迷惑をかけて生きるということ(映画『くちづけ』雑感)
昼寝をしようとして、ほとんど寝入る直前に鼻の頭がかゆくなることがあります。
かゆみに負けて手を鼻まで持ち上げるとせっかく兆した眠気が逃げていってしまいそう。
かといって放っておけばかゆくてかゆくてとても眠れそうもない。
かゆみと眠気との板挟みにあってにっちもさっちもいかなくなる、こういう心の状態を「ジレンマ」といいます。
ただ世間一般的には、もっと深刻な、ときに悲惨な状況の中で「ジレンマ」は生まれます。
知的障害者たちが共同で暮らすグループホームを舞台にした映画 『くちづけ』 を観ました。
障害者であるが故に過去に辛い体験を強いられた娘(貫地谷しほりと)と、その父親である竹中直人。
余命の限られた父親は、娘の行く末を案じます。
自分を、自分だけを頼り切っている娘です。
父親が遠くに旅立ってしまうなら「一緒に行く」と訴えかける娘。
人間には誰にも「尊厳」があるのだとすれば、彼女のこの言葉にもまた千金の重みがあります。
そして、父親こそが彼女の「尊厳」をいちばんよく知っています。
いよいよ死期の迫った彼には、どんな選択が残されているのか・・・
人が直面する「ジレンマ」が、せっぱ詰まったかたちで描かれます。
映画の中で父親は、しきりに「誰にも迷惑をかけられない」という言葉を繰り返します。
自分たち親子のことで、誰にも迷惑をかけるわけにはいかない。
この思いが選択の幅をどんどん狭めていきます。
袋小路へと彼らを追い詰めていく。
誰にも迷惑をかけたくない。
この言葉を以前、何度も何度も耳にしていたことを思い出しました。
かつてぼくが成年後見人をしていたおばあさんの言葉です。
施設に定期的にお会いしにいくたびに、繰り返されていました。
「わたしが生きていることでみんなに迷惑をかけている。国にも迷惑をかけている。わたしなんていないほうがみんなのためなんだ」
そんなことはありません、そんなことは気にしないでいいんです、となだめることに面会時間の大半が費やされました。
最後にお会いすることになる日までつづいたやりとりです。
人に迷惑はかけられない。
迷惑をかけてまで生きてはいけない。
そういう思いに捕らわれてがんじがらめになってしまう人たちがいます。
とても辛い、せつない思い込みですね。
この映画の「父親」もそのひとりです。
ただ、ひょっとしたら・・・
そう思い定めることは、人として「尊い」ことなのかもしれない。
ふとそんなことを考えたりもします。
でも、やっぱりなにかが違う。
どこかが微妙に間違っています。
間違っているのは「人」ではありません。
「人」を取り囲んでいる容れ物のほうです。
人は「容れ物」のなかにいて、ただ「尊厳」をもって生きるだけです。
誰の世話にもならない、誰にも迷惑をかけない、というハードボイルドでダイハードな生き方を目指すというのも悪くはありません。
でも、長い人生をその方針で貫き通すことは難しいですよね。
人は誰でも老いていくし、病気を患い、身体が不自由になることもあります。
自分だけのちからでは暮らしていけなくなるときが来る。
そうなったら、周りに迷惑をかけることをはばかる必要はありません。
胸をはって迷惑をかけたらいい。
その迷惑は、絶対に「迷惑」なんかではない。
究極の二者択一なんてしなくていい、そんな「容れ物」はあるんでしょうか。
この映画を観ていると、どこに出口があるのかわからないような気持ちにもさせられてしまいます。
でも、「少しでもよい方向」へとつながる小径は、どこかにあるんでしょうね。
力を合わせて智恵を出し合えば、たぶん、きっと・・・・
ということで、ぼくも、当面のジレンマ解消に向けて智恵を絞りました。
昼寝をするときにはあらかじめ鼻の頭に手を添えておくようにします。
かゆくなっても眠気を逃さないまま、すぐに対応できますからね。
それでは。
かゆみに負けて手を鼻まで持ち上げるとせっかく兆した眠気が逃げていってしまいそう。
かといって放っておけばかゆくてかゆくてとても眠れそうもない。
かゆみと眠気との板挟みにあってにっちもさっちもいかなくなる、こういう心の状態を「ジレンマ」といいます。
ただ世間一般的には、もっと深刻な、ときに悲惨な状況の中で「ジレンマ」は生まれます。
知的障害者たちが共同で暮らすグループホームを舞台にした映画 『くちづけ』 を観ました。
障害者であるが故に過去に辛い体験を強いられた娘(貫地谷しほりと)と、その父親である竹中直人。
余命の限られた父親は、娘の行く末を案じます。
自分を、自分だけを頼り切っている娘です。
父親が遠くに旅立ってしまうなら「一緒に行く」と訴えかける娘。
人間には誰にも「尊厳」があるのだとすれば、彼女のこの言葉にもまた千金の重みがあります。
そして、父親こそが彼女の「尊厳」をいちばんよく知っています。
いよいよ死期の迫った彼には、どんな選択が残されているのか・・・
人が直面する「ジレンマ」が、せっぱ詰まったかたちで描かれます。
映画の中で父親は、しきりに「誰にも迷惑をかけられない」という言葉を繰り返します。
自分たち親子のことで、誰にも迷惑をかけるわけにはいかない。
この思いが選択の幅をどんどん狭めていきます。
袋小路へと彼らを追い詰めていく。
誰にも迷惑をかけたくない。
この言葉を以前、何度も何度も耳にしていたことを思い出しました。
かつてぼくが成年後見人をしていたおばあさんの言葉です。
施設に定期的にお会いしにいくたびに、繰り返されていました。
「わたしが生きていることでみんなに迷惑をかけている。国にも迷惑をかけている。わたしなんていないほうがみんなのためなんだ」
そんなことはありません、そんなことは気にしないでいいんです、となだめることに面会時間の大半が費やされました。
最後にお会いすることになる日までつづいたやりとりです。
人に迷惑はかけられない。
迷惑をかけてまで生きてはいけない。
そういう思いに捕らわれてがんじがらめになってしまう人たちがいます。
とても辛い、せつない思い込みですね。
この映画の「父親」もそのひとりです。
ただ、ひょっとしたら・・・
そう思い定めることは、人として「尊い」ことなのかもしれない。
ふとそんなことを考えたりもします。
でも、やっぱりなにかが違う。
どこかが微妙に間違っています。
間違っているのは「人」ではありません。
「人」を取り囲んでいる容れ物のほうです。
人は「容れ物」のなかにいて、ただ「尊厳」をもって生きるだけです。
誰の世話にもならない、誰にも迷惑をかけない、というハードボイルドでダイハードな生き方を目指すというのも悪くはありません。
でも、長い人生をその方針で貫き通すことは難しいですよね。
人は誰でも老いていくし、病気を患い、身体が不自由になることもあります。
自分だけのちからでは暮らしていけなくなるときが来る。
そうなったら、周りに迷惑をかけることをはばかる必要はありません。
胸をはって迷惑をかけたらいい。
その迷惑は、絶対に「迷惑」なんかではない。
究極の二者択一なんてしなくていい、そんな「容れ物」はあるんでしょうか。
この映画を観ていると、どこに出口があるのかわからないような気持ちにもさせられてしまいます。
でも、「少しでもよい方向」へとつながる小径は、どこかにあるんでしょうね。
力を合わせて智恵を出し合えば、たぶん、きっと・・・・
ということで、ぼくも、当面のジレンマ解消に向けて智恵を絞りました。
昼寝をするときにはあらかじめ鼻の頭に手を添えておくようにします。
かゆくなっても眠気を逃さないまま、すぐに対応できますからね。
それでは。
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