FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

散るさくらの落ちる場所

桜がしきりと散り始めていますね。
「散ればこそいとど桜はめでたけれ」とはいうものの、それは人間の側の思い入れに過ぎません。
桜にしてみれば、一年ぶりに花を咲かせて、飲めや唄えの花見客を見下ろして、「見るべきほどのものは見た」の心境で散っているのかどうか。
もっとも、去年のいまごろより世間全体の雰囲気がよくなっている、そう見定めてすこしは満足してくれているかもしれません。

枝から離れた花びら一枚を目で追っていると、風に乗ってすこしためらって、やがて地面に落ちていきます。
落ちるべき地上の場所はどこなのか。
たぶん、物理法則を総動員すれば、あらかじめ計算することができるのだろうと思います。
空気抵抗や湿度や風速などの条件をすべてインプットすることで、その場所は決まっている。
自然法則によって、その桜が咲く前から、もっとずっと前から、ひょっとしたらビッグバンがあったその瞬間から決められているのだ、ともいえそうです。

散る桜の花びらのすべてに、落ちるべき場所、「約束の場所」が決められている。
計算するのも大変そうですね。
宇宙のどこかに超高性能コンピューターがあって、その操作をする係りの人が汗だくになって処理に追われている姿が目に浮かぶようです。

もっとも、自然法則によって落ちる場所を「決められている」と決めつけられるのは、桜の花びらにとっては本意ではないかもしれません。
誰だって「決めつけられる」ことはうれしくないです。
花びらにしたって、すこしは落ちる場所に注文をつけたいはず。
「風のまにまにただよう」というのは、そういうことなんでしょうから。

落ちるべき場所に落ちていき、散る桜、ひとつひとつにとっての場所が決まっていく。
そのすべての「結果」が集積され、データとなって宇宙のどこかにある「超高性能コンピューター」に送られていく。
そうやって矛盾のない「自然法則」が決められていきます。
だから決めるのは「桜の花びら」のほう。
法則が花びらの運命を決めるのではありません。

そんなことを思いながら今朝から散り続ける桜を、なんとなく眺めていました。
なんとなく眺めていたら、どの花びらも風に舞って、ふわりと方向を変えたりしていました。


それでは。


スポンサーサイト

さまざまなことを思い出す桜

上野公園を通りかかったら、桜が満開でした。

ソメイヨシノ

すごいですねー。
もこもこと、雲が地面から湧き上がっているみたいに見えます。
その雲の下は、花見客でびっしり埋まっていました。
咲き誇る桜の花びらの数と、たぶん同じぐらいの人数が押し寄せていたと思います。

この日は、公園ではなく、国立博物館に足を向けました。
公園周辺とは打って変わり、平成館の周辺には、ほとんど人影なし。

サクラ

ぜいたくにも、桜を独り占めしてしまいました。
そしてこれはシダレザクラ。

シダレザクラ

観る人がいようがいまいがおかまいなく、見事に枝垂(しだ)れています。
思う存分、枝垂れています。

国立博物館の裏手にある庭園に入ると……

ヤマザクラ

こんな風景が眺められます。
この桜は、ヤマザクラでしょうか。
姿の見えない小鳥たちのさえずりが、絶え間なく頭上から降り注いできます。
公園の喧噪とは別世界が目の前に広がっています。
ちょっと得した気分でした。

満開の桜に誘われて、「さまざまのこと思ひ出す桜かな」と詠んだのは松尾芭蕉。
たしかに、桜に呼び起こされる記憶というものがあります。
さまざまのこと。
それはたとえばどんな折々の記憶なのか。
よく言われるのが「入学式の桜」です。

そういえば小学校の入学式の日に観た桜のこと、なんとなく覚えています。
母が和服を着ていたこと。
手をつながれていたこと。
花曇りというのか、空がどんよりしていたこと、などなど。

そのときの桜、新一年生のぼくにはどう見えていたんでしょうね。
こぼれるばかりの咲きぶりを見上げ、「美しい」とつぶやいた。
……などということは、間違ってもありえません。
なにしろ6才の子どもなんだから。

それでもいまだに脳裏によみがえる「さまざまなこと」。
思い出すのは必ずしも「桜の花」そのものとは違います。
桜が咲いていた、その束の間の「時間」です。
桜の花びらのひとひらごとに刻まれた、「さまざまな時間」。
思い出すほどに体の芯がほんのりほぐれてきます。

そんなひとときを味わい、のんびりまったりするのにもってこいの桜に出会えた一日でした。


それでは。


映画が先か、原作が先か

映画とその原作、どちらを先にするのがいいか。
次の3つが考えられます。

1.映画を先に観てから原作を読む。
2.原作を読んでから映画を観る。
3.映画を観ながら同時に原作を読む。

3を選択するのは、すこし面倒です。
映画館に、たとえば「赤外線暗視スコープ」を持ち込むなどの手間を要しますから。
なのでこれは除外。
そうすると、残る1か2の、どちらがいいか。

外国の文学作品については、映画からのほうが入りやすいことがあります。
背景となる歴史や風俗について、あらかじめ視覚イメージを持つ。
そのことで、原作の文章が格段に読みやすくなる、ということがあるからです。

ただ、一般論としては、どちらがどうとも言えない、ケースバイケースなんだろうと思います。
ともかく試行錯誤してみるしかない。
その結果、ときには、映画も原作も、どちらもスルーするべきだった、ということだってあります。

映画『横道世之介』の場合はどうだったか。
これは、「先に原作を読んでよかった」と思いました。
理由はひとつ。

映画では、冒頭、「世之介くん」が登場します。
登場しなければストーリーが始まらない。
だから登場します。

でも、登場したその瞬間。
「世之介」の視覚イメージが決められてしまいます。
否応もなく固定してしまう。

決まるのが悪いことであるはずがありません。
ただ、「とまどい」が残ります。
原作を読んでいる間、じぶんなりにぼんやりと眼の奥に浮かべていた世之介くんのイメージ。
どういう顔でどういう雰囲気なのか。
彼の一喜一憂ごとに、不定形にとめどなく揺れ動いていたイメージが、一気に焦点を結んでしまう。
そのことへのとまどいです。

原作を読んでいる間中、その「不定形なイメージ」と伴走する、そして自分の中にいる不定形な「世之介くん」にめぐり会う、ということ。
それがこの原作から得られる大きなプレゼントだったことに気づきます。
しかし先に映画から観てしまえば、それを諦めることになる。
諦めてしまうには、すこしばかりもったいないプレゼントです。

ただ、映画自体は、とても楽しめました。
原作を生かし、原作と補完しあうよう、丁寧につくられています。

世之介くんの恋人となる祥子ちゃんは、原作ではかなり現実ばなれした女の子にも見えます。
なのに、スクリーンの中に、しっかりきちんと「リアル」にその祥子ちゃんがいる。
この映画の最大のお手柄だと思います。

世之介くんと祥子ちゃんのふたりを描くシーンが、どれも印象に残ります。
はじめて出会うハンバーガー店での、ちぐはぐで微笑ましいやりとり。
クリスマスの夜に降り出して積もった雪のうえで無邪気にはしゃぐ場面。
骨折した祥子ちゃんの病室で、お互いの名前を呼び捨てに投げかけあい、はじらう二人。
どれもこれも、甘やかでせつなくて愛らしくて、でもどこか儚さへの予感を底に沈めているように見えるシーンです。

映画ならではと思ったのが、世之介くんが友人と話を交わす場面。
彼は、通常より相手に「半歩」だけ踏み込みます。
あるいは、一気に内懐(うちぶところ)に飛び込みます。
相手の思惑や事情などお構いなし。
無意識のうちに、その「距離」を詰めてしまう。
これこそが「世之介くん」なんだなあと思いました。

ケータイやインターネットを通じたやりとりが全盛のいま。
じぶんの存在を相手にまず「承認」してもらうことが喫緊なのだ、というようなことが言われます。
もちろん、誰だって承認されることを求めます。
離れ小島で生きているわけではない以上、「承認」されることは、生存のためのひとつの条件だとさえも言えます。

でも世之介くんの場合、まず相手に「接近」してしまいます。
そして垣根を飛び越えてしまう。
間合いなんて、あってなきがごとし。
「承認」されるかどうかはその結果に過ぎず、彼にとってはどちらでもいいこと。
ある意味では、「無垢」そのものにも思えます。
でも、祥子ちゃんが世之介くんを大好きになるのは、彼の中にあるその「無垢」がありありと見えていたからなんでしょうね。
映画を観て、そのことがよくわかるような気がしました。


それでは。


どこにでもいてどこにもいない世之介くん(小説『横道世之介』)

今となっては信じがたいことのような気もします。
80年代には、まだケータイもネットもありませんでした。
だから、なにかと大変なことも多かった時代です。
たとえば仮に念願叶ってデートに漕ぎ着けたとしても、とりあえずは次に会う場所と時間を確約しなければいけない。
なんとか「次の機会」を確保することが重要命題だったような気がします。

そんな80年代に九州から東京に来て大学生活を送ることになった一人の青年を描く小説を読みました。名前を「横道世之介」といいます。



市ヶ谷にある、法政大学とおぼしき大学に晴れて入学した世之介くん。
一風変わった名前は、井原西鶴『好色一代男』に由来します。
もっとも、この物語の主人公・世之介くんは、至極まっとうにして脳天気。
どこにでもいるように見える、ごく普通の青年です。

物語は4月の入学月から翌年3月まで、12の章に分かれています。
章が進むに連れて、記憶の「地層」が堆積していくように思えてくる構成です。
それなのに、時間が経ってしまえば「地層」はゆがみ、どこになにが堆積したのか、あいまいにぼやけてしまったりします。

物語のところどころに、「断章」のかたちで15年後の日常が描かれます。
世之介くんと関わりを持った人物たちの「その後」です。
彼と出会ったときのことはなんとなく覚えている友だちもいます。
「そういえば」とようやく思い出す友だちもいる。
そんな友だちのひとりは、なつかしさを呼びさましながらこう思います。

「世之介と出会った人生と出会わなかった人生で何かが変わるだろうかと、ふと思う。たぶん何も変わりはない。ただ青春時代に世之介と出会わなかった人がこの世には大勢いるのかと思うと、なぜか自分がとても得をしたような気持ちになってくる。」

出会ったことで得をしたような気持ちになる友だち。
そういえば自分にもそんな「世之介くん」がいたような気がしてきます。

ひょんなことから入部したサンバサークルで腰をくねらせて踊ったり、ひょんなことから「お嬢様ことば」が可愛い祥子ちゃんと仲良くなったり、ひょんなことから「人の命の重さ」に向かい合うことになったりしながら過ぎていく世之介くんの「12ヶ月」。

長い小説を読んでいると、ときたま読み終えるのが辛くなることがありますね。
この物語もそうでした。
「どこにでもいる」ように思えた世之介くんが、じつは「どこにもいない」、世界に彼ひとりしかいない、そんな世之介くんだったことがわかってくるからです。
最後のページを閉じたら、もう二度と会えないような気がしてきてしまうからです。
どんなに「次の機会」を確保したくても、ケータイやネットで連絡を取るわけにはいきません。

それでも読み終えた途端、どうしても世之介くんや祥子ちゃんにまた会いたくなってしまう。
なぜなんでしょうね。
なにか聞き忘れたことがあるからなのか。
それとも「言い忘れた」ことがあるからなのかもしれません。

だから、いま公開中の映画『横道世之介』を観に行ってしまいました。
「読み終えた」その日のうちに映画を観に行ってしまう。
こういうのも、ちょっと珍しい経験でした。
どういうかたちであれ、「次の機会」が持ててなによりでした。


それでは。


尾形光琳の『紅白梅図屏風』

熱海のMOA美術館まで、日帰りで行ってきました。

MOA美術館

毎年、梅祭りの開催中に公開される、尾形光琳作の国宝『紅白梅図屏風』がお目当てです。
本やテレビでは何度も観ているこの屏風。
一度、是非とも直接観たかった、その願いが叶いました。

紅白梅図屏風

撮影自由だったので、撮らせてもらった画像です。

屏風の左隻に描かれた、咲き始めたばかりの白梅。
そろそろ夕暮れが近づく頃合いの風景でしょうか。

鋭角に折れ曲がった枝には、次に咲くのを待つたくさんの蕾がついています。
川に向かって振り上げたような枝は、向こう岸に何かを呼びかけてでもいるかのようです。
その向こう岸、屏風の右隻には、とろけるように咲く紅梅が立っています。
目を近づけて見れば見るほど、リアルに描かれているのがわかります。
梅林の、すこしひんやりとした空気をふるわせ、鳥の囀(さえず)りが聞こえてきそうなぐらいに。

そして、両側の紅梅白梅を断ち切るように真ん中を堂々と流れる川。
異様な迫力があります。
上から下の方向に流れているのか、それともその逆なのか、あるいはひたすら激しく渦巻いているのか。
それはぜんぜんわかりません。
わからないのに、なぜか圧倒的な、水の「存在感」だけがあります。

紅梅、白梅、そして春の水が織りなすアンサンブル。
以前、黒澤明監督の残した、「天使のように大胆に 悪魔のように繊細に」というフレーズを、なんとなく思い出してしまいました。

この屏風は、尾形光琳の最晩年に描かれたとのこと。
自らの人生の総決算を考えていたとしても不思議ではありません。
だとすると、真ん中にただ「存在」する川の両側で呼応しあう紅梅と白梅は、互いに何を語らっているのでしょうか。
やるべきほどのことはすべて成し遂げた。
そんな充実感で、自分自身を嘉(よみ)しているようにも思えます。
そうでしかありえないような気がします。

この日、熱海方面は気温25度を超える夏日でした。
美術館の庭園に咲いていた紅梅も白梅も、すこし汗ばみ、苦笑しているみたいでした。


それでは。


弥生3月の明け鴉

きのうで2月が終わりました。
なんとなく、月末28日で「今週も終わり」と思いこんでしまっていました。
ところが、きょう(3月1日)はまだ金曜日。
一日分、損をしたような気がします。
でも、ことによると得をしたのかもしれません。
そう思ったほうが前向きなので、そう思うことにします。
どちらにしても、なんだかぴりっとしない話ですね。

朝方、見かけたカラスです。

からす

「あほう、あほう」とは鳴いていませんでした。
というより、自分を見上げる愚かな人間など、眼中になかったみたい。
一声鋭く「カア」と叫び、明け方の空を見つめてなにやら瞑想する気配でした。

月が変わり、3月弥生。
カラスにはカラスの、言うに言われぬ物思いがあるんでしょう。
決算月だし家計費はかさむ一方だし、お互いいろいろ大変ですからね。


それでは。


プロフィール

JIRO

Author:JIRO
東京下町で開業する司法書士です。
司法書士とはなにをする人か?
・・・一言では説明が難しいです。
といって二言三言あれば説明できるわけではなし。

このブログでは、日頃の出来事や読んだ本、観た映画などのことを書きつらねてみたいと思います。
あ、お仕事のこともすこし触れていきます。

(ホームページ http://www.noguchi-office.jp/)

相続なら江東区の司法書士 みどりの杜司法書士事務所(会社設立)

カレンダー
02 | 2013/03 | 04
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31 - - - - - -
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。