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「分かちあうこと」はなぜできるのか?

NHKスペシャル 『ヒューマン なぜ人間になれたのか 第一集~旅はアフリカから始まった』 という番組を観ました。

20万年前に誕生した、人類の起源ホモ・サピエンス。
アフリカに住んでいたわれわれの祖先が、すでに「仲間と協力し合うこころ」を持っていた。
このことを、南アフリカにあるブロンボス洞窟で発見された考古学的資料から裏付けていきます。

なぜ、人間は協力し合うようになったのか。
その理由のひとつが、人類が選択した「二足歩行」。
直立して歩くことに伴い、必然的に女性の骨盤が狭くならざるをえなかった。
そのため、他人の手を借りることなく「ひとりで」産むことがむずかしくなってしまった。
おまけに一人前に育てるまでには時間がかかる。
したがって、協力しあわなければ子孫を残すことができなかった・・・

なるほど、と思いました。
直立することを選んだ人間にとって、協力し合うことは宿命だった。
こういうアプローチで考えたことはなかったので、この理由付けには興味深いものがありました。

いっぽう、「仲間うちだけで協力しあう」という行動は、人間だけに見られるものではありません。
たとえば「キイロタマホコリカビ」という粘菌を例に取り、同じ遺伝子を持つもの同士で助け合う様子が映像で説明されます。
そんななか、人間だけが「見ず知らずの赤の他人と協力し合える力」を手に入れていった。
いったい、どうしてなのか。

その理由を、7万4千年前にアフリカを襲った未曾有の気候変動と、それが引き起こした食糧不足に求めます。
少ない食料を求めているときに見ず知らずの他人に出会う。
そこで争って目の前の食料を相手から奪い取るよりも、協力し合い、分かちあうことを選んだ人間たち。
そういう人間たちだけが厳しい環境を生き残ることができた。
人間以外にはまったくできないその行動。
「もの」を、そして「こころ」を分かちあう交流がなければ、人間は生き延びてこられなかった・・・

この番組を観ていて、ある小説のことを思い出しました。
『虐殺器官』 (伊藤計劃著・ハヤカワ文庫)という本がそれ。



いちおうSF小説に分類されているけれど、「ジャンル」には収まりきらないような物語です。
たとえば主人公による次のようなやりとりを読んでみると・・・

「ダーウィンの進化論は、適応と淘汰だよ。生き残りの戦略だ。生き残りが最大目標だとすると、自分を守ることが自然状態になるだろ」
「いいえ、昆虫の群れを考えてちょうだい。個のレベルを超えて、群れに貢献する昆虫は枚挙に暇がないわ。巣を守るために毒針を一刺ししたあと死んでしまう蜂は、自分の生存を放棄して、群れあるいは種全体の保存のために行動しているもの」


などという会話のあと、こんなふうに続きます。

「人間の良心が、そのような遺伝的産物であってどうしていけないの」
「弱い生物が厳しい世界で生存に適応するためには、安定した集合を築くことが重要だったのね。他の個体を利するというのは、純粋に生物的な根拠のあることだし、進化の適応なのだったら、遺伝子に刻まれていても、生まれたときから脳の機能として内在していても、ぜんぜん不思議じゃないわ」


言い方はすこし固いけど、今回のNHKスペシャルと通じる内容が語られています。

ちなみに、作者は「良心」ということばを、別の場所では、こんなふうに定義しました。

「良心とは、要するに人間の脳にあるさまざまな価値判断のバランスのことだ。各モジュールが出してくる欲求を調整して、将来にわたるリスクを勘定し、その結果としての最善行動として良心が生まれる。膨大な数の価値判断が衝突し、ぎりぎりの均衡を保つ場所に、『良心と呼ばれる状態』はあるのさ。」

これまたむずかしい表現ですね。
でも醒めた書き方のようでいて、なにかを切実に希求しているようにも読めてしまいます。

けっきょくのところ「良心」は「遺伝的産物」なのか、それとも「社会的産物」なのか。
物語の中でも簡単に答えが出されるわけではありません。
読む側に鋭く切りつけ、重く問いかけてくるような感じがあります。

たとえばボランティアのような「利他的行動」。
その、いちばん根っこのところにあるものは何なのか。
何が人間をそのような行動に駆り立てるのか。
「衝突する価値判断が均衡を保とうとする」行動なのか、人間が人間であるために求められる「遺伝子に書き込まれた」行動なのか。
自分自身の内側をどこまでも深く見つめていったときに、最後にたどり着き出会うもの。
それは、7万4千年前にアフリカで生存の危機に立ち、それでも「協力し分かちあう」ことで生き残っていった、人類の祖先たちであるのかもしれません。

なお、この小説の作者は2001年に癌が見つかり、手術、入退院を繰り返し病魔と闘い続けて、2009年、34才で力尽きました。
限られた持ち時間の中で、彼は「人間」について考え尽くそうとしたのではないかと思います。
意識を研ぎ澄まし、研ぎ澄ましたその意識をはるかな過去まで遡らせ、あるいは遠い未来まで飛翔させることで、人類の可能性を探ろうとし続けた。
そのようにして走り抜けた人生だったのではという気がします。

それでは。

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淡くて水のような交わり

ぼくが卒業した高校の同窓会は、「淡交会」という名称です。
「君子の交わりは淡くして水の如し」。
「淡交」という言葉は、荘子に見えるこの句が元になっています。
「淡くて水のよう」というのは、淡泊であっさりしている、という意味ではありません。
水のようにいつまでもあきることがない、ということ。
いつまでもあきることなく親しむ、ということです。

きのう、文京シビックホールで「淡交フィルハーモニー管弦楽団」の演奏会に行ってきました。
母校創立110年を記念した演奏会です。
パンフレットによれば、「全国的に最も歴史のある高校卒業生オーケストラ」であるそうです。
団員は、年齢も職業もみんなさまざま。
今回の演奏会には、「九州から駆け付けて」きてくれた団員もいれば、「結婚、出産を終えて今回復帰した女性、三十数年ぶりに出演する団員、更には現役生二人を含む親子三人で出演している家族」もいるのだとのこと。

曲目は、まず早川正昭氏作曲の「祝典序曲」から。
早川氏は49回生です。大先輩にあたります。
他にはシベリウスの「フィンランディア」や、ベートーヴェンの「皇帝」など。
どれも熱のこもった2時間の演奏でした。

「フィンランディア」は、映画『ダイ・ハード2』の中で使われています。
「ダイ・ハード」シリーズの中でも粗っぽさが目立つ作品でした。
でもエンディングに流れる「フィンランディア」がその粗っぽさを鎮めている、そんな効果を生んでいました。
「ダイ・ハード」といえばマクレーン刑事。
今年はまだはじまったばかりだけど、この一年、彼のようにしぶとくあきらめず、生き抜きたいものだとつくづく思います。

同期・同窓との交わりも、とにかくみんなでダイ・ハードにがんばって、そしてしぶとく生き抜いて、いつまでも永く、あきることもなく続いていったらいいなと思いました。

それでは。

「成長しない」という成長

前回のつづきです。

ロートレックは、不幸な事故が元で下半身の成長が止まってしまいました。
それ以後、おそらくは、成長をつづける自我との間のギャップに苦しみつづけます。

そのいっぽう、「自らの意思で成長を止めてしまった少年」を描いた物語があります。
『猫を抱いて象と泳ぐ』 (小川洋子著・文春文庫)です。



主人公は11才の少年。彼には友人がいます。
そのひとりは、デパートの屋上動物園に連れてこられた子象の「インディラ」。
でも大きくなってしまったためにエレベータに入ることができず、そのまま屋上で生涯を終えます。
もうひとりは、彼の空想が生み出した女の子。
壁と壁との狭い間に閉じこめられたまま成長してしまい、出ることのできなくなったままミイラとなってしまう少女です。

大きくなってはいけない。
大きくなることは幸福なことではない。
そう心に決めた彼は、自らの意志で成長を止めます。
さまざまな出会いと別れを経て、チェスの天才棋士の再来と呼ばれるようになります。
「盤下の詩人」と噂されるまでになっていきます。

作品の中で「もの」へのフェティッシュなこだわりを書き続ける小川洋子。
たとえば『薬指の標本』での「指」がそうでした。
『余白の愛』でも、難聴に陥った「私」は、出会った速記者の「指」に惹かれていきます。
さらに『博士が愛した数式』では、一転して「数字」という「もの」への偏愛を美しく描き出していきます。
「もの」への一途なこだわりが、静かで澄明な世界へと道をつなげていくようにも思えます。

そしてこの物語では・・・たぶん、彼の「成長しない体」こそが「それ」にあたります。
「成長をしない」ということは、世の中に蔓延する汚穢を拒絶する、ということであり、同時に、「依り代」となって宇宙に偏在する「詩」をチェスの盤上に呼び寄せるということであったりもします。

「成長する」とはどういうことなのか。
そのことの意味を逆の面から考えてしまいます。
人は成長して成長して、けっきょくどこへ行き着くのだろう。
どこへ行きたいのだろう。
成長の行き着く果てに、いったい何を手に入れ、何を見たいのだろう。

ロートレックの「成長を止めた下半身」は、たしかに彼に苦悩と屈折をもたらしました。
でもまた、それがために世の中で蠢く「本当に醜いもの」を遠ざけることができたのかもしれません。
彼の作品に、他の誰にの元にも訪れることのなかった「詩神」を舞い降りさせたのかもしれません。

成長をしない、そのことで、少年もロートレックも、本当に行きたかった場所へ行き、本当に見るべきものを見ることができたのならばいいな、と思いました。



それでは。

ロートレックと「戦友」たち

昨年末、ロートレック展(三菱一号館美術館)に行ってみました。

元祖グラフィックデザイナーと言われるロートレック。
これは、有名な、「ムーラン・ルージュ」のポスターです。

ロートレック

中央の踊り子の、花が開いたようなスカートの白。
観るものの視線は、まずおのずとこの「白」に惹き付けられます。
そして、手前でシルエットになって身をくねらせる奇妙な男の踊り手。
反り返らせている右の手のひらが、踊り子の高く揚げた右脚、紫色の靴下を支えているかのような不思議な構図です。
一瞬、混乱する遠近感。
日本の浮世絵を見るのとまさに同じ感覚です。

ロートレックは、日本美術、とりわけ浮世絵への関心が大きかったとのこと。
このパンフレットに使われたポスターなんて、写楽の役者絵みたいです。

1

ロートレックが描いた、踊り子や娼婦を、今回の展示ではたくさん観ることができました。
くっきりとした輪郭線で描かれたその表情は、しばしばドキッとするほどにどぎつく誇張されています。
生活の苦しさや内に抱えた不満などを、ほんのわずかの描線で暴き出してしまいます。
ときにそれは内面深くに隠されている「醜さ」さえも露わにしているように見えてしまう。

でも、ロートレックにとって、たぶんそれは醜さとは対極にあるもの。
ただ自分に見えるものを、見えるとおりに描いただけだったのだろうと思います。
目に見えるものすべては彼にとってどれもこれも「いとしい」ものばかり。
「いとしさ」ゆえに、すべての輪郭線を「あるがまま」に描かずにはいられなかったのでは。

会場内では、喜多川歌麿の浮世絵《青楼十二時 続》も特別展示されていました。
ロートレックの描く娼婦たちのあとに観る歌麿の美人画。
そこに描かれたどの女性も、穏やかに満ち足りた表情を浮かべているように見えました。

歌麿の人生も、かなり浮き沈みのあるものだったようです。
でも、ロートレックが味わった「屈折」はまた格別なものでした。
ロートレック37年の生涯につきまとった「屈折」。
それは、生来の病弱に加え、少年時代の不幸な事故のため、下半身の発育が止まってしまったこと。
この事実を事実として受け入れるまでに、どれだけの苦しみを乗り越えなければいけなかったのか。
そもそも、乗り越えることができたのだ、といえるのか。
最後には自己処罰を課するかのように酒をあおり、死に到るまで身体を痛め付けます。
底の知れない闇の中で、つねにのたうち回っていたであろう彼の悲哀。

そんな彼に、「娼婦」たちのことはどう見えていたのか。
あらためてそんなことを考えてしまいます。
おそらくは幸福とはかけはなれた過酷な境涯の中、からだ一つで生き抜いていたパリの娼婦たち。
ロートレックにとってはきっと、なにものにも代え難い「戦友」のように見えていたのではないかな、と思いました。


それでは。

よくわからない話

何度聞いてもよくわからない話、というものがあります。
たとえばアサガオのつるは右巻きなのか左巻きなのかという疑問。
手元の植物図鑑によると、こんなふうに書いてあります。

「アサガオが左巻き、とするのが一般には普及しているが、見方によっては右巻きとなる。左手で棒を握って親指の方向が、横から見たつるの向きと合えば左巻きと説明されているが、これも絶対的なものではない。真上から巻いていく方向を見ると右巻き(時計回り)になる。木ネジのらせんの方向や、カタツムリの殻の巻き方の表し方などは、アサガオ左巻き説とは逆である」 (『野草・雑草観察図鑑』成美堂出版)

ということだそうで、結論として「あまり深入りすると混乱する」という忠告が書かれています。
立ち入ってはいけない領域は、つる性植物の世界にも存在しているということですね。

でも、世の中に「立ち入ってはいけない領域」なんてあるものかとばかりに、果敢に現地・現場に出向いていく人たちもいます。

そんな作家の手になるルポルタージュを読みました。
『からくり民主主義』 (高橋秀実著・新潮文庫)という本です。

この本で取り上げられているテーマは何かといえば・・・
たとえば「諫早湾干拓問題」であったり、「沖縄米軍基地問題」であったりします。
そして地元の人たちは、テレビや新聞を通して提供される報道や「世論」からはうかがい知ることのできない、とても入り組んだ事情を抱えています。
白か黒か、反対か賛成か、推進か阻止か。
明確に線引きしようした途端、境界は歪み始め、物事すべてが揺らいできてしまう。
そんな構造(この本では「からくり」と言っています)が次第に見えてきます。
見えてはきても、それは簡単に「結論」を促すようなものではありません。
求めれば求めるほど「結論」はするりと逃げていき、「結論」を下すことを拒むことが当面の結論だったりします。

この文庫本の解説で、村上春樹が著者について面白いことを書いています。

「高橋秀実さんはちょっと変わった人で、会うたびにいつも「いや、困りました。弱りました。」と言っている。(略)その話を聞いていると、たしかに高橋さんの言うとおりなのだ。彼が弱っているのが仕事上のことであれ、私生活上のことであれ、だいたいにおいて彼はすごく「筋のとおった」弱りかた、困りかたをしているのである。」

「筋をとおす」ためにまず必要なのは、いろいろな「立場」を正確に知るということ。
でも、知れば知るほど安易な「二者択一」が許されないものに思えてくる。
そうやって弱ったり困ったりしながら、ほんとうに本当のものの姿を捉えていかなければいけないのだろうなと思います。

アサガオのつるは、それを「アサガオを見る人間」の側から見るのか、それとも「アサガオの根元から」上を見上げるのか、によって結論を異にするのだそうです。
もしもアサガオに聞いてみたらなんと答えるのでしょうか。
たぶん、右巻きだろうが左巻きだろうが「どっちだっていいさ」ということになりそうな気がします。
きちんと水分を補給してのんびり光を浴び、しっかり子孫を残すこと。
アサガオにとって、それ以外は、ほんとにどっちでもいいことなんだろうなと思います。

それでは。

映画『RAILWAYS』~再生への契機~

映画『RAILWAYS 愛を伝えられない大人たちへ 』を観ました。

前作 『RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語』では、島根県の鉄道会社が舞台。
夢を追い求めるということ、夢をあきらめないで生きるということの大切さが、とてもまっとうに描かれていました。
たとえば運転手となった主人公が、酔っぱらいの介抱に手を焼くシーン。
当人は必死なのに、傍目には生き生きと仕事を楽しんでいるように見えてしまう。
「一生懸命」に働く。ただそのことが、乗客との信頼を築いていきます。
壊れかけていた妻や娘との絆も戻ります。
夢をあきらめていた若い運転手に、忘れていたものを思い出させます。
母親と息子、という関係を中心軸に置きながら、いわば「単線」の軌道をひたすら前へと進んで行くような映画でした。

今回の、シリーズ第2弾は、「複線」軌道を走る電車のイメージがあります。
前作ではそれほど描かれることのなかった妻との関係。
この映画ではそれがクローズアップされることに。

「仕事」を「仕事」として割り切り、プロとしてなすべきことを十分にわきまえて生きて来た主人公。
30年にわたる日々の積み重ねは、「仕事」を「仕事以上」のものにしています。
それは、「プライド」と呼ぶには面はゆいものかもしれません。
たとえば「ささやかな矜恃」に裏打ちされた手応え、のようなもの。

ただ、この主人公は、ひたすら運転席から見えるレールだけに集中して生きてきました。
そのことに馴れすぎてしまいました。
だから周囲の光景がいまひとつよく見えません。
生き方を変えようとしている妻の内面を慮(おもんばか)ることもできない。
新しく選び取った職業に向ける妻の決意。
そのこころざしを応援することができない。
彼には、眼の前の「じぶん」の軌道しか見えていなかったのです。

でも、あるとき、妻の仕事の、じぶんの知らないその役割が、他の誰かの支えになっていることを知ります。
妻の存在が、ひとつの命をつないだことを知る。
そのとき、主人公は、心を込めて妻に「敬礼」します。
とてもいいシーンです。
自分以外の誰かに心から「敬意」を払うことができたとき、主人公の人生もまた「敬意」を払われるに値するものになります。
ささやかな再生の契機となります。

いろいろなことを考えさせられる、ふくらみを持ったテーマ。
新年早々鑑賞するのに、最適な映画でした。


それでは。

初詣に願うこと

初詣は、例年どおり、亀戸天神に行って来ました。

亀戸天神の様子です。
仕事始めと重なって、参拝する中には、会社関係の人も大勢見受けられます。

3

人で賑わおうがどうしようがワレカンセズと、つがいの鴨。

4

とてものどかな光景でした。

さて、毎年、お参りする際の願い事は大体決まっています。

「じぶんと家族にとって、今年一年がよい年でありますように。」

拝殿前までの行列に並びながら、迷うことはありませんでした。
このあとに、「商売も繁盛しますように」と続けたいところだけど、あれもこれもというのはいくらなんでも虫が良すぎますね。
やはり願いはひとつに絞らないと。

ただ、毎年恒例のこの願い事、今年に限ってだけは、どうもあきたらない感じがあります。
身の回りだけではなく、もっと広い視野を持たなくてはいけないのでは。

あれこれ迷っているうちに、行列のいちばん前に。
お賽銭を放り投げ、柏手を二度打って・・・

お祈りをしました。
とっさに「主語」だけ省略して。

「今年一年がよい年でありますように。」

ほんとうに、誰にとってもよい一年になるといいですね。


それでは。


プロフィール

JIRO

Author:JIRO
東京下町で開業する司法書士です。
司法書士とはなにをする人か?
・・・一言では説明が難しいです。
といって二言三言あれば説明できるわけではなし。

このブログでは、日頃の出来事や読んだ本、観た映画などのことを書きつらねてみたいと思います。
あ、お仕事のこともすこし触れていきます。

(ホームページ http://www.noguchi-office.jp/)

相続なら江東区の司法書士 みどりの杜司法書士事務所(会社設立)

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