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「五穀」というのは何のこと?

おとといは休日、「勤労感謝の日」でした。
誰が誰の勤労を感謝するのだろうか。
そう思って「国民の祝日に関する法律」をみてみると、「勤労をたっとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」という趣旨が定められていました。

この日は、以前には、「五穀豊穣」を感謝する「新嘗祭」を記念する祝祭日でした。
稔り豊かな「収穫」のためには、どんな時代であっても、「勤労をたっとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」ことが欠かせないのかもしれません。

ところで、「五穀豊穣」の「五穀」とはなんのことかといえば……
日本では、イネ、アワ、アズキ、ムギ、マメのことを指すのだそうです。
その由来は『古事記』にさかのぼります。

高天原を追われたスサノオノミコト。
食物をオオゲツヒメノカミに乞うたところ、ヒメは鼻や口や尻から食材を出し、料理をします。
その料理を差し出されたスサノオノミコトは、「汚いじゃないか」と怒って、ヒメを殺してしまう。
すると、ヒメの屍(しかばね)から次々と実ったのが、イネ、アワ、アズキ、ムギ、そして大豆。
このことから、これらの穀物が「五穀」と呼ばれるに至ったのだとか。

さて、この「五穀」のうち、イネ、アズキ、ムギ、大豆にはなじみがあります。
でも「アワ」というのは、あまりよくわかりません。

そいういえば、日本史の授業で「アワ」のことを習ったことがありました。
江戸時代、徳川家光の治世に発布された「慶安の御触書」。
そこ書かれた、「農民たちは、粟(アワ)や稗(ヒエ)などの雑穀などを食べ、米を多く食べ過ぎないこと 」という条文です。

これだけを読むと、まるでアワは、米に一歩譲っている「穀物」であるようにも思えてしまいます。
実際のところはどうなんでしょうか。
アワとかヒエって、どういう外見をしたどういう穀物なのか。
そんなことがとてもわかりやすく書かれた本があります。
    (↓)



この本によると、アワやヒエは、「その実は小さいけれど、野性的で栄養のあるとてもパワフルな作物」で、「縄文人や古代ヨーロッパ人も食べていた」のだとのこと。
どちらも人類の歴史とともにある穀物だったんですね。

どのように「パワフル」なのか、といえば、たとえば冷害でイネが実らない、そういう夏の寒さの中にあっても、「ヒエやアワはほどほどにとれたから、庶民は飢えをしのぐことができた」のだそうです。

さらに、「アワの原種は、野草のエノコログサ(ネコジャラシ)」で、適応力があり、日本全国で作ることができる作物だし、ヒエは、「あまり養分のない土地でも育つたくましい作物」だということもわかります。

本のあとがきには、こんなことも書かれています。

「雑穀には、いろいろな形、色、味があります。だから、いろいろな種類のものという意味の"雑"という字がついているのです。雑穀のほかにも、いろんな具が入っているから雑煮、野原にはいろんな草があるから雑草、いろんな木が生えているから雑木林といいますね。」

ともすれば「雑」という字にマイナスイメージを重ねてしまうことがあります。
「いいかげん」とか、「注意力がなくておろそかである」とかいうイメージです。
でも、「雑穀」や「雑草」という言葉が表すのは、ただ「多様である」ということ。
そうだったのか、という気がします。
「雑」という言葉を見誤ってはいけないなと思います。

もっとも、仕事のうえのことでいえば、やっぱりこの言葉は要注意。
間違っても、「粗雑である」などと言われないようにしないといけないですね。
そうでないと、「勤労感謝の日」に、ひとり仲間はずれにされてしまいます。

それでは。



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『メトロポリタン美術館展』を観て驚いてきました。

前回、「思いがけない」こととの出会いについて書きました。

美術館に行く楽しみに、この、「思いがけない驚き」は欠かせません。
そのことをあらためて感じさせてくれる展示会があります。
いま上野の東京都美術館で開催中の『メトロポリタン美術館展』です。

展示されているのは、メトロポリタン美術館のコレクションから選び抜かれた至宝・名品の数々。
古代メソポタミア文明やローマ・ビザンチン時代の工芸品からさまざまな時代の彫刻、絵画、写真にいたるまで、「なんでもあり」の楽しさです。

展示構成を貫くテーマは、「自然とは何か/大地、海、空―4000年への美の旅」。
ひとつのコンセプトのもと、バラエティーに富んだコレクションが、次の各カテゴリーにそれぞれ区分けされて展示されています。

第1章 理想化された自然
第2章 自然のなかの人々
第3章 動物たち
第4章 草花と庭
第5章 カメラがとらえた自然
第6章 大地と空
第7章 水の世界

入館と同時に、真っ先にお目当ての作品をめがけて進むことがあります。
まだ体力気力が充実しているうちに、いちばん観たいと思う作品を心ゆくまで観る。
混雑の激しい特別展では、必須の戦略です。

でも、この特別展の場合、第1章から、カテゴリー順に観ていくのが正解かも。
ひとつの作品のつぎに、なにが展示されているか。
予測もなにもつかない「驚き」を堪能できるから。

たとえば「第2章 自然のなかの人々」の展示を順番に観ていくと・・・
ルネッサンス期の画家ティントレットが描く聖書の一場面《モーセの発見》があり、フランドルの画家ヤン・ブリューゲル(子)の描く冥界がこれに続きます《冥界のアエネアスとシビュラ》。
ロココ美術盛期の巨匠ブーシェが描く羊飼い《使者の派遣》のあとには、19世紀ロマン派絵画の代表的存在、ドラクロワが、荒れ狂う波に翻弄される舟の中のキリストと弟子たちとを描きます《嵐の中で眠るキリスト》。
西洋美術史の流れが大づかみできるような構成です。

・・と、次に視界に入ってくるのが、大きな背中を向け、黒髪を後ろ手に握る裸体の女性。
ゴーガンがタヒチで描いた作品です《水浴するタヒチの女たち》。
細部の描写も遠近法も、まるで念頭にないかのような、単純で装飾的で豪快な構図。
一瞬、びっくりしてしまいます。
何が起こったのかわからずにたじろいでしまう。

ゴーガンの絵画を初めて目にした、今から100年以上昔の人たちが受けた衝撃とか驚愕とか戦慄、あるいは「とまどい」が、なんとなく理解できるような気がしました。
でも、その次に展示されているルノワールの絵画が、この衝撃をやさしく吸収します。
穏やかな水辺でそよ風を浴びて楽しむ若い女性とヨット、白い室内犬と静かな波間《浜辺の人物》。
ゴーガンのあとに、あえて製作年が遡るルノワールの作品を置く。
配置の妙、ということを考えてしまいます。

ゴッホの《糸杉》は、「第6章 大地と空」のカテゴリーに展示されています。
この作品にたどりつくすこし前に、イギリスを代表する風景画家、コンスタブルの絵画があります。
柔らかな光を浴びる木立の間から見えるゴシック様式の大聖堂。
静謐で均整ある画面の中を風がそよぎ、頬に触れるような気がしてくる絵画です。

その直後、ぬっと姿を露わにする《糸杉》。
画面の左半分を占める異様な糸杉が、大きく妖しげに燃え立つように揺らいでいます。
心を鎮めるようなもの、やすらぐようなものは、どこにも描かれていません。
「均衡」もすべて否定されている。
長く立ち止まって見入っていると、船酔い気分となり、体が傾いできてしまいそう。
無理やり引きはがすようにしないと、絵の前から逃れられない。
糸杉の不穏な揺らぎが、絵画の周辺に特殊な「磁場」をつくり出しているのかもしれません。

ゴッホの作品で、もう一枚、印象に残った絵画がこれ(↓)。

歩きはじめ、ミレーに依る

彼が敬愛するミレーの作品を模写したものだそうです。
《糸杉》を描いた翌年の作品で、この約半年後、彼は自ら命を絶っています。

歩き始めたばかりの幼児を手招きする父親。
ほほえましい、仲睦まじい家族の一こま・・・のように見えます。
でもほんとうにそうなのか。
絵の中の父親は、子どもから、あるいはすべての愛しいものから、永遠に引き離されようとしているようにも見えてきます。
父親と幼児の間を隔てる、ほんのわずかな距離。
それが、彼岸と此岸を分ける裂け目のように思えて仕方がありませんでした。

「思いがけない」と思えた作品を、もうひとつだけ。
エドワード・ホッパーが描いたこの絵です《トゥーライツの灯台》。(↓)

トゥーライツの灯台

ホッパーと聞いて思い出すのが、《ナイトホークス》という絵画。
深夜のガラス張りのダイナー(食堂)を、通りから眺めた構図の中には、カウンターの中にいる店員と、いわくありげな男女、そして少し離れて座る中年の男。
「都会」に潜むあらゆる「孤独」が、男の背中をめがけ、ひしめきあって殺到しているかのような、ちょっと観ていてたまらなくなる作品です。

そのホッパーが描いたこの絵画。
明るい絵です。
一瞬、息をのむほど清浄な空気感と明るさに溢れています。
夜になれば、海を光で照らすことを役割とする灯台。
いま、この青空の下では、光をただ浴びています。
浴び続けています。
夜の孤独に耐えるため、賢明に充電している姿のように思えます。
ホッパーは、こういう絵画も描いていたんですね。

以上、印象に残ったことをいくつかピックアップして書いてみました。
ほかにも見どころがたくさんです。
ひとつまたひとつと、次々に出会う「思いがけない」作品の数々。
そんな「驚き」で満たされることうけあいです。


それでは。



思いがけないこと

思いがけない場所で思いがけないものに出会う。
そういうことって、しょっちゅうありますよね。
でも「思いがけない」と思うのはただの思い違いで、その出会いははじめからプログラムされていたことなのかもしれません。
でも「はじめから」って、いつからなんだろう。
誰がその「プログラム」を書いたのだろう。
なんのために?

考え始めるときりがないし、考えてどうなるというわけでもありません。
とりあえず、「思いがけない」出会いは、ひとつひとつ心にとどめていきたいなと思います。

先日、法事でお寺に行ってきました。
父の七回忌。
ついこの間のこと、と思ってばかりいたのに、ほんとに早いものです。
お墓に水をかけ、卒塔婆を入れ替えたりしていたら……

ふとなにか気になるものが視界をよぎりました。
なんだかすこし、その場から浮いて見えるもの。
すこし離れた墓所に咲いている、この花でした。(↓)

サフラン

クロッカスのように見えます。
でもクロッカスは春の花。
ということは、秋咲きのサフランでしょうか。

墓石がない墓所の片隅に咲いているサフラン。
単に地面に花が咲いた、とういうだけのこと。
不思議でもなんでもありません。
べつに木の枝に魚が実った、というわけではないんだから。

でもどうしてだか、「思いがけない」という気がします。
だからどうした、ということではありません。
ただ思いがけなかった。
それだけのこと。

これは、公園でたまたま見かけた雲の画像です。(↓)

レンズ雲

いわゆる「レンズ雲」の一種みたいです。

蒼空に、低く蓋をするレンズ雲。
単に大気がこの現象をつくり出す条件を満たしたというだけのこと。
不思議でもなんでもありません。
べつにこの雲から魚が降ってくるわけではないんだから。

でもどうしてだか、「思いがけない」という気がします。
だからどうした、ということではありません。
ただ思いがけなかった。
それだけのこと。


それでは。



「平凡」はしあわせ

前回までのつづきです。

人間が最初のうち赤鬼を信用できずに仲良くなれたかったのは、「鬼だから怖い」と決めつけてしまっていたからなんでしょうね。
なにしろ、「鬼の形相」といったら、怖いものの代名詞ではあるし。

友だちになるかどうかをまず「外見」で判断してしまう。
そこに自分だけの「審査基準」を設けてしまう。
人間だけではなく、猫にもそういうところがあるようです。
佐野洋子さんの絵本 『さかな1ぴきなまのまま』 に出てくる猫がそれ。




おばあちゃんと二人で暮らす猫が、あるとき思い立って、友だちを探す旅に出ます。
そこで出会ったのは、なんと「へび」。
とてもフレンドリーなへびなのに、猫は相手にしません。

「ああ おどろいた。ぼく ちゃんとしたともだち、さがしに きてるんだもの。わざわざ あんな ひもみたいじゃないの

ということで旅を続けるこの猫くん、やがてナイスルッキングな「むすめさんのねこ」たちに出会います。
でも、こんどは、彼のほうが相手にしてもらえない。

「ともだちですって?あなた けっとうしょつきじゃないんじゃない? わたしたち いえがらの わるい ひとたちとは つきあえないのよ」

傷心の猫くん。
そこへ再び現れたへびが、彼を励まします。

「いえがらをはなにかけるなんて、ほかに かけるもの ないひとです」

猫くんもやっと気がつきます。
外見は長くてひもみたいでも、魚を一匹まるごとなまのまま呑みこんでしまうのだとしても、へびが「とてもいいやつ」だということを。

作者の佐野洋子さんは、あとがきで、「色が真っ黒で、おでこなんかじゃがいもみたい」だった「ひろちゃん」が「だいきらい」だった、と回想します。
だから、その「ひろちゃん」が「目が大きくてまつげが長い」やまぐちくんだったらいいのに、と思ってしまったり。

でも、そんな「ひろちゃん」と、けんかしたり遊んだりの毎日が、いまではかけがえのないものとなって思い出されてくる。

「時とともに分かちあう事が、友情だと思う時、沢山の思い出を贈ってくれたひろちゃんにわたしはどんなに感謝していることでしょう。」(「あとがき」より)

『友だちは無駄である』 (ちくま文庫)というエッセイの中で、彼女はこう書きます。

「体で覚えた感情というものは、理解とはまるでちがうものである。私の子ども時代の体験は、どの子どもも体験したであろう平凡なことであったが、その平凡さが無かったら、私は平凡なおとなになることが出来なかっただろうと思う。」



絵本の猫くんも、きっと、「なまのまま」食べる魚だってじつはとってもおいしいのだ、などなど、さまざまに学びながら、「平凡な猫」へと成長していきます。
こういうとき、「平凡」ということばは、「しあわせ」ということばにそのまま置き換えることができるんでしょうね。


それでは。


プロフィール

JIRO

Author:JIRO
東京下町で開業する司法書士です。
司法書士とはなにをする人か?
・・・一言では説明が難しいです。
といって二言三言あれば説明できるわけではなし。

このブログでは、日頃の出来事や読んだ本、観た映画などのことを書きつらねてみたいと思います。
あ、お仕事のこともすこし触れていきます。

(ホームページ http://www.noguchi-office.jp/)

相続なら江東区の司法書士 みどりの杜司法書士事務所(会社設立)

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