FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

『妻として女として』

CSで放映された映画 『妻として女として』 (昭和36年)を観ました。
監督は成瀬巳喜男。
なかなかすごい映画です。
主人公は、高峰秀子演じるバーのマダム。
大学教授である森雅之と愛人関係にあります。
でも最近、日々の生活に不安が兆して、その不安が不満へとふくれあがっていく。
そのやり場のない思いを新聞の「人生相談コーナー」風にアレンジすると、こんな感じに。

【相談】
「私(匿名希望)は38才。銀座のバーのマダムをしています。
バーの名義はA子さんという人。そのA子さんに、月々の売上げからは10万円を欠かさず支払っています。
このA子さんの夫(K郎)は、実は私の愛人。A子さんは私たちの関係をずっと黙認してくれています。

なぜA子さんが黙認しているかというと・・
終戦前後、当時すでにK郎は妻帯していました。そのK郎と私との間に産まれた二人の子供(F子18才、S夫15才)をこの夫婦の籍に入れることを私が承諾したからです。戦後の混乱の中、女ひとりで子を育てることは、私には無理でした。だから、涙を飲んで、子どもを手放したんです。

でも、最近、自分の立場がどんなに脆いものであるかを身に沁みて感じるようになり、また、K郎という人の頼りなさ、狡さに愛想が尽きたということもあって、いまの関係を清算しようと思うようになりました。

そこで、奥さんであるA子さんに、バーを手放す代償として300万円を要求したところ、50万円しか出すことができない、と言われました。到底納得できる金額ではありません。おまけに、店を人手に渡すから、私にはすぐに出て行け、と冷たく言い放ちます。18年、身を捧げて尽くしてきて、この金額ではあんまりだし、いきなり出て行けというのもひどすぎます。人生の幸福を根こそぎ奪われ、未来の喜びもすべて台無しにされてしまった気がします。

せめてこの際、手放した子ども(S夫)を取り戻し、すこしでも将来に希望を持って生きることができるようになりたいと思います。私のような立場の女がこんな要求をすることは、この世の中では許されないことなのでしょうか・・・?」


・・・これは、「答え」のむずかしい相談ですね。
いくつもの論点が重なり合っています。

まず、相談者がA子に支払っていた「10万円」が、どういう性質の金銭なのかということ。
タクシー初乗り料金が100円程度であった時代だったから、10万円は、いまの時点で換算すればかなりの高額です。
その支払いが仮に店の賃貸借料であった、ということであれば、そうたやすく「出て行け」ということにはなりません。
そうではなく、「贈与」であったということであれば、A子にとってかならずしも面白くない結果を生むことに。
なにしろ贈与税は高いですから。

つぎに、愛人関係を清算するための「300万円」という額の請求はどう考えることができるでしょうか。
まず、慰謝料として請求する根拠があるかといえば、いささか無理がありそう。
店の立ち退き料や営業補償、それと店内設備を買取らせる対価として、ある程度まとまった金額を請求することはできるかもしれません。
それにしても、「300万円」は現実的な数字ではないでしょう。

逆に、A子の方から相談者に対して「不法行為に基づく損害賠償」を請求されてしまう、という懸念もあります。
しかしこれは、夫の愛人関係を「黙認」していたということ、その他の特殊事情もあることから、それほど心配はなさそう。

最後に、相談者が、「子どもを取り戻す」ことは可能なのか。
同情すべき事情はあるにしても、今になって戸籍を訂正し、親権回復を請求するのは、相当に途が険しいと言わざるを得ないような・・・

どちらにしても相談者にとってはかなり分の悪い結果になりそうですね。

とても入り組んだストーリーなのに、この映画、じつによく作られています。
登場人物にきちんと血が通って描かれている。
映画なんだから、「血が通って描かれる」なんて当り前だ、と思われるかもしれません。
でも、その当り前のことがなかなかむずかしい。
この映画の場合には、「血が通って見える」どころか、「静脈まで透けて」見えてくるかのようです。

とくに終盤、相談者とA子とが意地をかけて衝突するシーン。
妻であれ愛人であれ、どちらも弱い立場で生きていることに違いはありません。
なのに、そんな女同士が、激しく言葉をぶつけ合う場面が、じつにせつなく悲しいものとして迫ります。
それをまたなすすべもなく傍観する夫(K郎)の、滑稽なまでのふがいなさ、無様さ。

これほどにもややこしい話なのに、結末はじつにさらりとした着地を決めてみせてくれます。
「ひねりを加えた大技」、というのではなく、オーソドックスに手堅く、でもこれ以外にはない、というラスト。
ほろ苦い中に、一抹の明るさも残し、秀逸なエンディングでした。

法学部のゼミで教材にしてもよいのでは、というような内容のこの映画。
弱い立場に生きる女を描く、という脚本の狙いを超えて、より普遍的な人間模様さえ浮き彫りにしている。
「成瀬巳喜男」という監督は、やっぱりすごい人だったんだなあと思います。

それでは。

スポンサーサイト

「月島もんじゃストリート」で感じたこと

有楽町から地下鉄で5分。
月島の「もんじゃ焼き街」に行って来ました。
選んだお店は「近どう本店」。
昭和25年創業の老舗だとのこと。

3

とりあえず、「もちチーズ明太子もんじゃ」を注文。
もちは食べやすく角切りにされています。
明太子が堂々としていますね。


1

この明太子をどう扱っていいのかわからなかったので、お店のお姉さんに焼いてもらうことに。

二本のへらが鉄板上をためらいもなく、小刻みにすばやく移動します。
眼の前でめまぐるしく動く手首や長い指に、思わず見いってしまいました。
まるで鍵盤上をかけめぐるピアニストの白い指。
なにかを創り出すために「仕事をする手」の美しさ、ですね。

などとゆっくり考えているいとまもなく、あっという間にドーナツ状の「土手」の出来上がり。
土手の真ん中に流し入れられた生地が「じゅうっ」と胃に浸みとおる音を奏でます。
その生地の上に明太子を置き、へらで丹念につぶしていく。
なるほど、こうやって作ると美味しくなるんですね。
最後に全体の形を調えながら土手を混ぜ合わせると・・・・

2

とろけたチーズと明太子との取り合わせがとても美味しい一品でした。

月島商店街には、現在、70店舗以上、もんじゃ焼きのお店があるのだとのこと。

たくさんの店が集まることで「もんじゃ街」というイメージを打ち出し、宣伝する。
そのイメージがお客の足を途切れることなく運ばせる。
店同士の切磋琢磨が、メニューに独自の特色を生み出していく。
訪れるお客は、それぞれに「満足感」を味わって街を後にする。
満足したお客の「クチコミ」がまた新しいお客を呼んでくる。

理想的な好循環です。
これをまさに「シナジー効果」というんでしょうね。
商店街活性化のビジネスモデルとして、大変参考になるケースではないかと思います。

司法修習を終えた弁護士志望者のうち約2割が弁護士登録をしなかったことが報道されています。
司法制度改革によって弁護士の数が増え、今年ついに全国で3万人を突破したとのこと。
いっぽう、需要のほうは思うように増えているわけではありません。
それゆえのジレンマ、という状態になってしまっているんですね。

この状態は、われらが司法書士業界にとっても対岸の火事というわけではありません。
といって、仕事の性質上、「シナジー効果」に期待をかける、というのもむずかしいでしょう。

せめて、なにか「特色」を身に付け、時に応じて発揮できるようにはなりたいものです。
そして、訪れてくれる顧客には大きな「満足」を持ち帰ってもらえるようにする。
決め手はやっぱり「明太子」でしょうか。


それでは。


再び「子規庵」へ

NHKスペシャルドラマ 『坂の上の雲』の第三部、「激闘完結」編がいよいよはじまりました。
先日放映された回のタイトルは、「二〇三高地」。
難攻不落を誇る旅順要塞、その北西にある、標高わずか203メートルの丘陵が「二〇三高地」です。

屍山血河という言葉そのままのようなすさまじい戦い。
攻める側も守る側も、地獄そのままの戦場で、「鬼」となって戦い、死んでゆく。
「テレビ放映」という条件の中で、映像的に抑制された表現ではあります。
なのに、「目の前にいる〝その〟人間を殺すことが戦争である」ということの怖ろしさ、虚しさそして悲しみが、びりびりと、伝わってくるのが感じられました。

さて、三年越しで放映されているこのドラマ。
第二部までは主役のひとりだった正岡子規の不在が、やっぱりさびしく思えます。

昨年につづき、もういちど根岸の「子規庵」まで行ってみました。

驚いたことに、昨年までは許されていなかった庭の写真撮影が解禁されています。
さっそ外に出て、庭から子規庵を撮ってみました。

5.jpg

そして、これが、かの有名な糸瓜です。

2_20111211150117.jpg

驚くほど大きな糸瓜。
これなら、咳止めに効き目があるといわれる糸瓜の水を、ずいぶんたくさん取ることができたのでは。
「痰一斗糸瓜の水も間に合わず」という句のことを、どうしても思い出します。

この句を含む、絶唱3句といわれるものの碑がありました。

6.jpg

息も絶え絶えになりながらこの3句を書き留めた子規の様子は、「坂の上の雲」第二部で描かれていましたね。

これは庭のムラサキシキブ。
色彩の乏しい冬の庭にあって、恰好のアクセントになっています。

4.jpg

そして、ケイトウ。
十四五本よりは、もうすこしたくさんあるでしょうか。
ケイトウの「赤」は、地から抜け出てきた魂(生命力)の群れのようにも見えます。

3_20111211150124.jpg

庭の奥には、ホトトギスも咲いていました。

1

直系3センチほどの小さなホトトギスの花。
白地に、紫色の斑点のあります。
この斑点が鳥のホトトギスの胸の模様に似ていることから「ホトトギス」の名前がついたそうです。

庭に「鳥のホトトギス」はいなかったけど、つがいのメジロが飛び交っているのをみかけました。
そういえば昨年来たときも、やっぱりメジロがいたことを思い出します。
この庭をホームグラウンドにしているのかもしれません。


それでは。


わかりやすくということ~『法然と親鸞 ゆかりの名宝』展

閉幕の数日前、 『法然と親鸞~ゆかりの名宝展』を観てきました(東京国立博物館)。
平日の午後一時という時間帯だったのに、すでに入館まで30分待ちの行列。
人気のすさまじさは予想をはるかに上回っていました。

6世紀半ばの伝来以来、仏教は国家の宗教であり、宮廷護持の宗教であり、五穀豊穣・鎮護国家を祈るための宗教でした。
その仏教を、「庶民大衆」のものとして日本に根付かせ、築き上げたと言われる法然と親鸞。

今回の展示では、聖人影像(肖像画)や上人像を間近にすることができました。
法然上人は、とてもおだやかな表情をされている、という印象を受けます。
親鸞聖人はといえば、どこか一途な、思い詰めたような雰囲気が漂っているような・・・

法然が庶民に教えたことは、ただ「南無阿弥陀仏」と称えればよい、ということ。
それは、阿弥陀仏が、じぶんの名を称える人間は誰でもわけへだてなく浄土に迎えて仏とする、と約束しているから。
親鸞はこの教えをさらに突き進めます。
すなわち、阿弥陀仏の慈悲を心から信じて念仏を称える、その瞬間に極楽往生に行けることが決まるのだ、と。
厳しい修行をしなければ浄土には行けない、ということではない。
日々の生活に追われる庶民にとって、こんなに心強い教えはなかったでしょうね。

でも、なぜ「念仏」を称えることで、「往生」が可能となるのか。

五木寛之の『親鸞』を読むと、こんなふうに書かれています。

      


「わしの本音を有ていに申せば、念仏はまことに浄土に生まれる種なのか、地獄に堕ちる因なのか、わしはまったく知らぬのじゃ。何もかもお任せするのじゃ。わしの希み、わしのいのち、私そのものを仏様にあずけるのじゃ。いずこへなりとおつれ下さるでおざろ。」

この本、親鸞の半生が、波瀾万丈、けれん味たっぷりに描かれています。
すこし「たっぷり」すぎるのでは、と思うところもあります。
でも読み終わって時間がたってみると、にぎやかに書かれたところは頭の中からきれいに消え去っている。
そして法然や親鸞の教えの核となるようなところだけが心に残る。
そんなふうに書かれているんだ、ということに気がつきました。

「易行念仏(いぎょうねんぶつ)」というのは、法然の大切な教えであるそうです。
誰にでもできるやさしいこと。
それこそが「念仏」であるという教え。

この教えを、五木寛之はこの本で実践してみせたのでは。
誰が読んでも理解できなかったら、それは法然・親鸞の教えにもとることになってしまうかもしれないのだから。

その点では、今回の展示に、ひとつ不満があります。
各展示物についての解説パネルです。

ふつう、絵画展などでは、あまり「解説パネル」を熱心に読んだりはしません。
まず「絵画」自身を観る。
だからパネルは必要に応じて、という人が多いと思います。

でも、今回の名宝展の場合、仏画や絵巻、経典などが展示の中心です。
必要なのは、美的な対象としての鑑賞ではなく、それが「何であるか」をまず把握すること。
したがって、「解説パネル」に頼らざるを得ません。

さてこの解説パネル。
できるだけ時間をかけて読んでみたけど、一読、理解しにくいものが多かったように思います。
自分の勉強不足を棚に上げるような言い方になってしまってますね。
でも、なんの勉強をしていない者であってもすんなり理解できるパネルこそが、「易行念仏」の教えに則ったものといえるのではないか。
そんな気がして仕方がありませんでした。

いっぽう、親鸞の教えには、どうしてもよくわからない、ということもあります。
たとえば有名な「わが心のよくて殺さぬにはあらず」という言葉。
考えれば考えるほどわからなくなるところがあります。

死後に「浄土」に行けるかどうかを悩まないですむように教えを説いてくださった反面、「今」をどう生きるかについてはたくさん悩まないといけない、ということなのかな、と思いました。


それでは。


声に出しつづけたい四字熟語

前回のつづきです。

きのう、稀勢の里の大関昇進が伝達されました。
そのときの口上は、「大関の名を汚さぬよう精進します」。
四字熟語はあえて使わず、自分の気持ちをストレートに伝えたとのこと。
たしかに、関取にとって、一世一代の場面です。
日頃使わないよそゆきの言葉ではなく、自分の中から出てくる言葉を大事にしたほうがよいのかもしれませんね。

今年は、日頃使わない、聞くことのない、また聞きたくもなかった四字熟語が氾濫した一年でした。

炉心溶融、流言飛語、計画停電、健康被害、内部被爆。

9月の台風12号による被害報道の際には、「深層崩壊」なる言葉の存在も知らされました。

今年もあと1ヶ月で終わります。
いろいろなことがあって、いろいろなことがありすぎて、いろいろなことを積み残したままで、今年が終わろうとしています。
来年にかけて、耳にする機会が増えるといいな、という四字熟語はないだろうか。
ちょっと考えてみました。

たとえば、「山紫水明」。
響きもよく、ビジュアル的にも美しい言葉です。
紫にかすむ故郷の山なみや、明るく澄んだ清流が見えてきます。

「白砂青松」もいいな、と思います。
白い砂浜、青々とした松林。どこまでも続く美しい海岸。

そして、「一陽来復」。
冬が過ぎれば、やがては暖かくなっていきます。
よくないことのあとにはよいことが待っている。

どれも、繰り返し口にしつづけたい言葉です。
山紫水明、白砂青松、一陽来復。

言葉を唱えることで取り戻せるものが必ずあることを信じて、100万回でも繰り返し唱え続けたい。
そんなふうに思わせてくれる四字熟語たちです。

それでは。

プロフィール

JIRO

Author:JIRO
東京下町で開業する司法書士です。
司法書士とはなにをする人か?
・・・一言では説明が難しいです。
といって二言三言あれば説明できるわけではなし。

このブログでは、日頃の出来事や読んだ本、観た映画などのことを書きつらねてみたいと思います。
あ、お仕事のこともすこし触れていきます。

(ホームページ http://www.noguchi-office.jp/)

相続なら江東区の司法書士 みどりの杜司法書士事務所(会社設立)

カレンダー
11 | 2011/12 | 01
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。