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雑感:『色彩を持たない多崎つくると、その巡礼の年』

村上春樹の新刊『色彩を持たない多崎つくると、その巡礼の年』を読みました。
雑感を少しだけ。

ぼくが購入したのは、4月25日発行の第5刷。
初版が4月15日だから、わずか10日で5回、版を重ねていることになります。
すごいですね。
発売一週間で100万部を売ってしまう、発売すればそれぐらい売れるということがあらかじめ分かっている小説を書く。
そういう状況の中で創作をする小説家には、どれほどの重圧がかかるのか。
ちょっと想像の及ばないところがあります。
ただ、ひどく孤独な作業ではあるんでしょうね。
販売部数などという「雑念」にとらわれていたら、筆が止まってしまいそう。
だから、ストーリーの細部まで予め詰めることはせず、次々と浮かんでくる文章をひたすら自動書記する。

作品中には、そんな創作状況を思わせるような記述も見いだせます。

自転車に乗ってジムに行き、プールでいつもの距離を泳いだ。身体全体にまだ不思議な痺れが残っていて、泳ぎながら時折ふと眠り込んでしまったような気がした。しかしもちろん実際には眠りながら泳ぐことなんてできない。ただそういう気がしただけだ。それでも泳いでいるあいだは、身体がいわば自動操縦に近い状態になって、沙羅のこともその男のことも思い出さずに済んだ。それは彼にとってありがたいことだった。(334頁)

おそらくはこれに近い状況で書かれたと思われる今回の新作でした。
ストーリー自体は、かなりシンプルです。
主人公「多崎つくる」がいちど喪失したものを探し求めて巡礼の旅をするお話、と要約することだってできるくらいに。

多くの人がそうであったように、『国境の南、太陽の西』、『スプートニクの恋人』といった諸作、とりわけ『ノルウェイの森』からつながる系譜を強く感じました。

ここには、たとえば、こんなセリフがあります。

「誰かを真剣に愛するようになり、必要とするようになり、そのあげくある日突然、何の前置きもなくその相手がどこかに姿を消して、一人であとに取り残されることを僕は怯えていたのかもしれない」(109頁)

これまで繰り返し語られてきた「喪失」のモチーフが、きわめて率直に、端的に吐露されているように思えます。
また、別の箇所ではこう語られたりもします。

人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ。(307頁)

ぼくには、まさに『ノルウェイの森』のテーマを要約した文章のようにも読めました。
過去の諸作の後日談のようにも、総集編のようにも思える所以(ゆえん)です。
それでも、この物語はいま書かれなければならなかった、つぎのステップを踏み出すために必要な作品であったと思わせるものが、ここにはあります。
まさにそのためにこそ「巡礼」はなされたのでした。
心を開いて過去と向き合うための「巡礼」です。

とはいえ、「今」と25年前とでは、状況が著しく異なってしまっています。
とりわけ、二つの点が気になりました。

ひとつは、「今」という時代に「携帯電話」が普及してしまっていること。
24時間、いつでもどこにいても相手とつながることができるメールや携帯電話。
この機器の登場は、村上ワールドに伏在しつづける「孤独」の意味を決定的に変質させてしまうものなのかどうか。

『ノルウェイの森』と『スプートニクの恋人』のラストでは、恋人と電話で語る場面が描かれています。
そこでは、たとえ回線がつながっても、その向こう側に広がるものが「異界」であり、いっぽうの「こちら側」は「深い闇」に包まれていることが暗示されます。

今回の作品では、主人公たちは当然のことながら携帯電話を持ち歩いています。
それでも、ラストで恋人との架け橋に使われるのは、やっぱり固定電話。
そのやりとりは、虚しくすれ違います。
「向こう側」と「こちら側」は、今回もまた交わることはなく、平行線のままなのでした。
「携帯電話」や「スマホ」というツールは、たぶんまだ村上ワールドに認知され、組み込まれるに至っていない。
そんな印象が残りました。

ふたつ目は、「東日本大震災」と、それにつづく「原発災害」の存在です。

今回の新作では、日本が直面した、また現在進行形で直面しているこの「惨事」についての言及が、きわめて注意深く避けられているように感じました。
はるかな遠景としてそれとなく置かれることもない。
それがなぜなのか、なにを意図しているのかいないのか、わかりません。
ただ、「不在」であるというそのことが、逆に気になってしまうことも事実でした。

強いて言うと、次のような文章が目に止まります。

「私たちはこうして生き残ったんだよ。私も君も。そして生き残った人間には、生き残った人間が果たさなくちゃならない責務がある。それはね、できるだけこのまましっかりここに生き残り続けることだよ。たとえいろいろなことが不完全にしかできないとしても」(321頁)

ただ、文章中のこういった箇所に「東日本大震災」の影をむやみに逆照射しようとすることには、読み手側としての節度が求められます。
恣意的な読み方になってしまうことは自戒しないといけないですからね。

「東日本大震災」も「原発災害」も、近い将来、正面に据えて語られることがあるのかもしれません。
そういえば『神の子どもたちはみな踊る』が書かれたのも、阪神淡路大震災から5年ほどたってからのことでした。

物語の本筋とは関係しないところで、ちょっと気になる描写があります。
主人公・多崎つくるが恋人と食事をする場面です。
食後に、つくる君はコーヒーを、恋人はレモン・スフレをデザートに注文します。

「それはそうと、スフレを一口食べない?とてもおいしいわよ」
「いや、君が最後の一口まで食べればいい」(224頁)


つくる君は、甘いものがあまり好きではないのでしょうか。
恋人の誘いを一言のもとに退けてしまう。
ハルキワールドの住人であるつくる君には、こういう返事が宿命づけられてしまっているようにもみえます。
でも、そっけないといえばこれほどそっけない態度もありません。
はっきりいって、「大人げないのでは」とまで感じてしまいます。
「ではお言葉に甘えて」と、喜んで申し出に応えてあげればいいのに。
そして遠慮なく「ぱくっ」と食べてしまう。

それは現実に「スフレ」を好きであるかどうか、「食べたい」と思ったかどうかとは関係ありません。
今、目の前にいる相手から「おいしいから、あなたも食べてみてほしい」というサインが出されている。
「おいしさ」を共有したい、というささやかな「申し出」です。
なのにすげなく「拒否」してしまう。
こういったささやかな「拒否」がひとつひとつ積み重なって、つくる君の「孤独」はどんどん取り付く島もないほど強固なものに肥大していってしまうのではないか、と、大げさにいえばそんな気がしたのでした。

たぶん、実際の村上春樹は、こういう「つれない」ことは言いません。
けっこう屈託なく「申し出」をひょいひょい受け入れてしまうのではないかと想像してしまいます。

ぼくもどちらかというと「そのようでありたい」と思います。
「レモン・スフレ」なんてまだ食べたことはないけど、もし「一口どうぞ」と勧められたら、迷うことなくぱくりとできる、そういう心構えは常に持っていたいものです。

ただ、この原則がいつでも適用できるとは限りません。
もしお皿に山盛りされた「アブラゼミのバター炒め」を前にして「おひとつどうぞ」などと勧められたら・・・
やっぱり、慎んで遠慮すると思います。

きっと怪訝な顔をされてしまうでしょう。
「どうして?噛むとカリッとして、口の中でジューシーにとろけて、とてもおいしいのに」と畳みかけられてしまうかもしれない。
そのとき、はたしてどう対応するのか。
つくる君のように、「いや、君が最後の一口まで食べればいい」で済ますのは、やっぱり愛想がなさすぎますね。
こういう場合にどう答えるべきかも、心構えとしては持っていたいものです。

「すまないけど、虫類の摂取は禁じられているんだ。・・・宗教上の理由で」

これだったら角が立たないし、「大人げない」という印象も、たぶん残しません。
一見、無駄とも思えるこういった「心構え」こそが、「孤独」の淵に我が身を追い込まないための砦となります。
常在戦場です。

それでは。

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No title

こんばんは!

JIROさんは、村上春樹さんの著作をいろいろ読まれているのですね。
なぜに彼の本はこんなに売れるのか?
不思議に思って、数年前、初めて手にしたのが『ねじまき鳥クロニクル』です。
ところが私の悪い癖(性格)、第3部まで読み進み、あと少しというところで
ほってあったのです。JIROさんのブログを読んで思い出し、再び読み始めました^^

彼の文章、とても読みやすく小説の中にすっと入り込めるのですが、
夢の中なのか妄想の中なのか・・・。どれが真実でどれが作り話なのか・・・。
突然正体の良く分からない人が接触してきたり…。など頭がグルグル。
それはまさしく、読み手の私だけではなく、小説の中の主人公が感じていることでもあり・・・。

JIROさんが抜粋されている『色彩を・・・』の中の文章を読んで、
ああ、そういうことだったんだと『ねじまき鳥・・・』の内容が少し理解できたように思います。

ちなみに、私は「どーぞ」と人から勧められると、断ることのできない性格で
(断ると相手に失礼になると思ってしまって)、つい無理しても食べてしまいます。
う~ん、アブラゼミですか~それもバター炒め(+o+) 映像が浮かんでしまいます。

それにしてもアブラゼミに至る発想に脱帽です(笑)

Re: No title

こんにちは!

なぜなんでしょうね。
伊勢海老の鬼殻焼きには舌鼓を打つのに、アブラゼミのバター炒めに引いてしまうのは。
やっぱり、セミは、岩にしみ入る声を聞いて噛みしめるものであって、口に入れて噛みしめるものではないんだろうと思います(^_^)

村上春樹の作品って、確かにどんどん読めてしまいます。
でも、いつのまにかなんだかよくわからない世界に引き入れられてしまっている。
『ねじまき鳥クロニクル』もそんな感じの長編ですよね。

いろいろ読んでいると、だんだん、「なんだかよくわからない」とか「辻褄があわない」とか「そんなことはありえない」とか、そういうことがみんなどうでもよくなってきてしまいます。
なのに読み終えてしばらくしてから、小説の中のある場面がしきりに思い出されたりしてしまう。
ほんとうの意味で「読み終わる」ことのむずかしい物語が書かれているんだろうなと思うこともあります。
で、つい、新刊が出ると買ってしまう。
どうも、出版社の戦略にしっかり踊らされてしまっていみたいです^^
プロフィール

JIRO

Author:JIRO
東京下町で開業する司法書士です。
司法書士とはなにをする人か?
・・・一言では説明が難しいです。
といって二言三言あれば説明できるわけではなし。

このブログでは、日頃の出来事や読んだ本、観た映画などのことを書きつらねてみたいと思います。
あ、お仕事のこともすこし触れていきます。

(ホームページ http://www.noguchi-office.jp/)

相続なら江東区の司法書士 みどりの杜司法書士事務所(会社設立)

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