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「自分の仕事をしただけ」(映画『ハドソン川の奇跡』)

「トム・ハンクス主演の映画に、はずれなし」という格言が辞書に搭載される日も遠くはない・・・
そう思わせられる映画を観ました。クリント・イーストウッド監督の『ハドソン川の奇跡』です。

ハドソン川の奇跡


9年前、乗客155人を乗せた民間機がニューヨークのハドソン川に不時着水した事故の映画化作品です。
トラブル発生後、着水までの208秒。わずかこれだけの時間で、飛行場に戻るという選択肢を捨てる決断をし、最高の技量で機体を無事に着水させたサリー機長。
メディアから「英雄ですね」とマイクを向けられ、こう答えます。

「自分の仕事をしただけです」

この映画を観て、このセリフにしびれた人は多いのではないでしょうか。
まさに、寡黙で腕のたしかな職人(アルチザン)としての年輪を感じさせるひと言です。
長年、ひとつのこと(飛行機の操縦)に打ち込んできた人間がもつ、ゆるぎない「風格」と言ってもいい。

いっぽう、「自分の仕事をしただけ」という言葉を、別の文脈で使った人物がいます。
ドイツの親衛隊(SS)中佐として、数百万のユダヤ人を強制収容所へ移送するに際に指揮を取っていた、アドルフ・アイヒマンです。
戦後、逃亡の末、イスラエルで裁判にかけられ、死刑となりました。

『ハンナ・アーレント』(2012年)という映画で、そのことが触れられています。



アイヒマンは、裁判の中、「自分は命じられてただ仕事をしただけ」と繰り返します。
稀代の殺人者というよりも、むしろ凡庸なまでの「小役人」の姿がそこには浮かび上がります。

「ただ、自分の仕事をしただけ」という結果として、155人の命を救う「英雄」となることもあれば、大量虐殺のお先棒を担ぐ、悪魔的「小役人」となることもある。

両者の「差」はいったいどこから来るのでしょう。
日々の仕事にいそしむとき、心の中で、胸を張って空を仰いで、「自分の仕事をしただけ」と言えるかどうか。
分岐点はそこにあるような気がしました。

それでは。




『アフリカの日々』(映画『愛と哀しみの果て』の原作を読む)

『愛と哀しみの果て』という映画があります。



いささか冗長な語り口なのに、なぜか忘れがたく印象に残る、不思議な映画でした。
その原作となっているのが『アフリカの日々』(晶文社:アイザック・ディネーセン著)。




この連休でようやく読み終えました。
なんで「ようやく」なのか。
映画を観て以来、いつかこの原作を読んでみたいと思い、昨秋、この本を購入し、「早く読みたい」という思いと、「読むのが惜しい」気持ちとが交錯して長らく「積ん読」状態が続き、でも、今年の夏も終わったいま、考えてみれば、いや考えるまでもなく、来年になればまた「来年の夏」が終わってしまうわけで、その前に、いまこそ「区切りをつけなければ」というわかりにくい理由に駆り立てられて一念発起、この連休で一気に読み終えました。
感想は・・・「やっぱりいま読んでよかった」と「読み終えてしまったのが惜しい」とが交錯しています。

映画は、映像美あふれるラブストーリーとなっていて、ノスタルジックな味わいにも事欠きません。
それと比べ、『アフリカの日々』は一貫した筋立てがある小説ではなく、ディネーセンによる日々の記録、いわば回顧録です。

文章は主情に流れることなく、あくまでも淡々と綴られます。
でも、抑制しようとしてもしきれない思いがにじみ出てくることもあります。
それは、土地に暮らす人たちのたくましさや気高さに対する「敬意」であったり、動物たちの賢さ、崇高さに対する「感嘆」であったり、自然の雄大さ、神々しさに対する「賞賛」であったりします。

映画ではロバート・レッドフォードが演じる冒険家、デニス・フィンチ=ハットン。
「強い絆に結ばれた友人」として登場します。友人以上の存在であったことは、ただ行間でのみ語られます。
彼の悲劇的な最期も、見晴らしのいい丘陵に埋葬するまでの一部終始も、文章はつねに抑制されています。

たとえばこんなふうに。

「彼はこの高地を吸収し、この土地はデニスの個性の刻印をうけて、彼自身の心象のなかでかたちを変え、デニスの一部となった。いまアフリカはデニスを受け入れ、彼を変え、アフリカそのものの一部とするであろう。」(403頁)

デニスが彼女にとってどれだけかけがえのない存在だったのか。
この簡潔な描写のなかに、すべてが凝縮されています。
朝な夕なに現れて、墓のうえで横たわるようになったという二頭のライオン。
思わず胸を打たれる後日談です。
王墓を守るスフィンクスみたいです。

このエピソードは、映画でもまた余韻の残る名場面となって描かれていますね。
『愛と哀しみの果て』という長尺の映画が深く印象に残るのは、このシーンあればこそなんだろうなと思います。

アフリカに魅せられ、ときとしてその大地や丘陵と同化してしまうほどアフリカそのものを愛したディネーセン。
でもまた、別れのときはいやおうなく訪れます。
諸般の事情が押し寄せ、やむなくアフリカを去る最後のそのとき・・・・
「アフリカ」は、まさに人格を備えた存在として彼女の前に顕現します。

「去ってゆくのは私ではない。アフリカを離れるなど、私のとぼしい力をもってしては到底できない。逆に、引き潮のようにゆるやかに、かつおごそかに私から遠のいてゆくのは、このアフリカのほうなのだ。」(432頁)

荘厳なまでの擬人化ですね。
誰かに袖にされたときなどのために、この部分をストック・フレーズとして心に用意しておくといいかもしれません。

「去ってゆくのは私ではない。・・・引き潮のようにゆるやかに、かつおごそかに私から遠のいてゆくのは、彼女のほうなのだ。」

失恋の痛手など、軽々と超克できるとは思いませんか?
無理かな、やっぱり。

それでは。


「想定外」を具現化(映画『シン・ゴジラ』)

公開中の映画『シン・ゴジラ』が面白いです。
2年前、ハリウッド製『GODZILLA ゴジラ』を観て、その迫力に圧倒されました。
そのとき、もう日本でゴジラ映画を撮っても仕方がないとまで思ったけど、とんだ思い違いでした。
今回の『シン・ゴジラ』、世界中に胸を張って見てもらえる日本映画です。
「怪獣」映画というくくり方をしてよいのかどうかわからなくなるような、観ている側に緊張を強い続ける映画です。

5年前、日本は「想定外」という事態が現実に起こることを体験しました。
国のシステムが、「想定外」に対してはいかに無力であるかも思い知らされました。
この映画でのゴジラは、まさに「想定外」という事象の具現化として眼前に現れます。
ゴジラには、「人々を恐怖におとしいれる」といった「意図」はありません。
「都市を破壊する」という「目的」もありません。
ただ、「想定外」の存在として「存在」します。
そのことに、どうしようもないリアリティを突きつけられます。

絶望的な展開の映画の中で、2つのことに救いが感じられました。

ひとつは、対処する側の人たちが、途方に暮れながらも概して冷静な態度を崩さないこと。
首相は、頼りなさげであったり茫洋としていたりするけど、少なくとも取り乱したりする姿は見せません。
ただ一度、対策責任者が怒声を発する場面でも、即座に同僚は水のペットボトルを彼の胸に押しつけ、落ち着かせます。
危機的状況であればあるほど、クールダウンをこころがける。
日常生活レベルでも役立つ教訓です。
たとえばレストランで食事中に財布を忘れてきたことを思い出した、というときなどに是非生かしたいものです。
とりあえず慌てずに、最後まで食べきりたいものです。
それ以前に、外出時には財布を忘れないようにしたいものです。

もうひとつの「救い」は、この想定外の脅威に立ち向かい、未曾有の危機を安定させるのが、カリスマ的な指導者でも限定されたヒーローでもなく、日本人ひとりひとりの英知と勇気の集合である、という点。
これまでこの国で繰り返されてきた災厄を乗り越えてきたのは、乗り越えられたのは、まさにそのパワーがあったからではないでしょうか。こういう国土で生きなければならない宿命を負ったわれわれにとって、それを信じられることこそが「希望」であり「光明」です。

「いささか甘いのでは」というお叱りを受けるかも知れません。
でも、このビターきわまる映画に、その程度の「蜜」はトッピングしてかまわない気がしました。

それでは。


疑似家族の「いま」(『プラージュ』:誉田哲也)

賃貸住宅市場で、いま、「シェアハウス」が注目されているみたいです。
ひとつの住居を複数で利用する。コスト面でのメリットはもとより、さまざまな事情を抱えた人たちにとって利用しやすいという側面もあります。

そんな、シェアハウス(のような住まい)を舞台にした小説を読みました(『プラージュ』:誉田哲也)。



住んでいるのは、みんなどこかいわくありげな人たちです。
どんな「いわく」かといえば・・・それぞれ、かつて過ちを犯し、前科を負ってしまった人たちばかりが寄り集っている、ということ。
お互い同士、事情を抱えていることがわかっているから、住人たちはみんな、無遠慮に相手の心に踏み込むことをしたりはしません。作中、「暴くまでもなく、晒される。隠さなければ、暴かれることもない」と語られる関係です。でも、誰かが危難に遭えば、体を張ってでも助け出そうとしたりもします。
住人のひとりは、こんなことを感じます。

 「不安になるほど、ここには垣根というものがない。なのに、それが不思議と心地好い。」

普段は適度な距離をとって接しているのに、いざとなれば一気にその距離をとっぱらってしまう。そんな不思議なコミュニティです。

以前、映画にもなった『パレード』(吉田修一)という本では、かなり違った関係が描かれていました。マンションの一室で共同生活することになった数人の男女。一見、和気あいあいのように見えるその暮らしぶりとは裏腹に、お互いの「本当の姿」に対して、徹底的に無関心です。身近に接していながら、お互いの姿をなにも見てはいない、見えてもいない。読み終えて思わずぞっとするほどのリアリティがありました。

『プラージュ』も『パレード』も、一種の「疑似家族」テーマの物語です。
「疑似家族」は、これまで繰り返し小説や映画で描かれ続けてきました。
たとえば28年前に書かれた『キッチン』(吉本ばなな)でも、フィクショナルな「家族」との生活の中で、ただゆっくりと主人公は再生していきます。

『パレード』を読むと、いまがそんな時代とはかけ離れてしまったことを感じさせられます。
いっぽう『プラージュ』は、このうそ寒さを感じさせる「表面的」なだけの人間関係に疑問符を投げかけ、もういちど揺さぶりをかけるかのようなお話です。

もちろん、「シェアハウス」はよいことばかりではありません。
ハウスを経営する女性は、若い住人にこう語ります。

 「ずっとここにいることは、誰にも、できないんだからね。そのうち君は、ここを出ていかなきゃいけないんだからね・・・」

テンポラリーであることが宿命であるシェアハウス。
「プラージュ」とは、フランス語で「海辺」を意味するとのこと。
どんなに居心地がよかろうが、いずれは立ち去る場所が「海辺」です。
立ち去って、残るのはただ思い出だけ。

ぼくは「海辺」にたたずんだ思い出というのは、ほとんどありません。
なのに「海辺」から連想される言葉は「沈む夕日」です。
なぜなんでしょうね。べつに夕日に向かって叫んだ思い出があるわけじゃないんだけど。

それでは。


ハードボイルドな女絵師(『眩(くらら)』:朝井まかて)

墨田区が発行する印鑑証明書をみると、その裏側には、かの有名な『神奈川沖浪裏』がデザインされています。

神奈川沖浪裏

地元墨田区に生まれた天才浮世絵師、葛飾北斎。
もしまだ存命だったら、間違いなく「国民栄誉賞」に輝いていたと思います。
その北斎を、「郷土の偉大な芸術家として顕彰」するために開設されることとなった「すみだ北斎美術館」が、いよいよ今年11月にオープンされます。待ち遠しいです。

ところで、北斎には、お栄(号は「応為」)という娘がいました。
晩年の北斎に、「美人画では応為にかなわない」と言わせたほどの絵師だったそうです。
そのお栄が主人公となる小説(『眩(くらら)』:朝井まかて)を読みました。



気むずかしい北斎を支え、身内の不始末に苦労を重ねるお栄。
実りのない恋模様なども絡めながら、西洋画の明暗法に傾倒し、特徴ある細密描写を生み出すさまが描かれます。

後半、「三曲合奏図」という肉筆画誕生の場面が興味深く書かれています。

三曲合奏図

琴、三味線、胡弓、この三つの楽器を奏する三人の女を、画面の中でどのように配置するのがよいか。
最適な構図を求めて工夫を凝らし、苦心を重ねます。
この箇所を、画集やネットなどで実際にこの絵を見ながら読むと、面白さが倍増するのでは。

ルノワールのこのデッサンと、構図が似ている気がしますね。
すこし不思議です。

ルノワール

生没年も不詳というお栄の生涯には、輪郭線がないようにも見えます。
この時代、表舞台に立つことが難しかった多くの女性と同じように。
だけど、輪郭なんて関係なく、くっきりした明暗の中に彼女はその生きたその証を残しました。
北斎の死後、忽然と行方をくらましたというお栄。
大人しく額縁の中に納まることを拒み、ひとり浮世の荒波の中に漕ぎだしていくかのようです。
物語のラストに浮かび上がってきたのは、意外にもハードボイルドな、颯爽とした女絵師の姿だったのでした。

それでは。


日曜日の正しい過ごし方について(「小泉今日子書評集」:中央公論新社)

『日曜日には鼠を殺せ』という映画がありました(1964年:フレッド・ジンネマン監督)。
日曜日の過ごし方としてはかなりユニークです。
でもぼくにはとくに殺す鼠もいないので、日曜日にはまずコーヒーを飲みます。
そして朝刊を開き、書評欄にさっと目を通します。

チェックするのは、タイトルと著者名、それに評者。
評者のひとりに小泉今日子がいました。
アイドル時代からおなじみのひとではあるし、気になる名前です。
ただ、とくに熟読はせず、斜めに読むだけだったと思います。
今回、その書評を一冊にまとめた本を手にしてみました( 「小泉今日子書評集」:中央公論新社)。



読んで驚いたのは、彼女の書評が、日曜日ごとに10年間も続いていたということ。
それと、この書評に目を通したことがきっかけで読んだ本が何冊かあったということです。

彼女の書評は、その短い文章の中に、惹きつける「読ませどころ」がどこか一箇所は置かれています。
たとえば、

 「自分よりも弱い何かを守ると決めた時、男の子は男になるのかもしれない」(「たまもの」:小池昌代)

 「時というものは残酷でもあるし、優しくもある。私の骨にもまだいくつかの染みが残っている」(「骨を彩る」:彩瀬まる)

 「人前だろうと一人だろうと、うわぁーんと大きな声で心からなけたなら、それは大人になるための二度目の産声なのかもしれない」(「逢沢りく」:ほしよりこ)


などなど。

言葉のセンスのよさも随所で感じられて、読後感のよい書評集でした。
新聞の書評欄にまた復活してくれたら、こんどはきちんと熟読します。
『日曜日にはコイズミを読む』というのは、朝のひとときの過ごし方として「Not bad」だと思います。

それでは。





「贅沢と幸福は別物だ」(『新しい道徳』(北野武))

ようやく知事が辞任することになりました。
都民のひとりとして、他府県の方々に肩身の狭い思いをすることもなくなりました。
ほっとしました。

ことは法規云々の話ではなく、倫理とか人としての節度の問題に終始しました。
品性とはなにか。生きるうえでの良心とは。
普段、あらたまって意識することの少ないテーマです。

北野武の『新しい道徳』(幻冬舎)に、こんなことが書かれています。



 「どんなに高いワインより、喉が渇いたときの一杯の冷たい水の方が旨い。
 お袋が握ってくれたオニギリより旨いものはない。
 贅沢と幸福は別物だ。慎ましく生きても、人生の大切な喜びはすべて味わえる。
 人生はそういう風にできている。」


さすがに「世界のキタノ」です。いいこと言います。
もちろん、彼自身、通常人ではありえない「贅沢」を体験することもあるでしょうね。
それでも、そんな自分自身をどこか醒めた目で見下ろしている、べつの「キタノタケシ」が常に傍らにいる。
そのことだけは疑わせません。

この本では、ネットの世界の風潮を指して、こんなふうにも書かれています。

 「この中で罪を犯したことのない人が、最初に石を投げなさい」
 キリストにこういわれて、昔の人はみんな黙り込んでしまったけれど、今は「じゃあ僕から」っ
 て、どんどん石を投げちゃうんじゃないか。


今回の辞任騒動で、東京都民はみんな品性や良心をめぐる命題を考えさせられたのでは。
その意味で、またとないよい機会を与えてくれた知事ではありました。
石は投げるだけが能ではないことを教えてくれました。
まさに、「他山の石、以て玉を攻むべし」、です。

それでは。



人生の花道はどこに?(映画『教授のおかしな妄想殺人』)

ウディ・アレンの最新作、『教授のおかしな妄想殺人』を鑑賞。
軽妙、コミカルなミステリー、といった味わいの映画です。
映画のバックには軽快なジャズが流れつづけます。
スクリーンと音楽に身を委ねていると、いつのまにかはじまるエンディングロール。
2時間を超える映画が多い中、90分の上映時間にはほっとします。

主人公は「人生に『意味』はあるのか」と悩む厭世的な哲学教授。
この厭世ぶり、アレン映画ではおなじみのキャラクターです。
その彼があるとき、世直しのための「正義の殺人」を思いつき、その計画に熱中する。
でもそこに『罪と罰』のラスコリニコフのような重苦しい葛藤は微塵もありません。
逆に、犯罪遂行に生きがいを見いだし、表情も明るく輝き、女子学生にもててしまったりします。そしてあっさりと手に染める殺人行為。
さてこの「完全犯罪」の行方は・・・・
それは映画を観てのお楽しみ。

ウディ・アレンがこの映画で描きたかったことは何なのか。
どうも、「殺人」という犯罪の顛末そのものではなかったような気がします。
ラストのラスト、ある「取るに足らないモノ」が主人公の運命を反転させてしまう、その「瞬間の皮肉」にこそメッセージが凝縮されているのでは。あとのことはすべて長い「前振り」に過ぎなかったのでは。どうもそんな気配を感じます。

では、それはどんな「メッセージ」なんでしょう。
「人生の意味」を問い続け、「生きがい」を求めてあくせくして、「最後の瞬間」に直面していることにも気づかずに、ただあっさりとこの世からフェイドアウトする。良くも悪くも、人間なんて所詮みんなそんなふうにして人生の幕を閉じていく・・・重たいメッセージなのに、そうとは感じさせないところに彼の「芸」があります。

ウディ・アレンも御年ついに80才。
いよいよ身の始末のつけ方が気になってきているのでしょうか。
日本には、「願はくは花の下にて春死なむ その如月の望月のころ」という歌がありますね。ひょっとしたら彼にも気に入ってもらえるかもしれません。

それでは。

『若冲展』で思ったこと

ゴールデンウィークの最中、『若冲展』 (東京都美術館)に行ってきました。
混雑は覚悟のうえ。だから、早朝8時半にすでにこんな行列が出来ていても驚いたりはしません。

IMG_0280.jpg

ちょっとびっくりだったのは、係の人が行列待ちの人たちに「日傘」を配っていたこと。
「転ばぬ先の日傘と帽子」は、今回の『若冲展』では欠かせないアイテムかもしれません。

さて、行列はすごかったけど、早起きした甲斐があって、9時半、開館と同時に入館ができました。
中の混雑は、これはもう仕方がありません。
お目当ての「動植綵絵三十幅」は、広いスペースの中、ずらりと展示されていました。
「ゆったり」というわけにはいかないけれど、そのすばらしさをじゅうぶんに体感、堪能できた気がします。

「動植綵絵」については、「神業としか思えない超絶技巧」などと言われます。実際、その表現力や想像力にあふれたどの作品を前にしても、見入れば見入るほど頭がくらくらしてきます。もうほんとにすごいです。

今回、この「動植綵絵三十幅」に囲まれていると、若冲はなにを考えてこんな絵を描いたのかがやっぱり気になってきます。
脈絡もなくふと「欠落」とか「孤独」という言葉が浮かんできました。

「喪失」ではなくてただの「欠落」。
「孤高」ではなくてただの「孤独」。

そう思って眺めると、画の中の鶏も鶴も雁も小鳥も、さびしそうに見えてきます。
たくさん群れている雀や魚や虫たちだって、せんじつめればみんなひとりぼっち。
深い孤独と不安の中、「何か」に取りすがろうとしているような息苦しさが感じられてきます。自分の力ではどうしようもない、宿命的に欠落している「何か」です。
その欠落を埋め合わせるためには、イメージにかたちを与え、増殖させつづけるしかありません。

今回、「動植綵絵三十幅」と同時に、「釈迦三尊像」三幅が展示されています。
「動植綵絵」はもともとこの「釈迦三尊像」を厳かに飾るために描かれたものなのだとのこと。でも、それは話が逆ではないかな、と思いました。
「動植綵絵」のためにこそ、この「釈迦三尊像」は描かれた。
三尊から放たれる光明は「動植綵絵」の中のすべてのいきものたちに安らぎを与えます。
行き場のない不安を慰藉し、増殖し氾濫するイメージをなだめます。

では、「安らぎ」のその先に「救済」はあるのか。
それとも、所詮「安らぎ」は束の間のものに過ぎないのか。
若冲は晩年の水墨画で、その答えを探り続けていたのかもしれません。

これは、若冲75才のときに描いた『蓮池図』です。

若冲

欠けても枯れても破れても、月日が巡ればまた「再生」する。
寄る辺ないように見えて、実はたくましい蓮の花です。


自宅近くに空き地があります。そのアスファルトを突き抜けてポピーが咲いていました。



地面から、というよりも、もっとずっと深いところからすっくと立ち上がっているみたいに見えます。
「妙なところから顔を出してしまった」と、がっかりしているひまはありません。
場所を選べないなら、はじめから場所は選ばない。
淡々としていて、なかなか潔いです。
若冲だったらこのポピー、どんな画に描いてみせてくれたでしょうね。

それでは。




かささぎの架ける橋

早朝、家を出ると、聞き慣れない鳥の啼き声に上を見上げました。
電柱のあたりを、五,六羽の鳥が飛び交わしています。
どこかから渡ってきてひと息ついているところなのでしょうか。
朝空を背景に見えるシルエットでは、尾がすこし長い鳥たちでした。
かささぎ、かもしれない。
根拠は何もないけど、ふとそんな気がしました。
今の時期、この地域ということでいえば、生態分布的にありえないのかもしれません。
でも、そうだったらいいなと思いました。

かささぎは、その名前とはうらはらに、スズメ目カラス科の鳥です。「サギ科」ではありません。
「まるで詐欺のような話だ」というネタは、居酒屋雑談用にストックしておきましょう。
使いどころにはかなり悩みそうですけど。

ところで、百人一首に、こんな歌があります。

  かささぎの わたせる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける

この歌は、七夕伝説が下敷きになっています。
七夕の夜には、織女と牽牛の逢瀬を叶えるため、かささぎが翼を交わしあって天の川に橋をかける。
男女の機微を解する風情もあり、鳥にしてはなかなか乙な計らいのできるかささぎなのです。
でも、かささぎはカラス科なのに、なんで「白きを見れば」なのか。

『田辺聖子の小倉百人一首(上)』(角川文庫)を読むと、〈カササギというのはどんな鳥です?〉という問いに、〈カラス科の鳥で、ただしおなかのところは純白だそうです〉と答え、こんなふうに愉快に結論づけます。

 〈鳥が羽を拡げて橋を渡すと、地上から見上げる人間の目には、モロ、白い部分が見えますね。下から見上げれば白い橋ですな〉

なるほど、そういうことか。
黒い影のシルエットとはならず、星のひかりを映して、白く輝いて見えたのかもしれないですね。
ただ、いっぽう、この「かささぎ」は、ことによると「しらさぎ」だったのでは、という気もします。
どこから見ても白一色のしらさぎだったら、星のひかりに頼らなくても、白く神々しく輝いたに違いないです。

これは、先日、目黒の自然教育園で間近に見かけたシラサギです。

sirasagi.jpg

水面に映り込むじぶんの姿に、その優雅さに、時を忘れて見惚れているシラサギ・・・・というのは少し事実と違います。
水中の小魚を狙い澄まし、目にもとまらない速さで捕獲している最中でした。
池を彩る満開の桜にも関心はなさそう。
とりあえず生きていくことが優先だから、「風情」は二の次、というのも仕方がないですね。

それでは。


プロフィール

JIRO

Author:JIRO
東京下町で開業する司法書士です。
司法書士とはなにをする人か?
・・・一言では説明が難しいです。
といって二言三言あれば説明できるわけではなし。

このブログでは、日頃の出来事や読んだ本、観た映画などのことを書きつらねてみたいと思います。
あ、お仕事のこともすこし触れていきます。

(ホームページ http://www.noguchi-office.jp/)

相続なら江東区の司法書士 みどりの杜司法書士事務所(会社設立)

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