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赤鬼はなぜ泣いた

前々回、「友情がテーマの物語とは」と身近な数人に尋ねたら、『走れメロス』の名が挙げられたことについて書きました。
おなじ問いかけに、ぼくだったらなにを選ぶのだろう。
……とじっくり考えてみました。
頭に浮かび上がったのがこの作品です。



たくさんのこどもたちに読まれ続けている絵本ですね。

人間と仲良くなりたいあかおに。
でも、疑われ、怖がられて、だれも近づいてきてくれません。
それを知ったあおおにが、一計を案じます。
自分が悪者になればいい・・・
かくして人間に受け入れられたあかおに。
でも、ふたりが友達であることを、人間に知られるわけにはいきません。
あおおには、あかおにのために身を引くことを選択します。

 あかおにくん、きみと ぼくと いったり
 きたり して いては、ひとは みんな
 きみが わるいと おもうから、ぼくだけ
 やまを でて いく ことに きめました。
 どうぞ ひとと なかよく くらして ください。
 では さようなら。いつまでも たっしゃで
 おいで。どこに いようと かわらない
 きみの ともだち。     あおおに


このお話に心を揺さぶられるのは、あおおにの行為が、徹底して「無償」であることです。
与えるだけで、いっさいの見返りを求めない。

あかおにには、もはやあおおにに、なにもしてあげることができません。
「ありがとう」のひとことさえもいえない。

すこし前のブログで、おたがいにかけがえのないものを「交換」しあうことで育まれていく友情のことを書きました。
でも、この物語のどこにも、「交換」はありません。

あるのはただ、あおおにの自己犠牲だけ。
そして、唐突なわかれ。
あかおにのこころには、どこにも行き場のない悔いがきざまれます。

『泥の河』という映画のことを思い出します。
以前、このブログですこし触れたこともある映画です(「『泥の河』に流れていったもの」)。

この映画では、「きっちゃん」は「のぶちゃん」に、「友情の証(あかし)」を差し出します。
火を付けて生きたまま燃やされる蟹。
貧しい「きっちゃん」にとって、それは精一杯の贈り物でした。
でも「のぶちゃん」はその「受け取り」を頑なに拒否します。

そして翌朝訪れる、突然のわかれ。
「きっちゃん」の乗った廓舟は、泥の河を下っていきます。
見え隠れする舟を川沿いに追いかけ続ける「のぶちゃん」。
いくら走っても、声をかぎりに呼んでみても、「きっちゃん」はもう二度と戻りません。
ふたりの間で「交換」が果たされる機会は、永遠に失われます。

「交換」を遮断され、「かなしみ」で封印され、「わかれ」によって完結する友情。
あかおにや「のぶちゃん」には、とてもつらい体験でした。
でも、たとえつらいものであっても、それはふたりの心の中で輝きます。
ずっと輝き続けるはずです。

どんな色で輝くのかといえば……
たぶんそれは、「琥珀色」ではないかと思います。


それでは。


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すじ雲と金木犀

数日前、自宅近くの公園で、金木犀がいっせいに咲きました。

金木犀

ずらりと並んだ金木犀の樹木。
「徐々に」というのではなく、気がついたら「いっせい」に花が咲いていました。
うっかり咲き遅れる花がないように、みんなで周りに声をかけあって咲いているのかもしれません。
スパンコールとなって地面に散り敷かれるそのときも、やっぱりみんな「いっせい」に声をかけあうのでしょうか。

もやもやとたちこめる金木犀の香は、秋も佳境に入った、という気分に包みこんでくれます。
いつまでも立ち止まっていたくなります。
ただぼんやり、とどまっていたくなります。

見上げると、天空高く、一面がゼブラゾーンにおおわれていました。

雲

この空の回廊をわたって行けば、どこへたどり着くことができるんでしょうね。
でも、ことさら急ぐ理由はなにもありません。
しばらくはどこにもわたらず、この場所にとどまっていたいなと思います。



それでは。

「交換」し「交感」して「交歓」する

前回のつづきです。

太宰治にとって貴重な「友人」だったのだろうなといえるのは、井伏鱒二です。
井伏のほうが11才も年上だし、性格も作風も全然違う。
でも、だからこそ、この二人だけに通い合うものがあったのかもしれません。

太宰の『富嶽百景』の中に、こんな記述があります。

「とかくして頂上についたのであるが、急に濃い霧が吹き流れて来て、頂上のパノラマ台という、断崖の縁に立ってみても、いっこうに眺望がきかない。何も見えない。井伏氏は、濃い霧の底、岩に腰をおろし、ゆっくり煙草を吸いながら、放屁なされた。いかにも、つまらなそうであった。」

「いかにも」そういうことがあったんだろうな、と思わせられる光景です。
井伏鱒二なら、そんなとき、たしかに「つまらなそう」に放屁するんだろうな、と。

ただ、このお話は、どうも創作、フィクションではないか、と言われています。

文中において「放屁なされた」と書かれた井伏鱒二が、事実無根であると抗議すると、太宰は「いや、たしかになさいました」といい、さらに「一つだけでなく、二つなさいました」といい張って聞かなかった。極力そう主張するので、井伏は自分でも、したかもしれない……と錯覚を起こしだし、ついには実際に放屁したとさえ思うようになった、という。『富士には月見草』長谷部日出雄:新潮文庫)

まあ、真相はどちらなのか、いまとなっては誰にもわからないけど、わかったところで特に文学史が書き換えられる、というほどのことではなさそうです。
ただ、太宰にとって井伏鱒二という人は、なにを書いてもたいがいのことは許される、甘えることのできる存在だったんだろうな、ということだけはうかがえます。

前々回ブログに書いた映画『最強のふたり』でも、黒人青年ドリスは、車椅子の大富豪フィリップに言いたい放題。
無邪気な「悪ふざけ」に、最初は苦虫をかみつぶすフィリップ。
でもすぐに表情は苦笑いに変わり、やがてすべて受け入れてしまう。
「受け入れられる」そのことで、ドリスの中にもまた新たな感情が芽生え、それをドリスがまた感受する……
「友情」が成立していくための、ひとつのプロセスみたいなものなんでしょうね。

「放屁」といえば、小津安二郎監督の映画『お早よう』(1959年)に、印象的な場面がありました。
ここに登場する子供たちの間で、あることがはやっています。
おならで挨拶を交わす、という遊びです。
おでこを「ちょい」と押すと「ぷ」。
この技の達人が、子供らの中では高い尊敬を得ています。
「おなら」は、幼い「友情」の交歓を寿ぐかのように、かわいらしい音色を鳴らします。

谷川俊太郎氏に、『おならのうた』という詩があります。
子供たちに大人気の詩です。

 いもくって ぷ
 くりくって ぽ
 すかして へ
 ごめんよ ば

 おふろで ぽ
 こっそり す
 あわてて ぷ
 ふたりで ぴょ


最後の、「ふたりで ぴょ」というのがよくわからないんだけど……
でもこの「ふたり」は、きっと大の仲良しになっていくんでしょうね。

お互いになにかを「交換」しあう。
友情の成り立ちにとって、それはとても大事なことなんだろうと思います。
交換するものはなんでもありです。
「やさしさ」でも「思いやり」でも、場合によっては「放屁」でさえも。


それでは。


『走れメロス』を読み直してみました。

前回、映画『最強のふたり』について、「友情」がしっかり描かれていて楽しかった、という趣旨のことを書きました。
映画でも文学でも、「友情」は常に変わらぬテーマであり続けていますね。

それでは、「友情」をテーマにした文学作品、と言われて、思い浮かぶものは何でしょうか。
身近にいる人を対象にアンケートしてみました。
結果は、次のとおり。
  太宰治『走れメロス』・・・・・・1人
  とくに思いつかない・・・・・・・2人

対象者3人中、1人が 『走れメロス』 を挙げました。
日本の総人口を1億2千万人とすると、統計的には、4千万人の人が、『走れメロス』を「友情」を描く物語の代表として考えていることになります。
恐るべき数字ですね。

ということで、この小説をひさしぶりにきちんと読み直してみました。

「メロスは激怒した。」と書き出されるこの小説、ストーリーは快調に進みます。
暴君に捕らわれ、死刑を宣せられたメロス。
ただ、どうしても心に残るのは、妹の結婚式です。
なんとしてもそのためにふるさとに戻りたい。
そこで、暴君と交わした約束は・・・
「親友を人質に残して、三日目の日暮までに戻ってくる」
というもの。

親友はメロスを信じ、メロスも親友のために、不安と戦い、自己嫌悪を抑えつけ、必死に走ります。
濁流を前にすれば、ひるむ己れを叱咤します。

「今はメロスも覚悟した。泳ぎ切るより他にない。ああ、神々も照覧あれ!濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。」

ここにはまさに、混じりけのない「友情」が描かれている。
・・・ようにも思えます。

でも、ほんとうにそうなのだろうか。
読み終わったあと、どこか釈然としないものが残りました。
太宰治自身が書きあらわしたかったのは、「友情」そのものだったのだろうか。
あくまでも、自分の内面の「葛藤」だったのでは。
だからこそ、「親友」であると自他ともに認めるセリヌンティウスを、あっさり暴君のもとに人質として残すようなこともできた。
ここでの「親友」とは、彼が葛藤するために必要な「触媒」にすぎなかったのではないか。

そんな気がしてしまったのでした。
なぜ、「そんな気」がしてしまったのでしょう。

たとえば、彼の過去にあった、ある出来事が思い出されます。
左翼運動に関わりかけたことのある彼には、組織の「友人」を裏切った、という後ろめたい記憶があります。
そう簡単にぬぐい去ることのできるとは思えない記憶です。
だとすれば、彼の関心の中心が、「親友を助けるために己を犠牲にする」という「自我」のありように向けられていた、と考えることにも、理由がないとはいえないように思います。

世に「熱海事件」といわれるものが、この小説を書かせたのでは、とも言われています。
熱海の旅館にこもって小説を書く太宰を、作家の檀一雄が迎えに行く。
でも、宿賃が払えず、帰るに帰れません。
そこで金策のため、檀一雄が人質となって旅館に残り、太宰ひとりが東京へ。
ところが、待てど暮らせど太宰は戻りません。
しびれを切らせて東京に帰った檀一雄。
なんと、太宰は、井伏鱒二とのんきに将棋を指しています。
そして泣くような顔でひとこと。

 「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね。」



また、最晩年に書かれた随筆 『如是我聞』 には、次のような一文が書かれています。

「私の苦悩の殆ど全部は、あのイエスという人の、「己れを愛するがごとく、汝の隣人を愛せ」という難題一つにかかっていると言ってもいいのである。」

『走れメロス』という小説は、その難題への、ひとつの取り組みだったといえるのでは。
「隣人を愛する」ためには、まず順序として、ただしく「己れを愛する」ことを知らなければならない。
糖衣にくるまれて体内に入った「正義」や「友情」が繰り広げる「自己愛」との格闘。
彼独特の、流麗で研ぎ澄まされた語り口に託されたのは、まさにそのことだったように思います。

太宰が生涯をかけてこの「難題」を解きおおせたのかどうかは、また別の話ですね。

さて、物語のラストには、こう書かれています。

ひとりの少女が、緋のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。
「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ」
勇者は、ひどく赤面した。


己れを愛することに必死の姿をさらし続けて綴った物語。
書き終えて「まっぱだか」になったような気分だったんでしょう。
そして、そのことに顔を赤らめざるを得なかった太宰。
最後の最後に緊張をゆるめ、素顔を垣間見せてくれました。
ふとわれに帰ったかのように。

それにしても、「激怒した」ではじまり「赤面」することで終るこの構成。
コントラストがぴたりと決まっています。
決まりすぎている、とも言えます。
この作家のすごいところなんでしょうね。


それでは。


プロフィール

JIRO

Author:JIRO
東京下町で開業する司法書士です。
司法書士とはなにをする人か?
・・・一言では説明が難しいです。
といって二言三言あれば説明できるわけではなし。

このブログでは、日頃の出来事や読んだ本、観た映画などのことを書きつらねてみたいと思います。
あ、お仕事のこともすこし触れていきます。

(ホームページ http://www.noguchi-office.jp/)

相続なら江東区の司法書士 みどりの杜司法書士事務所(会社設立)

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