他、川端と東山魁夷が蒐集したコレクションの数々、また、魁夷自身の作品も数多く展示されていて、書き尽くすことのできない、ほんとにみどころいっぱいの特別展でした。

ヤマナシ2

美術館の外に置かれている彫刻です。
秋晴の一日。
空がとっても青いですね。
そういえばいま観てきたばかりの東山魁夷の絵画、そこにも吸い込まれるような「ブルー」がありました。

奥の方には庭園が広がっています。
バラ園もあって、その近くでは、ネコがまどろんでいました。

ヤマナシ4

行きずりのネコなので、名前も性別も年齢も、趣味も結婚歴もわかりません。
ただ、山梨出身であることは間違いないでしょう。
それと、いま、それなりに満ち足りた日々を過ごしているのだろう、ということも、顔つきからして明らかなようでした。


それでは。




『泥の河』に流れていったもの

レストランで小さい子が一生懸命に食べている姿を見かけました。
七五三のお祝いの帰りだったのでしょうか。
見ていると、ほのぼのとした気分が満ちあふれてきます。
記憶の底から懐かしさがこみあげてきます。

「お子様ランチ」を最後に食べたのは10才のときでした。
遠い親戚の法事に連れて行かれた帰り道でのことです。
場所は、とある鄙びた町の駅前レストラン。
「レストラン」というよりは、「大衆食堂」というほうが当たっているお店でした。

そのときの様子はなぜか鮮明に覚えています。
テーブルに置かれた醤油やつまようじ。
窓から見える駅前ロータリーには客待ちをする黒いタクシーが一台。
お子様ランチのちんまりとしたチキンライスの横には、同じくちんまりとしたウインナとハンバーグが添えられていました。

「お子様ランチ」を食べるのはこれが最後。
そのとき確かにそう思って食べたような気がします。
理由は覚えていません。
たぶん、「これが最後」だということを、あのときのじぶんがただ「知っていた」ということなのかもしれません。
そうやってあの日、階段をひとつ、上がりはじめたんでしょうね。

子どもが大人になるために時間をかけて徐々に上がっていくその階段。
でも、少年時代のある短い時間の中で、一気に、否応なく、上まで連れて行かれてしまうこともあります。

先日、NHKで放映された映画 『泥の河』 を久しぶりに観ました。
何度観てもやっぱりすばらしい映画です。



舞台は、大阪・安治川。
「のぶちゃん」は、その川沿いの安食堂に暮らす9才の少年です。
ある日、川の対岸にあらわれる廓舟。
そこに住む「きっちゃん」と「銀子」という姉弟との出会いと友情、ほのかな思慕、そしてせつない別れが、淡々と描かれていきます。

「きっちゃん」も銀子も、お子様ランチを食べたことなんてないにちがいない。
そんなふうに思わせる子どもたちです。
姉の銀子は、廓舟で「商売」する母親のことを、すでに知っています。
なかば以上「大人」の領域に身を置いていて、もう「笑う」ことも忘れかけている。

そして「のぶちゃん」。
火をつけられた蟹を助けようと舟から身を乗りだし、見てはいけなかったものを見てしまいます。
いちど見てしまえばもうあとに戻ることは許されないもの。
もう「戻れない」ということを、たぶん彼は知っています。
いっきに「大人」の世界に引き摺り上げられてしまう9才の少年。
モラトリアムも中間プロセスもそこにはありません。

廓舟は「きっちゃん」と「銀子」を乗せ、突然に去っていきます。
去っていく廓舟にいくら叫んでも走っても、もう追いつくことはできません。
黒く淀んだ泥のような川。
泥のようではあっても、川は流れています。
その川面は失ったものをすべて呑み込み、永遠に手の届かない彼方へと流し去ってしまいます。

誰もがいつかは上りはじめ、上り終わることになる階段。
じぶんにとって、「最後の階段」を上り終えたのはいつのことだったのだろう。
観終わって、そんなことをふと考えてしまう映画なのでした。


それでは。

プロフィール

JIRO

Author:JIRO
東京下町で開業する司法書士です。
司法書士とはなにをする人か?
・・・一言では説明が難しいです。
といって二言三言あれば説明できるわけではなし。

このブログでは、日頃の出来事や読んだ本、観た映画などのことを書きつらねてみたいと思います。
あ、お仕事のこともすこし触れていきます。

(ホームページ http://www.noguchi-office.jp/)

相続なら江東区の司法書士 みどりの杜司法書士事務所(会社設立)

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