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「ターナー展」で確かめた、ある記憶の真偽

小学5年生のとき、「美術全集から好きな絵を選んで模写をする」という図工の授業がありました。
「好きな絵」と言われて、まさかボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」を描くわけにもいきません。
そこで選んだのは、明るい感じの風景画。

いま思い出してみると、場所はどこかの港で、ゴンドラみたいなものが描かれていました。
だとすると、場所はヴェネチア、作者はことによるとターナーだったのでは。
……という記憶の真偽を確かめたくて、開催中の 『ターナー展』 (東京都美術館)へ。

ヴェネチアの港を描いた作品が展示されています。
でも記憶の中にある港とはまったく違いました。
薄暮に近い港には、川面にも空にもまだ淡い光がもわもわと漂っています。
輪郭のかすんだ月が遠くに浮かび、ゴンドラも水墨画のようなシルエットを見せています。
空気と光と靄(もや)、すこしずつ移り変わる時間、といったものを意識させられる絵画です。

でも、かつて模写した、あの港の光景とは、まったく違いました。
模写できるような親しみ安さはどこにもなく、そこにあるのは深く沈んだ情感のようなもの。
小学生が模写したいと思う絵ではありません。
模写できるような絵でもありません。
まだしも「ヴィーナスの誕生」を選ぶほうが自然だったでしょうね。

展示を観て回っていると、ターナーの作風が初期からどんどん変わっていく様子がわかります。
名所旧跡を淡々と水彩で描いていた時代から、自然現象の持つ「荘厳さ」に惹きつけられ、やがて画面に光が溢れ出して、ついには抽象的な表現に至ってゆく。

でも、その変化は、ひとりの画家が「進化していく過程」ということとは、すこし違うのかなという気がしました。
単純に直線的に出世魚のごとく「進化」したのではなく、自分の中にある「どうにもならなさ」とか「もどかしさ」を廻って試行錯誤を繰り返した、その「うねり」の軌跡こそが、残された作品群なのでは。
なんとなくそんなふうに思えたのでした。

そもそも物事は、時が経つに連れてどんどん「進化」していくものなのでしょうか。
もしもそうだったら、世界の未来も運命も、捨てたものではありません。
だって、いつでも今日よりはましな「明日」を信じられるのだから。

でも現実はなかなかそういうわけにはいきません。
自分を省みても、日々進化するのは「年齢」だけ、というのが悲しいです。
気を付けないと、「体重」や「コレステロール値」も。
口の悪い人なら、「それは進化ではなく老化だ」と指摘するでしょう。
人生は、「どうにもならなさ」とか「もどかしさ」で満ち満ちているみたいです。

それにしても、小学生のときに模写したあの「港の絵」は、誰がどこを描いた作品だったのだろう。
今回、謎は謎として残ってしまいました。
NHKスペシャルのナレーション風に言えば、「記憶の迷宮への挑戦はなおも続くのであった」と締めるところです。


それでは。


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3つの抱擁(映画『そして父となる』)

『「雲の墓標」より 空ゆかば』(1957年)という映画があります。
主人公は、学徒兵として招集され、神風特別攻撃隊として出撃することとなる3人の若者たち。
この中で、父と息子の別れの場面が描かれます。
「もう二度とは会えない」という状況での、まさに「今生の別れ」です。

父親役を演じるのは笠智衆。
ただ黙って立って息子と向かい合い、淡々と言葉を交わします。
息子が修学旅行にでも行くかのように、あっさりと見送ります。
手を握ることも肩を抱くこともありません。
とても胸にひびく場面です。
「抱擁」の習慣を持たない戦時の日本では、このように心の中で抱き合うしかなかったんでしょうね。

親愛や友情の証(あかし)としてのハグ(抱擁)。
アメリカ映画などを見ているとしょっちゅう目にします。
日本でも、スポーツ選手の歓喜の表現として、よく目にするようになりました。
ただ、「文化の違い」ということもあるんだろうけど、街中で日常的に見かける光景ではありません。

その「抱擁」シーンがとても印象的な日本映画に出会いました。
公開中の映画 『そして父になる』です。

6才になる息子を持つふた組の夫婦。
ところがこの子どもたち、じつは出生時に病院で取り違えられていたことがわかります。
かくて、「誤り」を正すべく始まる、家族同士のぎこちない交流。
まったく、悪夢のようにひどい話です。
ボタンのかけ違いを元に戻すといったって、税金の修正申告をするのとは訳が違いますからね。

物語では、3つの「抱擁」が描かれます。

ひとつは、精神的に追い詰められた母親ふたりが、互いにいたわり合うようにして肩に手を回す場面。
苦しみを共有する彼女たちには、修羅場をくぐる戦友同士のような感情が生まれます。
肩を抱き合うことでしか霽(は)れることのないような「思い」です。

二つ目は、自宅に引き取った「実の子ども」を母親(真木よう子)が思わず抱きしめる場面。
ぶつけられる感情の激しさに、息子はたじろぎます。
だじろいでとまどいながら、それでもおずおずと腕を「母親」の背中に伸ばしていく。
「取り違え」が取り返しのつかない誤りだったとしても、ひょっとしたら「覆水」は「盆」に返るかもしれない。
そんな希望が示唆されているようなシーンです。

三つ目は、「父」(福山雅治)と、6年間、実子と思い育ててきた「息子」との抱擁です。
葛藤に苦しみ、自分を根っこから見つめ直すことを余儀なくされ、そしてはじめて気がつきます。
父に「なる」ということの意味に気がつきます。
そのために必要な、聖なる通過儀礼のようにも見える抱擁でした。

この映画では、それぞれの抱擁にきちんと意味が込められているんだなあと思いました。
それは心に囲った「垣根」をゆっくりと、あるいは一気に崩します。
こういう味わいは、ところかまわず「ハグ」する習慣を持たない日本の映画、ならではのものなんでしょうね。

さて、話はとつぜん変わるんだけど・・・
ぼくは毎朝、早暁に家を出て仕事に向かいます。
鳥たちが眠りから覚めて最初のさえずりを始める時刻です。
人の姿はめったになく、ただときどきふてくされた顔つきのノラ猫とすれちがったりします。

先日、駅に向かって住宅街を歩いている途中、まだうす暗い道の真ん中にぼんやり佇む人影が二つ、溶け合うように浮かんで見えてきました。
まさかとは思ったけど、どうも「別れを惜しみあうカップル」のようです。
不意を突いて驚かせないよう、ことさら足音を響かせて進んでゆくと、影はささっと二つに割れて離れました。
「朝っぱらからまったくもう」と思いますよね。
もっとも、「明け方の薄闇」という帷(とばり)に包まれた「後朝(きぬぎぬ)の別れ」だったのだとすれば、じゃまする結果となったのは不粋の極みだったかもしれません。

「抱擁」が日常の中で目に飛び込んで来るとあたふたしてしまう。
ところかまわずハグをする習慣を持たない国の住民として、やむをえないような気もします。
それとも、今後は国際化へ向けた意識改革が必要とされていくのでしょうか。
・・・まあ、こういうことで「葛藤」できるのも平和な証拠なんでしょうね。


それでは。



しりとり遊びが終わるとき

小さい頃、よく「しりとり遊び」をしていたことを覚えています。
必勝法がありました。
「る」で終るコトバを相手にわたすこと。
なにしろ子どもだから、「る」で始まるコトバなんてほとんど知りません。
だから、逆に「る」で終るコトバを渡されたらもう大変。
ストックしていたのは「ルビー」というコトバだけだから。
でも、すぐさま「ビール」と切り替えされてしまう。

いまなら「ルーティンワーク」などという横文字や、「累進課税」という漢字四文字が浮かびます。
「ルイ十四世」もいれば「ルイ十五世」、「ルイ十六世」もいます。
「ルパン」だって「三世」「四世」とつなげていけば、ほとんど無敵を誇れそう。

いっぽう、電車の中で母子がしりとりをしている場面を見かけたこともあります。
だけど、母親は「る」で終るコトバを子どもにわたしたりはしません。
遊びの目的は「勝つ」ことではなく、子どもとの「コトバ」のやりとりがずっとつづくことだから。
このとき母と子は、メビウスの輪のうえで追いかけっこをしているみたいです。
いつまでもこわれない「今このとき」を信じて、幸福そのものに見えます。

……というようなことを、NHKで放映されていた、 『100万回生きたねこ』を観ていて思いました。
佐野洋子さん原作の絵本を、ミュージカルとして舞台化した作品です。

終盤近く、100万回死んで生き返って「ただのねこ」になったねこが、「白い猫」に恋をします。
二匹の猫が寄り添い、舞うようにじゃれあいながら、愛を語らいます。

「しょうがないね」「ねえ」「笑顔」「…おやすみ」「三日月」「気持ちいい?」「いつまでも」「…戻りたい?」

お互いのコトバの語尾を引き寄せ合って、「しりとり」による語らいは続きます。

……「いのち」「ちりぢり」「理解」「いいね!」「…眠い?」「いいや…」「休む?」「…昔話」「してあげるよ」

語らいの中で、知らぬ間に時間だけはどんどんと過ぎていきます。
最初は溌剌としていた白い猫なのに、いつのまにかぐったりとして、「ねこ」の体に身を預けます。

……「よぼよぼ」「ぼくも」「…もう時間…」

コトバの最後に「ん」が来たら、それは遊びが終わるとき。
100万回生きた「ねこ」だけど、はじめて「終わり」ということを知ります。
「今このとき」は終わりました。
もう「つづき」はありません。

「今このとき」って何なんだろうと思います。
それは、過去と未来を貫く直線上にあるとは限らないのかもしれない。
「ねこ」は、「今このとき」が永遠であることを知りました。
なのに、その「今」は容赦なく終わってしまう。
終わってしまう「今」だからこそ、「今このとき」は永遠なんでしょうか。
無限大でつづきそうに思えるメビウスの輪にも、どこかに隠れた「中心」があって、すべてはそこでひとつになっていくのでしょうか。

作者である佐野洋子さんに尋ねてみたい気がしてきます。
でもきっと「ややこしいこと聞かれたって、あたしゃ知らないよ」と言われそうですね。

佐野さんが亡くなったのは、平成22年11月5日のことでした。
今日でちょうど3年になります。

それでは。



プロフィール

JIRO

Author:JIRO
東京下町で開業する司法書士です。
司法書士とはなにをする人か?
・・・一言では説明が難しいです。
といって二言三言あれば説明できるわけではなし。

このブログでは、日頃の出来事や読んだ本、観た映画などのことを書きつらねてみたいと思います。
あ、お仕事のこともすこし触れていきます。

(ホームページ http://www.noguchi-office.jp/)

相続なら江東区の司法書士 みどりの杜司法書士事務所(会社設立)

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