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『WOOD JOB!(ウッジョブ)~神去なあなあ日常~』のひたすらさ

映画『WOOD JOB!(ウッジョブ)~神去なあなあ日常~』を観ました。
文句なしの痛快娯楽作です。
個人的には、「日本映画、近年指折りの」という言葉をかぶせてもいいぐらいです。

ひょんなことから、ケータイ圏外の山奥で林業修行に励むことになる主人公の平野勇気(染谷将太、好演!)。
ワイルドなまでの生活の中で、「木を育て、木を守り、木を伐る」ことを通して成長する姿がすがすがしく描かれます。

驚かされたのが、木登りのシーン。
30メートルはある木に、勇気とその先輩(伊藤英明、怪演!)が登ります。
吹き替え、合成、いっさいなし、だとのこと。
カメラは、木の上から遠望される奥深い山々をゆっくりと俯瞰していきます。
「高所」と相性の悪いぼくとしては、慄然とするほどのインパクトがありました。

子どもが神隠しに遭いそうになる場面も印象的です。
原始をとどめる自然の中では、超自然的な出来事でさえ人間の生活と隣り合わせ。
この山に住む人たちは、祠や道祖神の前に立てば欠かさずに手を合わせ頭を下げます。
そのことの大切さが実感できました。

さて、主人公・勇気が「林業研修」を思いつくきっかけとなるパンフレット、その表紙を飾るのが、ヒロイン・長澤まさみです。
山道をオートバイで疾駆する、くっきりした輪郭線を持つ大人の女性がスクリーンで躍動しています。

彼女の出演作の中では、内向的な女子高生を演じる『深呼吸の必要』 (2004年)が好きでした。
この映画では、「木」ではなく、「さとうきび」が伐られます。
都会から、沖縄の農家に援農のためやってくる若者たち。
労働の厳しさに根をあげそうになりながら、ただひたすらに伐りつづけます。
そして最後には心を合わせ、すべてのさとうきびを伐り終える。
観ていて、「ひたすら」である、ということの貴さが体に浸みこんでくるような映画でした。

長田弘さんに、『深呼吸の必要』という、同名の詩集があります。
その最後には、こんな言葉が置かれていました。

大事なのは、自分は何者なのかではなく、何者でないかだ。急がないこと。手をつかって仕事をすること。そして、日々のたのしみを、一本の自分の木と共にすること。

「ひたすら」だけを支えに林業修行を終えた主人公・勇気も、「何者でもない」自分と謙虚に向き合うことを選びます。
「自分だけの木」を求めて再び旅立つラストには、彼の役名そのままに、勇気づけられてしまいました。


それでは。


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「かみさま」へのメッセージ

「いい子でないといけなかった。だからわたしはいい子のふりをした。」
そう育つしかなかった女性が、看護師としての職を得て、しだいに「自分自身」を取り戻していく。
ちょっとせつないけれど、読後感は不思議とさわやかな、そんな小説を読みました(『わたしをみつけて』(ポプラ社):中脇初枝著)。


前作『きみはいい子』では、子育て、虐待、母と娘の確執がいくつもの視点に分かれて描かれていました。
今回は、親に捨てられ、施設で育ったひとりの女性が、職場での出会いや患者との触れ合いを通して成長していきます。
登場する男たちが概して情けないのに比べ、主人公の女性上司(師長)の凛とした姿勢が印象的です。


この小説、読んでいて、ふと頁をめくる指を止めてしまった箇所がありました。
孤児として育った主人公は、母親の顔も名前も知りません。
その母親が、いつか自分を迎えに来てくれるのでは、と強く祈る場面です。

 何度も願った。
 願いはいつまでも叶わなかった。
 七夕の短冊にも、サンタさんへの手紙にも、おかあさんと書いた。
 何度も書いた。
 でも一度もかなわなかった。(142頁)


これを読んだとき思い出したのが、サマセット・モームの『人間の絆』です。
彼の自伝的小説とも言われています。

主人公のフィリップは、生まれつき左足に障害があり、それが元でいじめられていました。
その彼が12歳の時に出会ったのが、聖書にある「信仰があり疑わないなら、動いて海の中に入れと山に言えばそのとおりになる」という言葉です。
フィリップは、自分のこの足を治してくださいと、夜、ベッドに入る前に、一心に祈ります。
 
 山を移すことに比べれば、こんなことは、ほとんどいうほどのことではない。神様の御意(みこころ)さえあれば、必ずなおると信じており、またその信仰には、微塵の疑いもなかった。翌朝、またしても同じ願いの祈りをくりかえすと、彼はその奇跡の期限まで定めた。
 「ああ、神様、もしあなたのお恵みをもって、御意でありますならば、どうか私が学校へ帰りますまでに、この足をおなおし下さい。」(『人間の絆』:新潮文庫、中野好夫訳)


でも、山はいっこうに動きません。足もいつまでたっても元のまま。
信仰はある。なのになぜ山は動かないのか。足は治らないのか。
その理由を、大人はあっさりと決めつけます。

 「それは、つまり、信仰が足りないということ、ただそれだけさ。」

なんだか身も蓋もない言い方ですね。
「それをいったらおしまい」という気がするんだけど、どうなんでしょうか。

このくだりがいまでも印象に残っているのは、ぼくにも似たような体験があったから。
といっても、障害云々というような深刻なこととはまったく関係ありません。

7才のころ、とある不安を抱え、小さな胸を痛めていた時期がありました(ほんとに)。
そんなとき、この世界には「かみさま」がいるらしい、ということを知ります。
聖書とは無縁の環境にいても、そういう知識はどこからともなく頭に入り込みます。
もし「かみさま」がいるのなら、なにも不安に思う必要はない。
だとすれば、どうすれば「いる」ということを確かめられるのか。

考えたあげく思いついたのが、「かみさま」に返事を求める、という方法です。
毎晩、枕元に、小さな白紙を置いておく。
もし「かみさま」がいるなら、その白紙に「いる」のひと言でいいからメッセージを残してほしい。
眠る直前、布団の中でけっこう真剣に祈ったものでした。

でも、どういうわけか、というか、当然に、というか、白紙は翌朝も白紙のまま。
次の朝も、またその次の朝も。
けっきょく一週間ほどであきらめることになります。
やっぱり「かみさま」はいないのだろうか、と思うとがっかりだったけど、がっかりしているうちに「不安」のほうもどこかへ流れて消えてしまいました。
なにしろ遊ぶのに忙しい年頃ですからね。
飽きっぽいのは生まれつきだし。

いずれにしても、このことから、もし「かみさま」がいるのだとすれば、ずいぶん筆無精であることがわかります。
メールを出してもぜったいすぐには返事をよこさないタイプでしょう。
LINE(ライン)のやりとりにも向いていないと思います。
ただ、いきなり「白紙を枕元に置いてメッセージを求める」というのも、フェイスブックで面識のない相手に「友だち申請」するのと同じでは、という気がします。ひとりよがりはいけません。

とはいえ、ひとりよがりでもなんでも、そのときはそうするしかなかったんでしょうね。
たぶん、「みつけて」もらうことが必要なんだろうと思います。
そのためには順序として、まず「じぶん」をみつけないといけない。
『わたしをみつけて』の主人公も、『人間の絆』のフィリップ少年も、みんなそうやって成長していきました。

いま、枕元にメモ用紙を置いておいたら、どうなるだろう。
朝になったら、「いる」のメッセージが残されていたりするだろうか。
再チャレンジするには、まだまだ時期尚早だなという気がします。

それでは。



富岡製糸場を見学してきました

世界遺産への登録が確実となった富岡製糸場に行って来ました。
明治維新直後に創設された、近代的な器械製糸工場。
「日本の殖産興業を担ってきた」と、歴史の教科書でその名前だけは教わる、貴重な産業遺産です。

高崎駅で上信電鉄に乗り換えて約40分。
目的地の上州富岡駅に着きました。

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町中を10分ほど歩くと、富岡製糸場の入り口が見えてきます。


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到着したのは朝10時。もうすでに入場者の行列が入り口の周りをぐるりと取り囲んでいます。長蛇の列の最後尾にたどり着くまでにひと汗かいてしまいました。「世界遺産登録へ」のニュースに、観光客が全国各地から殺到しているのがわかります(ぼくもそのひとりです)。けっきょく、約1時間待ちでの入場となりました。


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工場の内部の様子です。創建は明治5年。広々とした内部には、両側に設けられた大きな窓からの採光が行き渡っています。大勢の女工さんたちが必死に働いていたとき、ここにはどんな音や匂いや光があふれていたんでしょうね。その女工さんたちはみんな、それぞれどんな人生をたどったんでしょうか。辛いこともたくさんあっただろうけれど、この工場で働くことで幸せのきっかけをつかむことができたにちがいない。そう思いたいです。


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ずらりと並んだ器械のひとつひとつがじつに精巧につくられていて驚きました。この器械がどのように動いて繭玉から糸を縒り出すのか。その様子を紹介する映像コーナーもあります。器械なんて見たことも触ったこともなかった女工さんたちが、懸命に操作方法を学んでいった。そのことを思えば、ぼくも早くスマホの取扱いに習熟しないといけないです。



元はといえば、桑の葉を食べる蚕(カイコ)がつくる繭。
それがどのようにして絹製品へと姿を変えていくのか。
見学してみて、そういう基本的なことを何もわかっていないことが痛感されました。
学校で教わったのも、「殖産興業に乗り出した明治政府は、富岡製糸場など紡績業を中心とする官営模範工場の運営を積極的に進めていった」というような、じつにじつに表面的なことだけだったんですね。

養蚕の歴史は弥生時代にまで遡るそうです。
古事記にも、スサノオの怒りを買って斬り殺されたオオゲツヒメの頭から蚕が生まれ出た、というお話が残されています。
日本人とはずいぶん長い付き合いということになります。
イヌでもネコでも、ヒトとの付き合いが長くなると野性を失いがちになる。
蚕蛾もまた、飛ぶための筋肉が退化してしまい、もう空を舞うことはできないのだとか。
たくさんの女工さんたちがその青春を捧げ、物言わぬ蚕蛾たちが飛ぶことをあきらめたことと引き替えに、日本は近代国家へと飛翔しました。
たしかに、遺産として語り継いでいかなければ「ばち」があたる話ではないかと思います。


それでは。


ガラケー最後の日

4年前から愛用していたガラケーが、突然、息を引き取りました。
電源ボタンを何度押しても叩いても、反応がありません。

購入したばかりの頃は「ケータイ」だったのに、いつのまにか「ガラケー」などという名前で呼ぶようになっていた携帯電話。
つきあいが長くなれば呼び方も変わる。
そういうこともあるのだろう、と思っていました。

時は流れ、スマホへスマホへと人皆誰もがなびく中、それでもこのガラケーを手放す気にはなれませんでした。
偕老同穴、できることなら添い遂げたいものだ、とまで思っていました。

でも、この世の中、永遠につづくものなどありはしません。
この4年間、知らない間にすこしずつ消耗をつづけ、なのにそんな様子はおくびにも出さず、いま、その役割を全うしようとしている……

あきらめきれず、裏蓋をはずし、電池パックを取り出し、丁寧に拭ってもう一度差し込んでから電源を試してみました。
すると……ほんの一瞬、青白い光が点りました。
弱々しくたよりなく光ろうとして、そのまま息絶えました。
二度と蘇生することなく、ただの冷たい「もの」へとなりました。

  じゃんけんで負けて蛍に生まれたの

ふと、池田澄子さんの、こんな俳句も思い出されます。
なんだかひとり枯れ野に取り残されたような気分です。
とはいえ、貴重なビジネスツールである以上、感傷に浸って空白期間を長引かせることは許されません。

というわけで、後継機種として、スマホを購入しました。
環境を変え、しがらみを捨て、心身を一新するには、やはり「ガラケー」ではなく「スマホ」しかない。
そんなふうに考えての選択です。

さて、実際に手にしてみて思うのは・・・・

『2001年宇宙の旅』という映画で、謎の直方体「モノリス」を取り囲み途方にくれる、あの類人猿になったみたいな心境です。
とりあえず、指先を鉛筆削りで細くけずることから始めないといけないかもしれません。


それでは。


プロフィール

JIRO

Author:JIRO
東京下町で開業する司法書士です。
司法書士とはなにをする人か?
・・・一言では説明が難しいです。
といって二言三言あれば説明できるわけではなし。

このブログでは、日頃の出来事や読んだ本、観た映画などのことを書きつらねてみたいと思います。
あ、お仕事のこともすこし触れていきます。

(ホームページ http://www.noguchi-office.jp/)

相続なら江東区の司法書士 みどりの杜司法書士事務所(会社設立)

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