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出家する西行

NHKドラマ『平清盛』について、前回の続きです。

平忠正斬首の場面で、物陰から合掌して見守る西行の姿がありました。
出家以来、登場回数が減ってしまっている西行。
もう少したくさん顔を見せてほしいなと思います。

その西行(佐藤義清)、平清盛とは同年(1118年)の生まれです。
同じ時代を生き、「北面の武士」として仕事仲間だった時期もあります。
平家一門の興亡をすこし離れた場所からつぶさに見つづけて生きた西行。
ドラマでは、その出家に至る事情が、興味深く描かれていました。

なぜ西行は出家したのか。
これについては、仏教に深く帰依したからであるという説や、人の世の無常が身に沁みて出家遁世を遂げたのだという説などがあります。
無二の友人の急死に衝撃を受けたことが原因とされる場合もあります。
さらには、「恐れ多い高貴な」女性との報われない恋が原因だったという説も。

このドラマでは、おもにこの「悲恋説」に基づいて描かれていました。
その相手の女性も、待賢門院璋子とはっきり特定しています。
白河上皇に寵愛され、鳥羽天皇の中宮となり、のちの崇徳天皇や後白河天皇を生んだ女性ですね。

さて、出家の決意を清盛に告げる義清(西行)。
そのとき、唸るようにして詠むのがこの歌です。

 身を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人こそ捨つるなりけれ

現世(うつせみ)を棄てて、わたしは今日、出家をしよう。しかし、何も棄てようとはせず、現世にしがみついている人間のほうが、本当に大事なものを棄てているのだ。偽りの中に生きているのだ・・・
というような意味でしょうか。

ただ、二度と叶うことのない逢瀬、禁断の恋に耐えきれず、ということを出家の動機とするのであれば、この歌をここで詠むことは、すこし不自然な気もしました。
自分はすべてに思い切りをつけて出家するが、現世にとどまるあなた達のほうは・・・
この歌からはそういったニュアンスを感じてしまうからです。

単にきっぱりとした自己の「決意」を表明するのであれば、たとえばこんな歌はどうでしょうか。

 惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは 身を捨ててこそ身をも助けめ

棄てて惜しいものなど現世にあるものか。いまはこうするしか他にないのだ・・・
という心情がストレート感じられるような気がします。

また、愛しい人への断ち切れぬ想いを率直に漂わすならば、たとえばこんな歌。

 おもかげの忘らるまじき別れかな 名残りを人の月にとどめて

忘れようとしても忘れることなどできはしない、そのようなお別れなのですね。貴女のその面影をどんなに名残り惜しく月の姿にとどめてみたとしても・・・
というような意味でしょうか。

「棄てる」といいながらなお棄てきれない惑い。
人間西行のぬくもりが感じられます。

そもそも「身を棄てる」とは、どういうことなのでしょうか。

辻邦生 『西行花伝』 (新潮文庫)には、こんなふうに書かれています。



「この世には人々がいるだけ、それだけ公正な生き方があるのです。すべての人は自分が正しく生きていると思っています。それをどう塩梅し、より広い人たちが安堵を得るかが大事です。(略)」

(略)
「では、何をしてもよろしいのでしょうか」

「いいでしょう。ただしその際、正しいことをしていると思ったり、そう言ったりすべきではないでしょうね。むしろそんなものはないと思い定めるべきですから。あなたも何が正しいかで苦しんでおられる。しかし、そんなものは初めからないのです。いや、そんなものは棄てたほうがいいのです。正しいことなんかできないと思ったほうがいいかもしれません。そう思い覚ってこの世を見てごらんなさい。花と風と光と雲があなたを迎えてくれる。正しいものを求めるから、正しくないものも生まれてくる。それをまずお棄てなさい」



身を棄てることで「禁断の恋」から逃避する。
そう単純に説明できるようなことではないのだろうなと思います。
すべてを棄て去ることで「迎えてくれる」ものを、西行は信じることができたのかもしれません。

それでは。


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遊びをせんとや生まれけん

NHK大河ドラマ 『平清盛』 を、大変興味深く観ています。
ただ、視聴率はふるわないらしいですね。
ややこしい時代の入り組んだ人間関係を描く物語だから、仕方がない面もありそうです。
前々回では、「保元の乱」の顛末が描かれていました。

保元の乱(1156年)と平治の乱(1159年)。
年号だけは語呂あわせでいまだに覚えています。

「ひとひとごろごろ保元の乱 3年後に平治の乱」

「いい国つくろう鎌倉幕府」ほどポピュラーではないのかもしれないけど、なぜか覚えやすかったですね。

ともあれ、この二つの内乱、敵味方の人間関係が錯綜していて、受験勉強レベルでは訳が判りませんでした。
日本史のセンセイも、丁寧に解説はしてくれなかったし・・・

でも、今回、このドラマを観ることで、親子・兄弟・叔父甥同士が、なんで複雑に対立してしまったのか、とてもすんなりと理解できました。
清盛の叔父・忠正が崇徳上皇側に走った動機など、想像力を思うさま駆使して描かれています。
また「悪左府」と怖れられていた藤原頼長の末路を見れば、「たけき者も遂にはほろびぬ、 偏(ひとえ)に風の前の塵に同じ」という、おなじみ「平家物語」のフレーズを先取りしているかのようでもありました。

さて、このドラマでは、 「あそびをせんとや生まれけむ」 という今様が、全体を貫くメインテーマに据えられています。

今様とは、当時の都を中心に流行した歌謡のこと。
後白河法皇が編纂した 『梁塵秘抄』 という歌詞集におさめられています。
この『梁塵秘抄』が大胆に現代語訳されている本を読んでみました。



「あそびをせんとや生まれけむ」の歌は、冒頭、こう訳されます。

遊ぼうよ 遊ぼうか
夕暮れまではまだ遠い
路地には子どもがまだいっぱい
(略)


「遊ぶ子どもの声きけば わが身さえこそゆるがるれ」の部分については、こうです。

遊ぶ子どもの声聞けば
体のしんから揺れてくる
遊び心がむずむずと
遊ぼうよ 遊ぼうね
揺らぎ 揺れてく わたしの体


野口雨情作詞の童謡みたいで、いい感じだな、と思いました。
この今様が、『平清盛』というドラマの中で、今後どのように意味をふくらませていくのか。
ちょっと楽しみですね。

また、このドラマに絶えず伏流するものに、清盛がことあるごとに口にする「おもしろう生きたい」というセリフがあります。

これを聞くと、幕末、長州藩の志士、高杉晋作が辞世として言い残したという 「おもしろきこともなき世をおもしろく すみなすものは心なりけり」 という句を思い起こさせます。
もっとも、下句は別の人が付けた、という説が有力のようですが・・

ともあれ、ドラマでは、幕末動乱を生きた高杉晋作と、武士勃興の世を駆け抜けた清盛とを、同じような心性を持つ人物として描こうとしているような気がします。
描ききってくれればいいなと思います。

ちなみに、高杉晋作が作者と言われる、 「三千世界の鴉を殺し 主(ぬし)と朝寝がしてみたい」という都々逸があります。

川島雄三監督 『幕末太陽伝』 (1957年)という映画の中で、高杉晋作に扮した石原裕次郎がこの自作(とされる)都々逸を口ずさみます。

「三千世界」というのは「全宇宙」というような意味。
「三千世界の鴉」というのは、「幕藩体制を維持しようとする守旧派勢力の連中」というような意味にもとれるのでしょうか。
そういった輩(やから)を一掃し、自由を謳歌できる世の中で、思う存分に羽ばたきたい。
そんな思いが込められているのかもしれません。

清盛にとっての「三千世界の鴉」とは何を指すのか。
おそらく、公家であり藤原摂関家であり、そして源義朝を中心とする源氏の勢力だったのでしょう。

ドラマはこのあと、「3年後に平治の乱」の、その天下分け目の内乱に向けて進んでいきます。
清盛と源義朝、サバイバルを賭けたラストマッチ。
すこしわくわくしてきます。

それでは。

ゴーギャンとミイラと『月と六ペンス』

前回の続きです。
『インカ帝国展』で観た一体のミイラから思い出すもの。

それは、3年前、東京国立近代美術館で開催された『ゴーギャン展』で観た、一枚の絵でした。
そのとき購入したポストカードが、これ。

ゴーギャン

139×375cmというサイズの、壁画のようにもみえるこの大作。
タイトルは、 『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』 という哲学的で深遠なものです。
太宰治だったら、「生まれて、すみません」などというセリフがあとに続きそう。

さて、この絵画の左部分に描かれている老婆。
近づきつつある「死」を怖れるかのようにうずくまっています。
両手を頬にあてているポーズは、ムンクの『叫び』のようでもあります。

『インカ帝国展』で出会うミイラは、この老婆にそっくり。

調べてみると、この絵画の老婆は、ゴーギャンがフランスの博物館で観たベルーのミイラにインスパイアされて描いたもののようです。
ゴーギャンが数年間、ペルーに住んでいたこともあり、いくつもの点が次々とつながっていくような気がします。

さて、このゴーギャンをモデルにして書かれたとされる小説があります。
サマセット・モームの代表作 、『月と六ペンス』です。



この物語の終盤、「尋常ならざる絵」として語られる絵画があります。
主人公の一生が「その絵を描くための準備期間だったのかもしれない」とさえされる絵画。

この絵を観た老人が語ります。

「奇妙で奇怪な絵だ。この世の始まり、エデンの園、アダムとイブ……その幻想かな。男、女、人体の美の称揚。崇高で、冷淡で、愛らしくて、残忍な自然への讃歌。宇宙の無限と時の永遠という、思うだに恐ろしい感覚を与える絵だった。描かれているのは、日常、どこででも目にする木なんだ。ココヤシに、パンヤンノキに、鳳凰木に、アボカド。あれ以来、その木を見るわしの目が違ってきた。なんと言うか、そこに霊と神秘が宿っていて、いますぐにでもこの手につかめそうなんだが、つかもうとするたびにするりと逃げていく。そんな感じだ。(略)」

この文章を書くとき、サマセット・モームの脳裏にあったのは、ゴーギャンの描いた、この大作絵画だったのでは。

「宇宙の無限と時の永遠」。
『インカ帝国展』の5体のミイラも、今、そういう場所にいるのかもしれません。
「時の永遠」にたゆたう。
それは「思うだに恐ろしい」ことなのか、安らぎに包まれたものなのか。
答えはいったい、どっちなんでしょうね。
展示ケースにうずくまるミイラたちには、もう分かっているはずだと思います。


それでは。


インカ帝国から来たミイラ

上野の国立科学博物館で、 「インカ帝国展」を観てきました。

はじめて知って驚くことの多い展示内容でした。
たとえば「キープ」と呼ばれる結び縄。
当時のインカ帝国には、江戸時代の「飛脚」みたいな制度があったそうです。
そのときに情報の伝達をしていたのが、この、結び縄。
必要な情報を「縄の結び目」によって数値変換し、お互いにデータのやりとりをしていたわけですね。
「0」と「1」との二進法で情報を記述する現代のコンピューター。
その、遠い起源を見るような気がしました。

見どころのひとつは、「マチュピチュへの旅」と銘打たれた、3Dスカイビューシアター。

「3Dメガネ」かけて着席すると、すぐに上映が始まります。
眼前に空中を遊弋する鷹が迫ってきます。
鷹と一緒に大空を漂えば、やがて眼下に現れるマチュピチュ遺跡。
ここで鷹とはお別れし、遺跡の入口にふわりと降り立つと・・・・
ゆっくりと進むに連れて「手にとるように」見えてくる遺跡内部の構築物。
まるで生き霊になって、その場を彷徨っているような気分。
「3D映像」が持つ臨場感を、とても素朴な、シンプルなかたちで楽しめました。

思わず息を呑んでしまうのが、日本で初公開という5体のミイラたち。
展示ケースの中、それぞれ照明を浴びてうずくまっています。
みんな、もの言いたげに、何かを訴えようとしているように見えます。
いのちのあるとき、どんな歓びを歓び、どんなかなしみをかなしんでいたのか。
浮かべるその表情からは、うかがい知ることができません。

確かなことはひとつだけ。
何百年も経たのちに、はるばると海を渡って見知らぬ遠い国まで連れて来られるとは、彼らのうちの誰一人、夢にも思っていなかっただろうということ。
ましてや、多くの人にそこで「展示」されることなど、望んでもいなかったでしょう。

そう思うと、密集する見学者の肩越しに展示ケースを覗き込むことが、後ろめたくなってきます。
所詮、博物館で「好奇心」を充たそうとするならば、こういった「後ろめたさ」は蹴散らして前へ進まなければならない。
そう開き直るしかないのでした。

ところで、展示されている中に、どこか見覚えのある姿勢でうずくまるミイラが一体。
そのことについては、また次回に書いてみたいと思います。

それでは。


「逃げる」ということ

祖父や祖母というのは、ものごころが付いた最初から「祖父」であり「祖母」でした。
自分が生まれるずっと前から、「祖父」も「祖母」も、同じ顔・同じ姿で存在していたように思えてしまう。
でも、考えてみれば、そんなことのあるはずがありません。
それぞれに「子供の頃の夢」があり、「青春」があり、「恋」や「出会い」があった。
なのに、孫である自分は、そのことについて、ほとんどなにも知ることがない・・・

というようなことをあらためて考えさせられてしまう、そんな本を読みました。
角田光代著、 『ツリーハウス』 です。



新宿で中華料理屋を営む、親子三代の物語。
祖父母の出会いの場所となった満州への旅を軸に、「昭和」の時代を駆け抜けた一家の歴史が語られます。
安保闘争やバブルの狂奔が、家族それぞれを渦に巻き込んでもいきます。

物語の核にあるのは、 「逃げる」 という言葉。
角田光代の作品の中で、登場人物は、しばしば「逃げる」ことを選びます。
『八日目の蝉』 でも、主人公は逃げ続けました。
「逃げる」ことは、「追い求める」ことへとリンクしていきます。

この小説でも、「逃げる」ことの意味が問われます。
祖母は、勤めていた会社を辞め、次のステップを踏み出しかねている孫に向かっていいます。

「でもね、どこにいったって、すごいことなんて待ってないんだ。その先に進んでも、もっと先に進んでも、すごいことはない。そうしてね、もう二度と同じところに帰ってこられない。出ていく前のところには戻れないんだ。そのことをようく覚えておきな」

逃げずに踏みとどまれ、と諭しているようにも読めそうですね。
でも、必ずしもそういうわけではありません。
祖母が身を置かざるを得なかった過酷な状況の中で、彼女自身はためらうことなく「逃げる」ことを選び続けてきたからです。
その「選択」は不可避なもの、他のいかなる手段によっても代替不能なものでした。
満州への旅を終えた祖母は、孫に言います。

「だってあんた、もし、なんてないんだよ。後悔したってそれ以外にないんだよ、何も。私がやってきたことがどんなに馬鹿げたことでも、それ以外にはなんにもない、無、だよ。だったら損だよ、後悔するだけ損。それしかなかったんだから」

人生の節目節目で、いちども逃げたことがない、という人は、それほど多くないのではと思います。
ただ、それがどのような状況での選択であったのであれ、後悔はしない、後悔はできない、という覚悟は必要なんでしょうね。
そして、その選択の先には、例えほのかでもいいから、「希望」が見えていなければならない。
それが見えてさえいれば、逃げながらであっても、その光を追い求めることができる。

この小説では、オウム真理教事件に巻き込まれそうになる家族も描かれます。
1995年、日本を震撼させた地下鉄サリン事件。
先日、17年間の逃亡生活の末に、その女性容疑者が逮捕されました。
手配写真のふっくらとした面立ちとは別人のような容貌でした。

「逃げる」ことはやむをえない選択だったのか。
「後悔」とは無縁の逃亡だったのか。
逃げることで何かを追い求めることはできたのか。
行く先を照らす「希望」は見えていたのか。

もし許されるのであれば、彼女に尋ねてみたいような気がします。


それでは。

プロフィール

JIRO

Author:JIRO
東京下町で開業する司法書士です。
司法書士とはなにをする人か?
・・・一言では説明が難しいです。
といって二言三言あれば説明できるわけではなし。

このブログでは、日頃の出来事や読んだ本、観た映画などのことを書きつらねてみたいと思います。
あ、お仕事のこともすこし触れていきます。

(ホームページ http://www.noguchi-office.jp/)

相続なら江東区の司法書士 みどりの杜司法書士事務所(会社設立)

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