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「おわれて」見たのはいつの日か

三木露風作詞の「赤とんぼ」という童謡があります。
一番の歌詞は、

 夕焼け小焼けの赤とんぼ
 おわれて見たのはいつの日か


高校生のとき、国語の試験でこの歌詞の意味が出題されました。
変な問題だなあと思いつつ、イメージをふくらませました。

「おわれて」の意味がいまひとつよくわからなかったけど・・

稲の刈り取りが終わったばかりの田舎道。
その夕暮れ時にどこからともなく出現した赤とんぼの大群。
逃げても逃げてもどこまでも追いかけてくる赤い虫たち。
そんな赤とんぼに追われてあの夕日を見たのはもう遠い昔の出来事になってしまった。

こんな感じに「読解」したのでした。
もちろん、大はずれ。
「おわれて」は、漢字で書けば「負われて」。
つまり、

夕焼けの中、子守の姐(ねえ)やに背負われて、赤とんぼを眺めたことがなつかしい

という意味だったのです。
どうして「子守の姐(ねえ)や」かといえば、三番の歌詞が手がかりに。

 十五で姐(ねえ)やは嫁にゆき
 お里のたよりもたえはてた


昔は、「姐や」という、子守に雇われる女の子がいた。
しかも15才でお嫁にいってしまうのが定めだったのだ。

・・というようなことがわかってくると、なんだかしみじみとしてしまいます。
ほろ苦さを伴うノスタルジー。

ということで、「負われて」の意味を「追われて」と大勘違いしていたわけなんだけど、じつは同じように勘違いしていた人がいます。

『泣ける話、笑える話』 (文春新書:徳岡孝夫、中野翠著)の中で、中野翠さんが書いています。



この本によると、中野さんもやっぱり「追われて」だとばかり思っていたとのこと。
ただ、そのあとのイメージがぼくと異なっています。

赤トンボがワルガキとか大きな鳥とかに追われている光景を連想し、何だかコワい歌だなあと思っていた。映画のクローズアップシーンのように、ギョッとして怖れおののく赤トンボの眼玉を思い浮かべてしまったのである。

追われているのは、「私」ではなく「赤トンボ」のほうなのでした。
童謡の歌詞ひとつといえど、思い描くイメージは人さまざま。
それぞれの幼児体験を反映しているのでしょうか。
あるいは、その後の人生を垣間見させる「予知夢」のようなものであったのかも・・・
・・・って、どんな人生なんでしょうね、いったい。


それでは。

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『KORIN展』を観る~根津美術館のカキツバタ

南青山にある根津美術館に行ってきました。
地下鉄表参道駅から徒歩5分ほど。
いま、『KORIN展』を開催中です。

KORIN展

根津美術館所蔵、尾形光琳作の国宝「燕子花(かきつばた)図屏風」。
加えて、メトロポリタン美術館から海を越えて渡ってきた「八橋図屏風」。
「燕子花図」から約10年後に、光琳が同じ主題のもとに描いたものです。
このふたつが同時に展示されるという特別展。
「100年ぶりの再会」が謳い文句です。

会場に入るとすぐの正面に、「燕子花図」と「八橋図」が横に並んで展示されています。
圧巻でした。

シンプルでリズミカルな構図の中、群青と緑青の対比が美しい「燕子花図」。
いっぽうの「八橋図」は燕子花を斜めに横切る橋のデザインが目を惹きます。
ジグザグに走り画面を分断する橋のかたちは、晩年の光琳によぎる不安や孤独の陰りを現すようにも見えます。
開催初日だったけど、それほど混雑はしていません。
ゆったりと鑑賞できて大満足でした。

根津美術館を訪れる楽しみのひとつは、アップダウンのある日本庭園の散策です。
池の向こう側には紅葉を垣間見ることもできます。

根津美術館

あちらこちらにはゼンマイが生えていました。
都会の真ん中とは思えないほど静かな空間です。

ゼンマイ

水辺に咲く有名なカキツバタの群生はまだ見ることができませんでした。

燕子花2

これは一昨年の5月中旬に訪れたときの画像です。

燕子花1

「燕子花図屏風」そのままのようなカキツバタの花の群青色。
あと2週間もすると見頃を迎えるのではないかと思います。


それでは。



「怒り」についての本2冊

2011年芥川賞受賞作の 『苦役列車』 (西村賢太:新潮社)を読みました。
キーワードのひとつは「慊(あきたらな)い」という言葉。
なにごとについても十分とは思うことができない。
思うことができない底から不満、憤懣が吹き上げてくる。
そういう感情です。

この人の作品はひとつ読むと次から次と立て続けに読んでしまいます。
日本文学伝統の「私小説」。
その枠をぶち破るような全開のパワーに圧倒されるせいなのでしょうか。
年下の女性の「なつかしい汗のにおい」がしみついた蒲団と夜着に顔を埋めて
泣く田山花袋の『蒲団』が、なんとも可愛らしいものに思えてきてしまう。

読んでいて興味深いのが、「怒り」のプロセスの描写です。
最初はささやかな芽だったものが、じっとりと湿気を含んでふくらみ、ついには忿怒の固まりが
溶岩流のようにどろどろとあふれ出してくる、そのプロセス。

たとえば 『暗渠の宿』 (新潮文庫)という作品に、こんな描写があります。
同居している女性に「生麺タイプのラーメン」が食べたいと言って、買ってきてもらう主人公。
ところがそれは彼が言ったのとは違うメーカーのもの。

「何んだい、ぼくが買ってきて、って言ったのは、これと違うぜ。売り切れてたの?」

この時点ではまだ笑いながら優しく聞くだけの余裕があります。

すると女は、今初めてこの世に生まれ落ちてきたような表情で、
「え、よく見なかったけど、これじゃなかったの?」
「違うよ。よく見てから買うもんだよ。」


本人、みそ味がよかったのに、とんこつ醤油だったのが気に入らなかったんですね。
湧き立ついらだちの芽。
それでもなんとか腹立ちを押さえます。

しかし、女がパックの裏面の「作り方の手順」などを「真剣な面持ち」で読み出しているのを見て、
イヤな予感に襲われます。

「おい、麺は固ゆでの方がうまいんだぜ。少し早目に上げてくれよな」

いらだちの泡がそれとわかるほど、ふくらんできてますね。
そして待たされた末に、けっきょく出来上がってきたのは・・・・

「ただでさえ茹で時間の超過気味だった麺はダブダブにのび、私にとってはもはや見た目からして
不愉快な代物になっていた。」


それでもかろうじて文句は言うまいと努力します。
努力して、二口、三口と啜り込んでみます。

「その食えぬ程ではないにしろ、決して納得ゆくものではない面白くなさは、何から何まで私の言
に背いたこの女への怒りの感情に同化し・・」


もう、噴火寸前ですね。

「・・・そこへよせばいいのに女が、「どう?」なぞ、何か褒め言葉でも期待するような口調で
聞いてきたのがたまらなく癪にさわり、つい反射的に箸をどんぶりの中に放ると・・」


ついに怒りのエネルギーが臨界点を超えました。

「何が、どうしたの、だ。どうしたもこうしたもあるもんか。よくもこんな生ゴミを、このぼくの
夕食に出しやがったな!」


あとは引用するのがためらわれるような罵詈雑言が3ページほども続きます。3ページです。

腹を立てて怒る、というのは、瞬発的なもののように思えることもあります。
でももし顕微鏡のねじを調節し、レンズをプレパラートに近づけるようにして観察することができたなら、みんなこういう経過をたどって生まれているのかもしれないなあと思います。
原因が、生麺が「みそ味」か「とんこつ醤油」か、というようなことであれ、社会正義の根幹に関わるような事柄であれ。

小池龍之介という若い住職さんが書いた『もう、怒らない』という本があります(幻冬舎文庫)。
この中で、怒りのエネルギーはどのように生まれるのかについて、どう書かれているかというと・・・

怒りは、「怒鳴る」とか「なじる」などの行動として表れますが、その前段階で、心は「ムカッ」と
したり「イラッ」としたりしています。この、不機嫌になるという現象が、怒りの始まりです。


たしかに、生麺が「みそ味」でなくて「ムカッ」としたことがことの始まりでした。
このように、怒りのプロセスについて、西村賢太氏とはまったく異なるアプローチで、順繰りに説明していきます。

心は強い刺激が大好きなので、快でも不快でもない、ありきたりでニュートラルな感覚をまったく
好みません。


そして、「煩悩エネルギー」をいかにしてコントロールするのかについて、諄々と説きます。
「慊(あきたらな)い」をキーワードにする西村賢太作品とは、ここにきて、まっこうから対立する
ように見えます。

もしこの両者が「みそ味」か「とんこつ醤油」かで衝突したら、どういう結果に終わるんでしょうか。
「慊(あきたらな)さ」を前面に掲げてはばかるところのない西村氏がわずかに優勢のように思えてしまうんだけど・・・


それでは。


春の椿事

先日、コーヒーショップでランチセットAを注文しました。
「サーモンとブロッコリーのトマトソースパスタ」とホットコーヒー。
子供の頃は「ブロッコリー」が苦手だったけど、最近、食べられるようになったのです。
苦手な野菜をひとつずつ減らして、そうやって人は成長していくんですね。

それはともかく、待つことしばし。
テーブルに料理が置かれました。
でも、じっとお皿を見てみると、なんだか違う。
いや、ぜんぜん違う。
第一、ブロッコリーがない。
注文を間違えられてしまったみたいです。

一瞬、「取り替えてもらう」ということを考えたけど、その場合、この料理は、廃棄処分になってしまうでしょう。
仕方がないことかも知れないけど、すこし気が咎めます。
それによく見ると、目の前の料理もなかなかおいしそう。
ランチセットBの、「旬の竹の子と豚肉の和風パスタ」というメニューのようです。
まあ、考えてみれば、カレーうどんを注文したら味噌ラーメンが出てきた、というわけではありません。
パスタを頼んだらパスタが出てきただけのこと。
騒ぐほどのこともないのでは。

一秒ほどの逡巡のあと、フォークに「旬の竹の子と豚肉の和風パスタ」を巻きつけて、食べ始めたのでした。
その直後。
お店の人がさささっとテーブルに近づいてきました。
手には「サーモンとブロッコリーのトマトソースパスタ」を携えています。

「申し訳ありません。ご注文を間違えました。お取り替えいたします・・」

そんなこと、いまさら言われても。
もう食べている最中だし。

「す、すみません、もう手をつけちゃいました・・これでいいです。すみません」

なぜだかぎゃくに謝ってしまうことに。
そもそも最初にミスをしたのはぼくではなかったはずなんだけど、なんだか変な成り行きになってしまいました。
やっぱり、ミスはミスとして、その時点できちんと指摘すべきだったのかもしれないですね。

以前、路線バスに乗っていたときのこと。
左折すると思っていたら、バスはそのまま直進していきます。
間違えたバスに乗ってしまったのだろうか。
乗るときに行く先よく確かめなかったのかもしれない。
いや、そうに違いない。
・・と、降車ボタンを押そうとした刹那、中年とおぼしき女性の鋭い声が車内に響きました。

「運転手さん!道!間違えてる!!」

この一喝を受けて、バスは急停車。
やっぱり運転手が道を勘違いしていたんですね。
しかし、さすがはプロの運転手。
あわてず騒がずマイクで詫びると、おもむろに「神業的なUターン」という見せ場をつくってくれました。でもそれはまた別の話です。

ここで学ぶべきは、ミスを見逃さず瞬間的に指摘した、その中年女性の「たくましさ」です。
この指摘を可能にするのは、「自分は正しい」という信念であり、体を貫く中心軸をしっかり固定して動じない態度なのではないかと思います。
世間をつつがなく渡っていくためには、この「たくましさ」、見習うべき点が多いのではないでしょうか。

そういう意味では、注文と違う料理が出されたときの対応については、もうすこし毅然としたものであったほうがよかったのかも。
ただ、「旬の竹の子と豚肉の和風パスタ」が予想外に美味しかったし、コーヒーもゆっくり飲めたし、どうしても「まあいいや」と思ってしまいます。
ブロッコリーは克服しても、いまひとつ成長しきれない自分を感じてしまうのでした。


それでは。

プロフィール

JIRO

Author:JIRO
東京下町で開業する司法書士です。
司法書士とはなにをする人か?
・・・一言では説明が難しいです。
といって二言三言あれば説明できるわけではなし。

このブログでは、日頃の出来事や読んだ本、観た映画などのことを書きつらねてみたいと思います。
あ、お仕事のこともすこし触れていきます。

(ホームページ http://www.noguchi-office.jp/)

相続なら江東区の司法書士 みどりの杜司法書士事務所(会社設立)

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