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『無言館』ふたたび

信州上田『無言館』に行って来ました。
5年ぶりの再訪になります。
http://noguchioffice.blog133.fc2.com/blog-entry-62.html

入館するとすぐに一枚の裸婦像が目に入ります。
「あと5分、あと10分この絵を描き続けていたい。生きて帰ってきたら必ずこの絵の続きを描くから」。
恋人にそう言い残して出征し、そのまま戦死された方の、最後の作品です。
この女性は、絵を完成させてくれる約束をこの場所でずっとこうして待ち続け、来る日も来る日も、来館者の顔に「彼」を探し求め、そのたびに落胆し、ため息をつき続けているのかもしれません。
もしそうだとすると、再訪することで、ぼくは彼女を二度も落胆させてしまった。
そう思うと、なんだか申し訳ないような気がしました。

絵画作品と並んで、数多くの遺品資料が展示されています。
美術学校の卒業証書があり、家族とのスナップ写真があり、戦地で書いたはがきや書簡があります。
そして、ひときわ鮮明に記載された、国や戦地からの「死亡通知書」。
短かった一生のエピソードが、展示されたわずかな資料の中に凝縮されています。

フィリピン・ルソン島で亡くなった方の遺品資料にも、「死亡通知書」がありました。
よく見るとその隣に、部隊長名の文書が並んでいます。

「ラヴニオン洲」とあるを「ラヴニオン州」と訂正

死亡場所の誤記を遺族に通知する文書でした。
戦争をすることも、戦地でむなしく「草生(くさむ)す屍(かばね)」となることも、どちらも理不尽なことだけど、律儀に「死亡通知書」の誤記を訂正することでその理不尽がいくらかでも緩和されるとでもいうのでしょうか。
この奇妙なまでの律儀さにどこか違和感を感じないではいられませんでした。

お役所仕事って、こういうところがあるんだよなあと思いつつ外に出ようとすると、晴れていた空がいつのまにか暗くなっていました。
軽食レストランでコーヒーを飲んでいると、窓の外では驟雨が地面を叩き始めます。
そのときふっと頭に浮かんだのは、さっきの訂正文書が、「部隊長名」によるものであったこと。
その部隊長が、どんな思いでその文書を書いたのだろうか、ということ。

ひょっとしたら、若くして非業の戦死を遂げた部下の遺族に、せめてその最期の場所だけは正確に伝えないといけないと思ったのかもしれません。自分たちにはどうしようもない過ち、改めようのない過ちとは違い、訂正できる過ちはきちんと訂正しなければならない。そんな責任感の発露だったようにも思えてきました。

真相はもちろんわかりません。
死者たちはみな沈黙するばかりです。
だからぼくたちには、残された絵画作品や展示ケースの中の遺品が語りかけてくる、その言葉に耳を傾けることしかできません。


それでは。



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天使となってはばたいた詩人(金子みすゞとエミリー・ディキンソン)

毎週、BS朝日で「黒柳徹子のコドモノクニ」という番組を放映しています。
今回のテーマは、「幻の童謡詩人・金子みすゞ」でした。
詩や文学への夢を持ちながら、不幸な結婚によってその道を閉ざされてしまう金子みすゞ。
幼子に一枚の写真だけを残し、わずか26才の若さで自ら命を絶ってしまいます。

観ていてふとエミリー・ディキンソンのことが思い出されました。
1830年にマサチューセッツ州アマーストに生まれた詩人です。
1886年に病気で亡くなりますが、その原稿のほとんどが死後になって発見されたこと、いまだにたくさんの人から根強く愛され続けていること、生涯さびしさのつきまとう人生だったようにみえることなど、どこか金子みすゞと相通ずるものがあるような気がします。

アメリカ映画を観ていると、このエミリー・ディキンソンがしばしば登場します。
たとえば、リチャード・ギア主演の『オータム・イン・ニューヨーク』(2000年)。薄命のヒロインを演じるウィノナ・ライダーは、エミリーに傾倒する帽子デザイナーという役柄でした。
また、ロバート・レッドフォードが監督した『クイズ・ショウ』(1995年)という映画。「希望は小鳥 魂の上で羽を休める」という詩のフレーズから、その作者(もちろん、エミリー・ディキンソン)を問うというクイズが出題されていました。エミリーがどれだけポピュラーな存在であるかがうかがえます。

日本映画でも、2006年公開の『ハチミツとクローバー』の冒頭、エピグラフとして詩の一節が引用されます。

  「草原をつくるには蜜蜂とクローバーが必要だ
          ―エミリー・ディキンソン」


この一節は、金子みすゞのこんな詩を思い出させます。

   はちはお花のなかに、
   お花はお庭のなかに、
   お庭は土べいのなかに、
   土べいは町のなかに、
   町は日本のなかに、
   日本は世界のなかに、
   世界は神さまのなかに。

   そうして、そうして、神さまは、
   小ちゃなはちのなかに。 


放映された番組では、最後に金子みすゞのこんな詩が紹介されました。

   かいこはまゆに
   はいります、
   きゅうくつそうな
   あのまゆに。

   けれどかいこは
   うれしかろ、
   ちょうちょになって
   とべるのよ。

   人はおはかへ
   はいります、
   暗いさみしい
   あのはかへ。
 
   そしていい子は 
   はねが生え、
   天使になって
   とべるのよ。


彼女の境涯を思うと、これはなんともいえないほどせつない詩ですね。
きゅうくつな繭に入る蚕に心を寄り添わせ、お墓に入れば羽が生えて天使になれると夢想する。
いったいどこまで追い詰められたらこんなことばが出てくるのでしょうか。

エミリー・ディキンソンにも、こんな詩が残されています。

   かみさま おねがい
   わたしをとりこにしてください
   でも ちかづくと いっそう
   さびしさがつのりそう
      (川名澄編訳:エミリ・ディキンソン詩集『わたしは誰でもない』87頁)




どこにあるのかわからない、ことによるとどこにもないかもしれない「天国」を、それでも求めてやまないエミリーの切実な声が聞こえてきそうです。

ただ彼女にはまた、こんな詩もあります。
  
   口にだしていうと
   ことばが死ぬと
   ひとがいう
   まさにその日から
   ことばは生きると
   わたしがいう
      (同上書25頁)


金子みすゞという詩人が生み出した詩のことばも、羽をはやした天使となってずっと生き続けるのかもしれませんね。番組を観終わったとき、そんなことを考えてしまっていました。


それでは。


希望という名の鯨(映画『八月の鯨』のこと)

映画『八月の鯨』を観てきました。「新・午前10時の映画祭」での鑑賞です。



地味な映画なのに、客席はほとんど埋まっていました。
昔の名作映画をスクリーンでもう一度観るというぜいたく。
そう思う人がこんなに大勢いることを知って、なんだかうれしくなりました。

時は夏、場所はメイン州の海辺の別荘。
二人の老姉妹が暮らしています。
この二人が少女のころから、八月になると海辺では沖を泳ぐ鯨が見えました。
ところが最近はほとんど見かけることが少なくなっています。

目が不自由で口やかましい姉を支える妹。
たいへん有名な、高齢の女優さん二人が演じています。
この二人、なにかと感情はもつれがち。
でも、もつれはしても、ちぎれることはありません。
二人には、「鯨を見た」という、共通の記憶があるからです。
そして「鯨はきっとまた来る」という思いがあるから。

登場人物は少なくて上映時間も短い(90分程度)小品なのに、ラストに忘れがたい余韻の残る映画でした。

じつはこの映画、15年ほど前にいちど観ています。
そのとき確かに「鯨」の泳ぐ背中や尾びれを見たような気がしていました。
でも今回見直して、それが間違いだったと気づくことに。
「泳ぐ鯨」はまったくその姿の片鱗も見せません。
とんでもない記憶違いでした。

たしかに最近、物覚えは悪くなりました。
きのうのランチが何だったか、記憶が混乱するのも毎度のことです。
だから、過去に観た映画のシーンを取り違えて覚えてしまっていても致し方がない気もします。
とはいえ、見ていないものを「見た」という勘違いは、やっぱり気になりますね。
あの「鯨」は、いったい何だったのか。

歌人の永田和宏さんの『人生の節目で読んでほしい短歌』(NHK出版新書)に、こんな文章があります。

「藤原定家に「見わたせば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋(とまや)の秋の夕暮」という有名な一首がありますが、「花ももみぢもなかりけり」と打ち消されることによって、却って花と紅葉は読者の心に強く焼きつけられる。……と、こう指摘したのは、塚本邦雄氏でした。」(51頁)

この映画の場合、「鯨を見た」という姉妹の記憶がぼくの心に強く焼き付けられ、その結果、「幻の鯨」が見えてしまった、ということなのかもしれません。

ただ、この映画の「鯨」は「八月の鯨」でなければ成り立ちません。
「四月の桜」や「十一月の紅葉」に置き換えることはできないでしょう。

毎年、春になれば咲いては散ることを繰り返す桜。
紅葉も秋になれば必ず赤や黄に色づきます。

いっぽうこの映画の「鯨」は気まぐれそのもの。
八月になったら来るのかそれとも来ないのか、誰にもわかりません。
鯨には鯨の事情もあることだから、やむをえないです。

それでも「来る」と信じて待ち続けることはできます。
歳月を重ねることで失うもの、毀れるもの、色褪せるもの。
それがどんなに増えたとしても、「信じて待ち続ける」ことだけはできます。

そういえば先日、「サマージャンボ宝くじ」を購入しました。
抽選日のその日まで、「信じて待ち続ける」ことができます。
待ち続けている、その間だけは、夢見心地が約束されています。
かくして「八月の宝くじ」は、束の間、連日の猛暑を忘れさせてくれるのでした。


それでは。


プロフィール

JIRO

Author:JIRO
東京下町で開業する司法書士です。
司法書士とはなにをする人か?
・・・一言では説明が難しいです。
といって二言三言あれば説明できるわけではなし。

このブログでは、日頃の出来事や読んだ本、観た映画などのことを書きつらねてみたいと思います。
あ、お仕事のこともすこし触れていきます。

(ホームページ http://www.noguchi-office.jp/)

相続なら江東区の司法書士 みどりの杜司法書士事務所(会社設立)

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