「許すこと」と「許されること」(映画『シンデレラ』)
公開中の映画『シンデレラ』を観てきました。
誰でもが知っているおなじみのストーリーではあるけれど、ヒロインのシンデレラを中心とした人間関係がしっかりと描かれていて、見応えがあります。ダンスパーティの場面を彩る女性たちの衣装やお城のインテリアは、とても見事なロココ調。一瞬だけど、フラゴナールの名画「ぶらんこ」を思わせる場面も登場します。

この映画でなんといっても興味深かったのは、シンデレラの継母の人物造形でした。
「勇気と優しさと信じる心」をなによりも大切にするシンデレラ。
そんな彼女を、その「勇気と優しさ」ゆえに忌み嫌う継母。
継母は、ふたりの、それほど出来がよくない娘を抱えています。
そんな娘たちに幸福な縁組みをさせてあげたい、という現実があります。
継母にとってその現実こそがすべてであり、シンデレラの素直な心と優しさは、腹立たしいものでしかありません。
シンデレラに抱く継母の、この屈折の痛々しさ。
ディズニー映画というよりは、まるでシェイクスピアの世界みたいだ、と思ったら、監督はケネス・ブラナー。シェイクスピア俳優として活躍していた人だったのでした。
ともあれ、やがて物語は大団円を迎えます。
誰もが知るとおりの結末です。
攻守は見事に逆転し、継母は「おごる平家」同様、無残な敗者と成り果てます。
勝者となったシンデレラは、この継母を、もちろん「処刑」したりはしません。
「わたしはあなたを許します。」
物語のヒロインが取り得る唯一の正しい選択ですね。
たとえはらわたが煮えくりかえっていようが、彼女はじぶんが「なすべき」選択をします。
その選択に必要だったのは、彼女が胸に抱き続けてきた「優しさ」ではなく、「勇気」のほうだったかもしれません。
いっぽう継母はといえば・・・・
シンデレラの「許し」を、きっぱりと「拒絶」します。
「許し」は、ただ単に「与える」だけでは成り立たない。
「受諾」があってはじめて完結するものであることに、あらためて気づきます。
継母は「許される」ことを「受諾」なんてできないだろうなあ、というそのことに、とても説得力がありました。
受諾することを潔しとしないままに滅びの道を降りてゆく。
こういう生き方しかできない人生の、なんとあわれなことか。
『シンデレラ』の物語を観て、最後にこんな感想を持とうとは、まさか夢にも思いませんでした。
ちなみに、ぼく自身のことでいえば、「許す」と言われれば、いつだって喜んで「受諾」する用意ができています。
「勇気と優しさ」をもって「受諾」します。
ただ、その前に、きちんと許してもらえるかどうかが問題なだけです。
人はぼくに対してもっと「寛容」であるべきだと思います。
それでは。
誰でもが知っているおなじみのストーリーではあるけれど、ヒロインのシンデレラを中心とした人間関係がしっかりと描かれていて、見応えがあります。ダンスパーティの場面を彩る女性たちの衣装やお城のインテリアは、とても見事なロココ調。一瞬だけど、フラゴナールの名画「ぶらんこ」を思わせる場面も登場します。

この映画でなんといっても興味深かったのは、シンデレラの継母の人物造形でした。
「勇気と優しさと信じる心」をなによりも大切にするシンデレラ。
そんな彼女を、その「勇気と優しさ」ゆえに忌み嫌う継母。
継母は、ふたりの、それほど出来がよくない娘を抱えています。
そんな娘たちに幸福な縁組みをさせてあげたい、という現実があります。
継母にとってその現実こそがすべてであり、シンデレラの素直な心と優しさは、腹立たしいものでしかありません。
シンデレラに抱く継母の、この屈折の痛々しさ。
ディズニー映画というよりは、まるでシェイクスピアの世界みたいだ、と思ったら、監督はケネス・ブラナー。シェイクスピア俳優として活躍していた人だったのでした。
ともあれ、やがて物語は大団円を迎えます。
誰もが知るとおりの結末です。
攻守は見事に逆転し、継母は「おごる平家」同様、無残な敗者と成り果てます。
勝者となったシンデレラは、この継母を、もちろん「処刑」したりはしません。
「わたしはあなたを許します。」
物語のヒロインが取り得る唯一の正しい選択ですね。
たとえはらわたが煮えくりかえっていようが、彼女はじぶんが「なすべき」選択をします。
その選択に必要だったのは、彼女が胸に抱き続けてきた「優しさ」ではなく、「勇気」のほうだったかもしれません。
いっぽう継母はといえば・・・・
シンデレラの「許し」を、きっぱりと「拒絶」します。
「許し」は、ただ単に「与える」だけでは成り立たない。
「受諾」があってはじめて完結するものであることに、あらためて気づきます。
継母は「許される」ことを「受諾」なんてできないだろうなあ、というそのことに、とても説得力がありました。
受諾することを潔しとしないままに滅びの道を降りてゆく。
こういう生き方しかできない人生の、なんとあわれなことか。
『シンデレラ』の物語を観て、最後にこんな感想を持とうとは、まさか夢にも思いませんでした。
ちなみに、ぼく自身のことでいえば、「許す」と言われれば、いつだって喜んで「受諾」する用意ができています。
「勇気と優しさ」をもって「受諾」します。
ただ、その前に、きちんと許してもらえるかどうかが問題なだけです。
人はぼくに対してもっと「寛容」であるべきだと思います。
それでは。
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