FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「1年分」のうれしさ

以前、クイズ番組を見ていて、疑問に感じていたことがあります。
「○○を1年分」といって提供される賞品のことです。
たとえば「サラダオイル1年分」を進呈、というような場合がありますね。
なんだか意味がよくわかりませんでした。
「1年分」とは、実際には何本だったのか。
それは誰がどうやって決めたのか。

どこかに基準はあったんでしょうね。
ことによると、国が発行する統計白書のようなものがベースになっていたのかもしれません。
調査を実施するのは、厚生労働省統計情報部国民生活消費傾向調査課サラダオイル担当係。
調査対象は、たぶん、夫婦二人、子ども二人(中学生・小学生)という平均的家庭です。
全国10万の家庭を経年的に調査し、月平均0.8本、年間9.6本を使用、というような統計資料が経年的に作成される。
それを基準に、「1年分のサラダオイル」は「9.6本」、四捨五入して「10本」という数字が割り出されていたのではないか。
この推測、当たらずとも遠からずか、ぜんぜん的外れであるか、どちらかだと思います。

きのうはバレンタインデーでした。
ありがたいことに、ぼくもチョコレートをもらうことができました(主として「親戚一同」より)。

考えてみると、一年のうち、チョコレートを食べるのは、2月中旬以降のこの時期だけです。
したがって、「1年分」のチョコレートを、一日にしてプレゼントしてもらったことになります。
平均的男性が消費する「1年分」よりは、きっと少ないのではないかと思います。
国による統計数値の、足を引っ張ってしまっているかもしれません。

だけど、そんなことは関係なし。
一粒一粒、心して食べていきます。
冬眠を前にして木の実を無心に食べる、森のリスみたいに。
プレゼントは、やっぱりうれしいですからね。
しばらくの間、「1年分」のうれしさを味わって過ごします。


それでは。


スポンサーサイト

映画『東京家族』に見る「希望」

山田洋次監督の新作『東京家族』を観てきました。
小津安二郎監督『東京物語』へのオマージュが込められた作品です。
ストーリーも、おおよそは『東京物語』を踏まえたもの。
ただ、物語の背景は、戦後まだまもない時代から、現代の世相へと移し換えられています。

『東京物語』については、以前もこのブログに書いたことがあります。
   (→映画『東京物語』から「姻族」について考えてみる)

その小津作品では、原節子が印象的でした。
彼女が演じる「紀子」は、老夫婦の「嫁」であり、かつ戦争未亡人です。
映画のバックボーンには、かつての「戦争」の悲痛な記憶があります。
「紀子」と義理の父母との間に通い合うデリケートな心情が、ドラマの底流を流れます。

現在を描く『東京家族』に、こういった設定は、当然、置くことができません。
代わりに、背景として影を落とすのが「3.11」です。
「この国はどこかで間違えてしまった」というようなセリフが、老父の口を借りて語られます。

小津作品で特徴的なのは、いまにも解(ほど)けそうなほどゆるんでしまいつつある家族の絆が描かれること。
お互い同士の「家族愛」は、どこか空しく空回りをしてしまいます。
そして、父親役の笠智衆の「背中」を強く意識させて終わるラストシーン。
彼の行き場のない「孤独」が、例えようのない「寂寥」が、観る者の胸の奥深く、染み通っていきます。

対して、『東京家族』というこの映画。

描かれる「家族の絆」は、一枚岩の強靱さという点において、ときに物足りなさ、歯がゆさもうかがわせます。
でも、ひび割れやほころびが目立っているというわけではありません。
意外としなやかであったり、したたかであったり、するように見えます。
登場するそれぞれの「夫婦」や「夫婦候補」のふたり同士は、それぞれ、水平方向に安定しています。
それなりのバランスが保たれています。

こうした「関係」を基本内容とするユニットをいくつもいくつも縦横に積み重ねる。
そのことこそが、「構造」を強化します。
どれほど破壊的な規模のマグニチュードに見舞われても、その「関係」の構造全体はゆらぎません。
どれほど揺さぶられても、音を立てて崩れ落ちたりもしません。

では、そのためにはなにが必要なのか。
いま目の前にある「関係」にきちんと向かい合うこと。
そしてその「ねじ加減」を丁寧に調整すること。
そんなふうなメッセージが聞こえてきます。

ラストシーンでは、小津作品と同様、ひとり取り残された老父のたたずまいを映し出します。
でも、彼の「背中」がクローズアップされるわけではありません。
そこに貼り付いた「孤独」に、焦点が合わされることもありません。
代わりに、カメラは、家の外へ、大きく開け放たれた戸外へとレンズを向けていきます。
そこには見渡す限り光に溢れた瀬戸内の海と空があります。
希望に満ちた光景が広がっています。

山田洋次監督の映画を見続けてきた人にとっては、とてもうれしくなってしまうエンディングではないかなと思いました。


それでは。


日本人の「優しさ」

昨年末、BSで放映され録画しておいた映画を観ました。
中原俊監督 『12人の優しい日本人』 です。

有名なアメリカ映画『十二人の怒れる男』の本歌取りというか、要するにパロディですね。
「もし日本に陪審員制度があれば」という仮定のもと、いわば「アナザーワールド」の状況設定の中で展開される、一風変わったコメディ・ドラマ。
この「ありえなさ」が、公開当時、とても新鮮だったことが思い出されます。

ただ、裁判員裁判がスタートし、定着しつつある現在の地点からみると、観ていて微妙な違和感もつきまといます。
たぶんそれは、実際に深刻な事件で裁判員になられた方たちにかかる精神的負荷の大きさを漏れ聞く機会が増えてきている、ということにも関係があるのでしょう。
「現実」が「パロディ」を超えて、そのずっと先まで行ってしまった。
そんな感じがしてしまいます。
「時代」が前へ前へと動いている以上、仕方がないことですね。

ということを差し引いても、やっぱりとても興味深い映画です。
ある意味、とても予見的な場面もあります。

「有罪」に票を投じることに消極的なある陪審員。
実は彼には、過去にも陪審員体験がありました。
そのとき「有罪」とした被告が死刑となったことが気にかかり、後々まで尾を引くトラウマとなってしまっている・・・
このことは、「量刑」についての判断も委ねられる現在の裁判員制度でも、とても重くのしかかってくる問題ですね。

さて、この映画では、アメリカ版の「怒れる陪審員」に対して、「優しい日本人」たちが描かれます。
日本人の持つ「優しさ」。
この「やさしい」とは、一体なんなんでしょうか。

『日本人は「やさしい」のか』(竹内整一:ちくま新書)というタイトルの本があります。




この中で、「やさしさ」は、たとえば次のように分類されます。

 1.優位性としての「やさしさ」
 2.偽善性としての「やさしさ」
 3.脆弱性としての「やさしさ」
 4.隠蔽性としての「やさしさ」

そして『万葉集』以降の古典を手始めに、太宰治や村上春樹の作品を検証し、尾崎豊など、現代のヒット・ソングで歌われる歌詞にまで言及するなど、相当深く突っ込んだ「やさしさ」論が展開されていきます。

そもそも「やさしさ」というのは、「痩せる」という言葉が語源なのだ、とのこと。
だから、「人の見る目が気にかかって身もやせ細る思いがする」、「身もやせるように感じる、恥ずかしい」という感情が原義となっている。

そこから出発し、現在では、「踏み込まず踏み込ませず、できる限り葛藤を避けようとする」、「相手の気持ちに立ち入らず傷つけないようにする」、つまり、傷つくことをなによりも恐れる、この感情が「ベース」になっているということが語られます。

「傷つくこと」と「傷つけられる」こと。
この両極の感情に対してどのような距離をとり、どのように対処するのか。
そういったことを思い合わせながら観ていると、この映画の面白さは、また一段と深まるように思えます。

お互いに傷つけ、傷つけられることを恐れる「日本人」。
恐れるあまり、いつしか「優しさ(恥ずかしさ)」という護符によって身を守ることを覚えます。

でも、陪審員協議の「場」という閉鎖された空間は、その日本人同士の関係を一気に煮詰めてしまう。
いわゆる「優しさ」なるものを溶かし込んでしまう溶鉱炉に放り込まれた日本人たち。
慣れない議論にエキサイトしていくうち、次第に「優しさ」の外枠が溶け、箍(たが)がはずれ、剥き出しになった本性を隠すこともなく、いがみあい傷つけ合う。
映画では、密室性が極まるにつれ、「優しさ(恥ずかしさ)」という守り札が次第に霧散していく様子が描かれます。

そんな中、ひとり超然としている陪審員がいます。
風采のあがらない、元信用金庫職員というその男性。
一貫して「無罪」の主張を変えません。
その理由はといえば・・・・
「なんとなくそう思う」から。

「傷つくこと」と「傷つけられること」を恐れ、お互いの距離を見定めることに汲々とするメンバーが居並ぶ中、この「没論理」が最強の輝きを放ちます。
堂々たるその力強さが、他の陪審員の「優しさ」も、またその裏返しのような「攻撃性」も、すべて無力化してしまう。

…という爽快さが、今回この映画を見直して、いちばん心に残りました。
この陪審員の心の中にあるものは、「信念」というほどの確固とした行動原理ではありません。
でも、自分自身の「振る舞い」がどうあるべきなのかを、自分自身できちんと把握しています。無意識に。
傷つけるとか、傷つけられるとか、彼にとってはとりあえずどうでもいいこと。
そこに彼の強さがあります。

「人の見る目を気にして恥ずかしく思う」ことが「やさしさ」の原義なのだとすれば、「人」ではなく、「自分」で自分を見る、そして「恥ずかしく思う」ことがその根っこのところに横たわっていてもいいのではないか。
そして、もっともっと、したたかな「やさしさ」を身にまとう。
それはもはや相手との「関係」を調整するための「守り札」などではありません。
つぎつぎと立ち現れる関所を通るための、単なる「通行手形」でもない。
ではなんなんでしょうね。
なんだかよくはわからないけど、とても貴重なものであることは間違いなさそう。

なんとなくそう思いました。

それでは。





プロフィール

JIRO

Author:JIRO
東京下町で開業する司法書士です。
司法書士とはなにをする人か?
・・・一言では説明が難しいです。
といって二言三言あれば説明できるわけではなし。

このブログでは、日頃の出来事や読んだ本、観た映画などのことを書きつらねてみたいと思います。
あ、お仕事のこともすこし触れていきます。

(ホームページ http://www.noguchi-office.jp/)

相続なら江東区の司法書士 みどりの杜司法書士事務所(会社設立)

カレンダー
01 | 2013/02 | 03
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 - -
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。