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封印された「もし」の話(『野菊の墓』と『林檎の樹』)

前回のつづきを少し。
伊藤左千夫という歌人は、錦糸町駅前に歌碑があるせいなのか、何かと身近に感じられる存在です。
いまに残る彼の写真を見てみました。
なんだか頑固そうで近寄りがたい雰囲気がいっぱい。
横町にいるカミナリ親爺、という感じも漂います。

でも、数々の短歌の他に、彼はまた『野菊の墓』という小説も残しました。
主人公は、旧弊な因襲にも封建的な「世間体」にもイノセントな15才の少年、政夫。
そして自分は「野菊の生まれ変わり」だと信じる、17才の民子です。

この二人に、印象的なやりとりがあります。
「民さんは野菊のような人だ」という政夫。
その政夫と民子が語らう場面です。

 「政夫さん……私野菊の様だってどうしてですか」
 「さアどうしてということはないけど、民さんは何がなし野菊の様な風だからさ」
 「それで政夫さんは野菊が好きだって……」
 「僕大好きさ」


これはまさに三段論法ですね。

大前提・・・民さんは野菊のような人である。
小前提・・・ぼくは野菊が大好きである。
結 論・・・ゆえにぼくは民さんが大好きである。

これまで文学作品では、数え切れないほどの初恋が「告白」されてきました。
中でもこの場面は出色ではないかと思います。
これほどまでに回りくどくなければ言葉にできない恋心。
かつてこういう時代が確かにあり、こういうかたちでの「ひたむきさ」というものが、確かにあったんでしょうね。

この『野菊の墓』とよく似たシチュエーションの小説があります。
ゴールズワージー原作の短編小説『林檎の樹』です。
休暇旅行の途中に都会を離れた田園でひとりの少女に出逢う、そんなボーイ・ミーツ・ガールの物語。



将来有望な青年アシャーストと、秘めた情熱を瞳に宿す農家の娘ミーガンは、出会うや否や、どちらからともなく惹かれ合います。
階級の違いなんて「関係ない」とばかりに恋を成就させようとする二人。
でもその行く手には、運命の女神の無慈悲ないたづらが待ち受けて……。

民子が「野菊のようだ」と讃えられるのに対し、ミーガンは、野に咲く花(丘一面の野生ヒヤシンスや小川の淵に咲くキンポウゲ)に例えられます。
また、どちらの物語でも、、素朴な農村の日常、そして目にやさしい田園風景の中で、初恋の最初のため息が生まれます。

ただ、この二つの物語には、大きな相違もあります。
アシャーストが政夫と異なり、もう一人前の青年だということ。
鼻持ちならない"階級意識"はすでに体の内奥に抜きがたく巣くってしまっています。
その「意識」がもたらしたミーガンへの手ひどい「裏切り」。
政夫に生涯つきまとうのが逆らえない因襲に対する「無力感」だとすれば、アシャーストの場合、それは「原罪意識」のようなものだと言えそうです。

彼ら二人に共通するのは、過ぎ去った過去への愛惜であり、「後悔」です。
「後悔」は、時とともに一杯の「美酒」にかたちを変えていくこともあります。
そして心にいつまでも残り続けていく。
ただしそれは、うっかり盃をあおれば、喉も臓器も焼き尽くす琥珀色の甘美な液体です。
だから、永遠に飲み干すことは許されない。
政夫もアシャーストも、たとえその後の人生が平穏であったとしても、心の平安とは無縁です。

ところで、『野菊の墓』は何度も映画になりました。
中でもぼくのお気に入りは、1981年に澤井信一郎監督による映画化です。
民子を演じるのは、当時19才だった松田聖子。



民子は、そもそもどんな女性なのか。
原作ではこんなふうに描かれます。

真(まこと)に民子は野菊の様な児であった。民子は全くの田舎風ではあったが、決して粗野ではなかった。可憐(かれん)で優しくてそうして品格もあった。厭味とか憎気とかいう所は爪の垢(あか)ほどもなかった。どう見ても野菊の風だった。

「品格」という言葉をゆるやかに受け止めさえすれば、スクリーンの中の松田聖子は、不思議なほどこのイメージを体現していることに驚きます。
野菊から漂う「土」の匂いが感じられます。

いっぽう、『林檎の樹』は、 『サマーストーリー』というタイトルで、1988年に映画化されました。



これも大好きな映画です。
珠玉の名品、と言いたいぐらいにすばらしい、心に残る映画ですね。

ラストシーンでアシャースト(映画ではアシュトン)が手にするのは、野菊ならぬ、野生ヒヤシンス。
その花言葉は「初恋のひたむきさ」です。
思えば、運命に弄ばれてしまう民子もミーガンも、ほんの束の間、「ひたむき」に生きることができました。
「初恋」に打算も計算もありません。いつだって「ひたむき」そのものです。

もし誰もがこのひたむきさに値する祝福を得ることができるのなら。
もしそれにふさわしい歓びに包まれることができるのなら。
・・・・「もし」はいくら重ねても「もし」のままです。

伊藤左千夫は、その生涯に、こんな歌を遺しています。

 許されぬ人に恋ひつつ白玉の清き思ひもこもりはつべし

封印された「もし」は、たぶんもう解(ほど)いてはいけないし、解くこともできない。
解くことができないまま果てるしかない。
それはきっと、仕方がないことなんでしょうね。


それでは。


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プロフィール

JIRO

Author:JIRO
東京下町で開業する司法書士です。
司法書士とはなにをする人か?
・・・一言では説明が難しいです。
といって二言三言あれば説明できるわけではなし。

このブログでは、日頃の出来事や読んだ本、観た映画などのことを書きつらねてみたいと思います。
あ、お仕事のこともすこし触れていきます。

(ホームページ http://www.noguchi-office.jp/)

相続なら江東区の司法書士 みどりの杜司法書士事務所(会社設立)

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